私の思う家族のあり方
3月…
このブログに書いた家族の思い出のひとつ。
お空に行った長女と、
今の時間が静かに重なるような想いを、
音に残しました。
🎧桜風 (Releaseここね)
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家族と一括りに言っても、色んな形がある。
例えば私。
私は今独りだ。
けれど、独りで生きてきたわけではない。
そんな私にも…家族があった。
夫と私、娘2人の4人家族だった。
これは、わたしの経験に基づく、私の考える「家族のあり方」の話。
それが誰かの想いと重なるなら、同じ温度で受け取って貰えたらと思う。
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1年の中での節目節目で、家族だった頃を思い出す。
季節は、何も言わずに記憶を連れてくる。
1月は家族揃って初詣。
2月は商売繁盛を願ってお椿さんへ行った。
長い参道の両側に並んだ出店を見て、子どもたちは何を食べようかと目を輝かせていた。
3月。
初春。
3月1日、高校の卒業式。
春の香りは、新しい始まりの躍動感と、
どこか切なさを一緒に運んでくる。
その匂いに触れるたび、
長女との想い出が、ふいに胸に広がる。
卒業の日、教室で友達と楽しそうに写真を撮り合っていた。
携帯を向け合いながら、屈託なく笑っていた。
あの何気ない光景が、
今も鮮明に残っている。
懐かしさと、切なさ。
そのどちらもが、
春の風に混じってやってくる。
先にお空へ帰ってしまったけれど、
あの時間は、確かにここにある。
4月は花の近くの公園で花見。
朝から張り切って作ったお弁当を広げ、走り回る子どもたちを眺めていた。
5月は高知の砂浜美術館。
砂浜ではためくTシャツアート。
青い空の下、風に揺れる色とりどりの布と一緒に、私たちも笑っていた。
6月は紫陽花ロード。
雨に濡れた紫陽花の色は、やけに鮮やかだった。
7月はそうめん流しや、道の駅の河川で水遊び。
子どもたちの笑い声が、水の音と青い空に溶けていた。
8月は花火大会。
夜空に打ち上がる花火を、家族で見上げていた。
9月は四国カルスト。
秋の風が草原を渡り、牛が静かに草を食んでいる。
あの広い空と、緩やかな時間。
あげればきりがない。
私たちは、確かにたくさんの時間を過ごしてきた。
でも、もうあの4人には戻れない。
同じ季節が巡っても、
同じ場所に立っても、
同じ風景は二度とない。
時間は、前にしか進まないから。
それでも。
あの時間があったことは、誰にも消せない。
記憶は形を変えても、
私の中にちゃんと在り続けている。
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けれど、家族の形が変わったとき、
私は本当に崩れた。
離婚によって「家族」という括りから外れたときよりも、
はるかに大きな喪失だった。
朝、目が覚めた瞬間に現実を思い出し、
胸がぎゅっと締めつけられた。
台所に立っても、
食卓に向かっても、
1人分の食事…
自分以外の誰かに作るための食事もなく、
「もう4人分じゃない」という事実が突きつけられる。
静まり返った部屋の音が、やけに大きく感じられた。
守れると思っていたものを、守れなかった。
続くと信じていた日常が、
こんなにも簡単に形を変えるなんて思っていなかった。
怒りもあった。
どうして私ばかりが。
どうしてここまで頑張ったのに。
こんなに頑張ってるのに。
そんな思いが、胸の奥で渦を巻いていた。
そして長女を空へ見送った悲しみは、
その痛みと重なり、何度も波のように押し寄せた。
喪失は、一度ではなかった。
何かが終わるたびに、
私は自分の一部を置いてきたような気がしていた。
世の中では、自死について、さまざまな言葉が語られる。
弱さだと言われることもある。
けれど、当事者としてその時間を共に生きた私には、
そんなふうに一言で語れるものではないと感じている。
長女は、長女なりに、
その人生を精いっぱい生きていた。
そして私は今、
あの子はあの子の時間を、
ちゃんと生き抜いたのだと思っている。
それは、失った悲しみが消えるという意味ではない。
ただ、あの子の人生を「弱さ」だけで終わらせたくないという、
母としての想いだ。
もし、
同じような立場に立つ誰かがこの言葉を読むなら、
あなたの大切な人の人生も、
きっと同じように、懸命に生きた時間だったのだと、
私は信じている。
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私は
生きることを選び、
生きることを
自分に赦して受け入れた。
そして、今
生きている。
私は
それでも生きる。
泣きながらでも、
立ち止まりながらでも、
私の中の時間は進んでいった。
そして私は、
少しずつ気づいていった。
家族は「形」だけではないのかもしれない、と。
私には次女がいる。
夫婦としての関係は終わった。
けれど、親としての関係は終わらない。
姉を失ってしまった娘がどちらに気兼ねすることなく行き来できること。
何かあったとき、どちらにも頼れること。
その安心を守れる関係でありたいと思っている。
それは、紙の上の「家族」という括りのためではない。
戸籍や制度を通り越して、
あの時間を共に生きた者同士として、
目に見えないところでつながっている感覚がある。
うまく言葉にはできないけれど、
血縁や形を越えて、魂で結ばれているような感覚。
スピリット、とでも言うのだろうか。
形が変わっても、
そこに大切に思う気持ちが残っているなら、
それもまた、家族のあり方の一つだと思う。
私はもう、形だけで家族を測らない。
それが私の思う家族のあり方。
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🌿 読んでくれた方へ
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
家族の形は人それぞれで、
正解も、不正解もないのだと思います。
私の歩いてきた時間の中で見つけた
ひとつの「家族のあり方」を、
ただ静かに置いてみました。
もしどこかで、
あなたの想いと重なる部分があったなら、
それだけで嬉しいです。
今日も、それぞれの場所で、
それぞれの家族の形が、
あたたかく在りますように。
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