見渡せる部屋、見えなかったもの。
すべてが穏やかに見えていた。それでも空気の奥で、何かがきしむ音がしていた。
この章は、そんな“揺らぎの始まり”の話し。
ある大きな出来事が、始まろうとしていた。
そのことを、母も、私も、まだ知らなかった。
私が二歳すぎのころ。
堅実に生きた母が、東京にマンションを購入した。
3LDKの広いリビング。
キッチンに立つと、ほとんどの部屋が見渡せるような間取り。
私がどこにいても、母の視界の中にいる。
一目で気に入り、その場所を選んだのだと言っていた。
真ん中くらいの階。たしか、十一階建ての六階か七階。
もちろん、母自身の力で。
母は簿記の資格を持ち、不倫相手の会社で事務職をやりながら、友人の仕事も手伝い副収入もあった。
きっと、経済的にも心の持ちようも、自立していた。
不倫相手は、私の二歳の誕生日のあとも母のところへ来ていた。
けれど、その頃には、母の態度が少しずつ変わり始めていた。
静かに、でも確かに。
冷めたようにも見えたけれど、まったく会わないわけではない。
笑顔の数は減っても、ときどきふと笑う。
その曖昧さが、かえって不倫相手を戸惑わせたのかもしれない。
怒るにも怒れず、理由を聞くこともできない。
そんな母の気配を追うように、不倫相手が訪ねてくる回数は増えていった。
花束。ブランドの紙袋。
「エレベーターに乗せるの、大変だったよ」と笑い、
私には自転車やおもちゃを抱えてきた。
けれど、その優しさは長くは続かなかった。
母は気にしていないように見えた。
むしろ、「これで別の人ができてくれたら、それでいい」と
どこか静かに願っていたようにも思う。
でも、現実はまったく違う方向へ進んでいた。
驚くような出来事が、すぐそばまで迫っていた。
そしてある日突然、
母と私は、その“驚き”の中へ――
無理やり巻き込まれていった。
