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自由と責任―それは本当に自由か、それとも、ただのわがままか―

この記事はAI(Claude)との対話を通じて生まれたものであり、ここに書かれていることはひとつの解釈として読んでほしい。断定ではなく、問いとして提示している。

自由を主張する人は多いけれど


自由や権利を主張する人は多い。でも、その言葉をよく聞いていると、いつも都合のいい部分しか語られていないことに気づく。

コロナが広がったとき、ワクチンを打たない自由、行動を制限されない自由が語られた。マスクをしない自由も語られた。どれも、個人が自分の体をどうするかを自分で決める、という意味では、正当な主張だったと思う。

でも、その選択によって自分がどんなリスクを引き受けるのか、周りにどんな影響が及ぶ可能性があるのかまで含めて、丁寧に語る人は少なかった。

逆側も同じだった。ワクチンを勧める側は、安全性をどこまで確認したのか、どんな副反応の可能性があるのか、その情報をどこまで正直に説明する責任を果たしたのか。そこを丁寧に語らないまま、「みんなで打とう」という空気だけが先に広まっていった場面が、少なからずあったと思う。

マイナンバーカードのときも、似たような構図があった。便利になる、行政手続きが早くなる、という都合のいい部分ばかりが前に出て、個人情報を一元的に預けることのリスクや、それを管理する側が負うべき責任については、十分に語られないまま進んでいった。

コロナワクチンもマイナンバーカードも比較的、
記憶に新しい事象だろう。
都合のいい部分しか語られなかった結果、その後
どうなったかは言うまでもないだろう。

自由には、責任が伴う。
権利を主張するなら、義務が生じる。
何かの利便性を得るなら、代わりに何かを差し出すことになる。
これは当たり前のことのはずなのに、なぜかいつも、都合のいい部分だけが語られて、都合の悪い部分は語られない。

これは、意図的に隠されている場合もあれば、誰も悪意なく、ただ自然と都合の良い部分だけが広まってしまう場合もあると思う。ただ、どちらであっても、結果として起きることは同じだ。片方だけの言葉が独り歩きし、もう片方は忘れられていく。

自由は、一人では成立しない


そもそも自由とは何だろう、と、ここで一度立ち止まって考え直してみたい。

誰もいない無人島に、たった一人でいる人を想像してみる。その人が何をしようと、誰にも邪魔されないし、誰にも迷惑もかからない。でもこの状態には、実は「自由」という言葉はあまり意味を持たない。自由とは、本来「何かに縛られない」という、比較の中で初めて生まれる感覚だからだ。比べる相手がいなければ、自由も不自由もない。ただそこにいるだけだ。

自由という言葉が本当に意味を持つのは、必ず他人がいて、自分の選択が誰かの選択とぶつかり合う可能性がある場面だ。だとすれば、自由という言葉の中には、最初から「他人もまた、自分と同じだけの自由を持っている」という前提が、あらかじめ組み込まれていることになる。

だから、自由には責任が「付け加えられる」のではなく、自由という言葉そのものの中に、責任が最初から溶け込んでいる。責任が抜け落ちた時点で、それはもう自由という言葉で呼んではいけない、別の何かに変わっている。

それは自由か、ただのわがままか


人のことは批判するのに、自分が批判されるのは嫌だという人がいる。都合の悪いことは、いつも誰かのせい、何かのせいにする人がいる。

これは自由ではなく、ただのわがままだ。

自由とわがままの違いは、突き詰めると、次の三つに集約できると思う。

一つ、その人は自分の選択の結果を、他人のせいにせず、自分のものとして引き受けているか。

一つ、その人は自分が主張する自由を、他人にも同じだけのものとして認めているか。自分だけの特権にしていないか。

一つ、その人はその選択によって、他人の自由を踏みにじっていないか。

都合の悪いことを人のせいにする人、批判はするが批判はされたくない人、自分だけが特別だと思いたがる人。この三つは、一見バラバラな症状のように見えて、実は根っこは一つだと思う。自分だけを世界の中心に置いていて、自分以外にも、同じだけの重みを持った人間がいるという事実を、心のどこかで認めていない。

