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生活未処理課 #07 使わなかった可能性の保管場所

生活未処理課のカウンターの奥には、扉がある。

普段は閉まっている。
色は薄い灰色で、ほかの事務室の扉とほとんど変わらない。
ただ、取っ手の上に小さなプレートが貼られている。

関係者以外立入禁止。

市役所にはよくある表示だった。
けれど、生活未処理課で見ると、少しだけ意味が違って見えた。

その日、窓口に来た男性は、その扉ばかり見ていた。

五十代前半くらい。
スーツではないが、仕事帰りらしい落ち着いた服装をしている。
手には何も持っていなかった。
番号札を取ったあとも、待合の椅子に座ったまま、何度か奥の扉に目を向けていた。

「四十一番の方」

女性職員が呼ぶと、男性はゆっくり立ち上がった。

「どうぞ」

男性はカウンターに座ってからも、しばらく言葉を探しているようだった。

「ここでは、昔選ばなかったものも扱っていますか」

職員は引き出しを開けた。

「使わなかった可能性でしょうか」

男性は、少しだけ苦笑した。

「そういう名前になるんですね」

「はい。多いです」

「多いんですか」

「はい。特に雨の日と、同窓会のあとに増えます」

「今日は晴れてますけど」

「では、別のきっかけですね」

職員は一枚の申請書を出した。

可能性保管記録 照会申請書。

男性はその文字をしばらく見ていた。

「保管されてるんですか」

「すべてではありません」

「すべてではない」

「はい。本人が何度も思い出しているもの、捨てたつもりで残っているもの、選ばなかった理由が未整理のものなどは、保管記録が残っている場合があります」

男性は、少しだけ息を吐いた。

「じゃあ、あるかもしれません」

「まず、照会内容をお書きください」

男性はペンを持った。

いつから未処理か。
何を選ばなかったか。
選ばなかった理由。
今、照会したい理由。

最初の欄で、男性は止まった。

「いつからというか……二十五年くらい前です」

「長期保管ですね」

「やっぱり長いですか」

「よくあります」

職員はそう言って、長期保管の欄に印をつけた。

男性が選ばなかったのは、地元を離れることだった。

若い頃、東京で働かないかと誘われたことがある。
小さな制作会社だった。
給料は安く、将来性もよくわからなかった。
けれど、面白そうだった。

雑誌や広告や、名前の知らない誰かが見るものを作る仕事。

男性は行かなかった。

家の事情もあった。
地元で決まっていた仕事もあった。
不安もあった。
誘ってくれた先輩への返事を引き延ばしているうちに、話は流れた。

それから二十五年、男性は地元で働いた。
結婚し、子どもが生まれ、家のローンを払い、職場ではそれなりの立場になった。

特別悪い人生ではない。
むしろ、十分にありがたい人生だと思っている。

それでも、たまに思う。

「あのときの箱が、まだある気がするんです」

男性は言った。

「箱ですか」

「はい。開けてない段ボールみたいな。中に何が入っていたのか、ずっと知らないままの」

職員は申請書の余白に、小さく箱、と書いた。

「照会したい理由は、それでよろしいですか」

「はい」

「では、照会は可能です。ただし、持ち出しはできません」

「持ち出し」

「使わなかった可能性は、現在の生活にそのまま持ち帰ることはできません。閲覧のみです」

「見るだけですか」

「はい」

男性は奥の扉を見た。

「見たら、後悔しませんか」

「する場合もあります」

職員は淡々と言った。

「ただし、見ないまま何度も想像している場合、想像のほうが大きくなりすぎることがあります」

男性は、その言葉に少しだけうなずいた。

職員はカウンターの奥の扉へ向かった。
鍵を取り出し、ゆっくり開ける。

「こちらへ」

扉の向こうは、思ったより普通の部屋に見えた。

天井まで届く書類棚。
金属製のラック。
少し暗い蛍光灯。
床には台車の跡が細く残っている。

ただ、三歩進むと、普通ではないことが少しずつわかった。

棚の番号が、数字ではなかった。

「言い出せなかった」
「怖くなった」
「あとで考えることにした」
「そのうち戻ると思った」
「誰かに止めてほしかった」

そんな札が、棚の横に並んでいる。

ラックの上には、箱がいくつも置かれていた。
どれも靴箱くらいの大きさで、白いラベルが貼られている。

「ピアノを続けていた場合」

「店を継いでいなかった場合」

「もう一度誘っていた場合」

「謝っていた場合」

「一人暮らしを選んだ場合」

男性は、思わず歩く速度を落とした。

どの箱も、少しだけ古く見えた。
けれど、埃は積もっていなかった。

「ここは、誰かが来るんですか」

「来ます」

職員は棚の間を進みながら言った。

「ただし、同じ箱を何度も見に来る方は少ないです」

「なぜですか」

「一度見ると、想像ほど便利ではないとわかることが多いので」

職員は申請書を見ながら、棚の奥へ進んだ。

「二十五年前、地元外勤務、制作関係、先輩からの紹介」

慣れた手つきで棚の札を確認し、一つの箱を取り出した。

箱は、ほかのものより少し平たかった。
側面にラベルが貼られている。

選択未使用:地元外へ出る可能性。