自由:選ぶ権利を持ち、その結果も自分のものとして引き受ける

わがまま:選ぶ権利だけを主張し、結果は他人や状況に押し付ける

都合の悪いことを人のせいにする人は、そもそも自由を使っていたのではない。最初からわがままを、自由という聞こえの良い言葉で覆っていただけなのだと思う。

なぜ人は、都合の悪い部分を見ないのか


ここで一つ、厄介な問題が出てくる。人はなぜ、こんなにも簡単に、都合の悪い部分を見なくなるのか。「人間は弱いから」という言葉で片付けられがちだが、それはどこか本質をぼかした言い方のようにも思う。
もう少し正確に言うなら、人は「見ない」のではなく「見たくない」のだと思う。

理由はいくつかに分けられる。
まず、人は物事を中立に見てから判断しているのではない。 先に「自分は正しい」という結論があって、それに合う理由を後から探している。

例えば同じ失敗をしたとき、自分の場合は「事情があった」、他人の場合は「言い訳だ」となる。うまくいった時は自分の実力、うまくいかなかった時は環境や誰かのせい。この振り分けは、ほとんど無意識に、自動的に起きる。

次に、もっと深いところにある理由がある。 「自分は正しい人間だ」「自分は自由や誠実さを大事にしている」という自己イメージと、「都合が悪い時だけ責任を放り出している」という自己の事実が、同時に頭の中にあるとき、人間は強い居心地の悪さを覚える。

この居心地の悪さを消す方法は、二つしかない。

事実を認めて、自分の醜さも受け入れるか。
事実の方を歪めて、自分は悪くないと思い込むか。多くの人は、楽な方を選ぶ。

そしてもう一つ、一番深いところにある理由。
見たくない自分を、本当の自分だと認めることそのものへの恐れだ。自分は特別ではない、他の誰とも変わらない、弱さも醜さも持った、ただの一人の人間に過ぎない。

これは本来、恐れる必要のない、ただの事実のはずだ。でも、それを怖いと感じる人がいるとしたら、その人にとって「特別であること」が、自分の存在価値そのものと結びついてしまっているからかもしれない。特別でなければ価値がない、と思い込んでいる人ほど、都合の悪い自分を直視することを、強く拒む。仏教ではこれを「執着」と呼び、執着こそが苦しみの原因だと説いている。

だから、都合の悪いことを見ようとしないのは、能力が足りないからではない。見た瞬間に苦しくなるから、無意識のうちに目をそらしているだけだ。見えていないのではなく、見ないようにしている。

見たくない自分は、消えていない


ただ、ここで一つ、大事なことがある。都合の悪い自分に目を背け続けている人であっても、本当の自分は心の中から消えてはいない。

見たくない自分を押し込めていても、それは心のどこかに残り続けている。だから、言葉と行動がズレてくる。
口では「自由を大切にする」と言いながら、行動では平気で人を支配しようとする。
口では「寛容だ」と言いながら、態度の端々に苛立ちや軽蔑が滲む。
本人はそのズレに気づいていないことが多いが、ズレは必ず、どこかに症状として現れる。見た目に、言動に、行動に、その端々に症状が見え隠れする。

矛盾が生まれるということは、実はその人の中に、まだ本当の自分が残っていて、心のどこかで仮面の自分と抵抗し続けている証拠でもある。完全に仮面(ペルソナ)と一体化してしまった人には、そもそも矛盾すら生まれない。仮面(ペルソナ)と本物の区別そのものが、その人の中から失われているからだ。

だからこそ、その矛盾を指摘すると、人は強く感情的に反応することがある。的外れな指摘なら、人はそこまで揺さぶられない。「それは違う」と冷静に否定するか、笑って流せるはずだ。感情の強さは、その指摘がどれだけ核心を突いたかを教えてくれる、逆説的な目印になる。図星でなければ、そこまで感情的になる必要がないからだ。