男性は、その文字を見て、少しだけ顔をこわばらせた。

「開けてもいいんですか」

「照会申請は受理されています」

職員は箱を机の上に置いた。

「ただし、閲覧中に出てくるものは、実際の未来ではありません」

「違うんですか」

「はい。可能性は記録であって、保証ではありません」

「つまり、妄想みたいなものですか」

「妄想よりは整理されていますが、現実よりは不確かです」

「微妙ですね」

「可能性ですので」

男性は、箱のふたに手をかけた。

中には、数枚の紙と、小さな鍵と、使い込まれていない社員証のようなカードが入っていた。

カードには、若い頃の自分の写真が貼られている。
今よりも髪が少し長く、目つきだけが妙に強い。
自信があるようにも、不安をごまかしているようにも見えた。

紙の一枚には、知らない駅名が書かれていた。
もう一枚には、六畳一間の間取り。
角の折れた名刺。
コンビニの深夜レシート。
赤字で直された企画書のコピー。
採用されたらしい小さな広告の切り抜き。
そして、未開封のままの市役所からの転出届。

男性は、それを一つずつ見た。

思っていたほど、光っていなかった。

どれも、どこかくたびれていた。
狭い部屋のにおいがして、眠れていない朝の紙コップの跡があって、うまくいかなかった日の赤ペンが残っていた。

それでも、広告の切り抜きだけは、少し眩しかった。

男性はその紙を長く見た。
そこに自分の名前はなかった。
けれど、端のほうに、見覚えのある癖の線があった。

「これ、俺が作ったんですか」

「可能性の記録上は」

「そうですか」

男性は、それ以上聞かなかった。

次に、未開封の転出届を手に取った。

紙は薄いのに、少し重かった。

そこには、行かなかった町の名前がある。
住まなかった部屋の住所がある。
使わなかった印鑑の跡がある。

その全部が、自分のもののようで、自分のものではなかった。

「これ、持って帰れないんですよね」

男性は聞いた。

「はい」

職員は答えた。

「現在の生活と混ざりますので」

男性は転出届を箱に戻した。

混ざる、という言い方が妙に怖かった。
もしこれを家に持って帰ったら、今の玄関や食卓や家族の声まで、少しずれてしまう気がした。

箱の中の若い自分は、どこか別の場所で暮らしていた。

失敗もしていた。
少しだけ作ってもいた。
帰れない夜もあった。
誰にも褒められない朝もあった。

そしてたぶん、その生活にも、別の未処理があった。

男性は、箱のふたに手を置いたまま言った。

「もっと、すごいものかと思ってました」

「すごいものも入っている場合があります」

「これは」

「これは、生活です」

職員は短く答えた。

男性は、もう一度だけ広告の切り抜きを見た。

眩しい。
でも、それだけではない。

その紙の横にある深夜レシートの印字は、半分消えかけていた。
名刺の角は折れていた。
企画書の赤字は容赦がなかった。

夢のような別世界ではなかった。

別の生活だった。

「保管状態は、照会済みに変更します」

職員は、照会控えに判を押した。

閲覧済み。

男性は、その赤い印を見た。

「これで、もう考えなくなりますか」

「考えると思います」

職員は言った。

「ただし、次に考えるときは、未確認ではなく閲覧済みです」

男性は、箱を閉じた。

「選ばなかったものは、あなたを責めるために残っているわけではありません」

職員の声が、保管庫の棚の間に静かに落ちた。

「じゃあ、何のために残っているんですか」

職員は少しだけ考えた。

「選んだものを、ただ一つの正解にも、間違いにも、しないためです」

男性は、その言葉をすぐには理解できなかった。
でも、箱のふたを閉じる手つきは、来たときより少しだけ落ち着いていた。

可能性保管庫を出ると、いつものカウンターが少し明るく見えた。

職員は照会控えを封筒に入れて、男性に渡した。

「本日の照会は完了です」

「これ、また見に来る人もいるんですか」

「います」

「俺も、来るかもしれません」

「その場合は、再照会申請になります」

「面倒ですね」

「面倒でも、勝手に開かないほうがいい箱もあります」

男性は小さく笑った。

市役所を出ると、夕方の風が吹いていた。

男性はスマートフォンを取り出し、さっき見た先輩の名前をもう一度検索しようとして、やめた。

代わりに、家に電話をかけた。

特に用事はなかった。
夕飯がいるかどうかを聞かれ、いる、と答えた。
それだけだった。

電話を切ったあと、男性は鞄の中の封筒を触った。

使わなかった可能性は、まだどこかに保管されている。
それは、なくなったわけではない。
選び直せるわけでもない。

けれど、箱の中に入っていたのは、ただの輝かしい別人生ではなかった。

別の忙しさ。
別の失敗。
別の喜び。
別の生活。

男性は駅へ向かって歩き出した。

選ばなかったものがある。
だからといって、選んだものが間違いになるわけではない。

そのことを、まだ完全には信じられない。
でも、今日からは少なくとも、箱の中身を知らないふりはしなくてよかった。

照会済み。

鞄の中の控えには、そう押されていた。


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