主体性の所在は、どこにあるか


ここまで考えてきて、結局のところ、すべては一つの問いに戻ってくる。主体性の所在は今、どこにあるのか。

これは個人の話だけではない。国と国民の関係にも、同じ構図が見える。主権は国民にあると言われながら、多くの国民は日々の判断を、国という存在に預けてしまっている。そして国もまた、本来自分たちの国にあるはずの主体性を、他国や国際的な力関係、あるいは市場や投資家に、少しずつ委ねてしまっている場面がある。主体性の所在が、国民から国へ、国からさらに外側へと、外に向かって流れていく。

この構図の中で、まだ主体性を自分の手に握っている人の目には、その流れの先にあるものが「日本が食い物にされている」ように映る。
これは断定できる話ではないけれど、一つの視点として見た場合、そう捉えることも出来ると思う。

自由と責任の話も、この主体性の所在という問いと、実は同じ根を持っている。

自由を主張するとき、人は主体性を自分のものだと無意識に言っている。でも、責任を問われた瞬間だけ、その主体性を意図的に他人や状況に投げてしまう。都合よく、主体性の置き場所を使い分けている。これが、ダブルスタンダードの正体だと思う。

ダブルスタンダードという言葉は、聞こえだけは中立で、学術的にすら聞こえる。でも中身を見れば、ただのわがままだ。都合よく自分にだけ甘い基準を使っているだけの話を、聞こえの良い言葉で覆っているに過ぎない。

もし本当に主体性が自分にないのなら、権利を主張することもできないはずだ。権利を主張できるということは、主体性は間違いなく自分にある。それなのに、責任の場面だけそれを手放したふりをするのは、自分の主体性は都合よく使いながら、相手の主体性、つまり自分を判断し批判する権利は認めない、という二重の不誠実さでもある。

自分に正しさがあると主張するなら、相手にも同じだけの正しさがあることを、認めなければならないはずだ。

それでも、自分の輪郭は守っていい


見ず知らずの誰かが感情的にぶつかってきたとき、同じ土俵に立たずにいることはできる。
自分が冷静であれば、相手も感情的でい続けるのがむずかしくなる。それだけで、多くの衝突は生まれずに済む。

それでも相手が踏み込んでくる場合には、自分が相手の鏡となってその人が見たくないものを、そのまま映して見せることもできる。あなたの振る舞いは、こういうことですよ、と冷静にそのまま返すだけだ。

これは相手を攻撃することではない。同時に、それ以上自分の内側に踏み込ませないための、境界線を引く行為でもある。
相手の自由(何を言うか)は尊重しながら、自分の自由(どう応じるか)も、同時に手放さない。その両方を同時に成り立たせる場所に、静かに立ち続けるということだと思う。

そして、この関係は一方通行ではない。自分が相手にとっての鏡になると同時に、相手もまた、自分にとっての鏡になる。
誰かの言動に強く心が揺れたとき、その感情がどこから出てきたのか、自分の内側に探しに行く。そうすることで、他人を映すはずの鏡が、いつのまにか自分自身の見たくない部分を映し出していることに、気づかされるきっかけにもなる。

最後に


自由には責任が伴うのではなく、自由は責任を内包している。都合のいい部分だけを主張して、都合の悪い部分を誰かに押し付けた瞬間、それはもう自由ではなく、ただのわがままだ。

そして、その使い分けに気づかないまま、人は他人にも同じ言葉を投げかける。自由を主張しながら、自分がされて嫌なことを、平気で相手にしている。それは相手への敬意を欠いた行為であり、相手の主体性を奪う行為でもある。

あなたが今、自由だと思っていること、権利だと思っていることは、本当に自由だろうか。それとも、都合のいい部分だけを見た、わがままではないだろうか。

そして、もし都合の悪いことに直面したとき、その主体性を、まだ自分の手の中に握っていられるだろうか。生殺与奪の権利(主体性)を、いつのまにか何かに預けてしまっていないだろうか。

それを自身に問い続けること。それが今、自分にできることなのだと思う。

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