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短編小説「開かれた窓」(#一枚の写真から文芸賞 佳作受賞作品)

 この日の海は珍しくとても穏やかでした。
 私はソフィア・エンデル。海沿いの小さな町役場の相談員として働いています。相談員になって八年。その間、休憩時間の過ごし方は変わっていません。ひとり休憩室へ来ては、窓辺の長椅子に腰を下ろすのです。他の職員も来ますが、軽く会釈をする程度にとどまります。
 この日もいつもと変わらず、コーヒーを片手に私は窓辺の席につきました。コーヒーの渋い香りが、鼻の奥を突くのを感じます。
 窓の外では昼の光に海がきらめき、砂浜を小さな子どもとその母親が走って遊んでいます。私はテーブルのざらざらとした木目を触りながら、ある青年のことを思い出していました。

 彼は三日前に、初めて相談にやって来ました。ひどく疲れている様子でした。
「母には介護が必要なんです。でも本当は施設ではなく、自宅で一緒に過ごしたいんですが……。治療のためにも、仕事を辞めるわけにはいかなくて」
そう話す彼に、介護休職制度や治療に関する保険など、さまざまな制度の説明をしました。
「ありがとうございます。もう少し考えてみます」
青年は深々と頭を下げました。しかし資料を握る彼の左手は、静かに震えていました。

 二ヶ月前、私の隣にはミハイルさんという相談員がいました。
「誰かが必要としてくれているのは嬉しいことだよ」
彼の口癖です。彼は定年後もボランティアとして、週に二度ほど顔を出していました。八十二歳で人生に幕を下ろした彼の席は、いまも空席です。
 ミハイルさんは、ブラウンのジャケットを羽織り、毎日違うネクタイをしていました。
「今日は猫柄なんですね。昨日は無地だったのに」
「子どもを連れた母親が来るからね。楽しい方がいいだろう?」
隣の席で笑う彼の顔が浮かびます。自分の紺色のブラウスが頼りなく思えてきたものです。
 午後訪れたその母親は「娘に学校で必要な絵の具すら買ってやれない」と話しました。私は咄嗟にあらゆる制度が頭を巡りましたが、ミハイルさんの第一声は違いました。
「お母さん、あなたにも絵の具は必要ですよ」
「どういう意味です?」母親は私と同じ疑問を抱いたようでした。
「娘さんと一緒に色を混ぜてみてください。楽しいですよ。大丈夫、お金は制度で解決できます。でも生活を彩るには、ときに"遊び"も必要なんです」
母親は小さく笑い、娘を優しく抱き寄せました。

 またある雪の日には、長年連れ添った妻を亡くしたという男性がやってきました。
「朝が朝に見えなくて……」
私は年金や支援制度を丁寧に説明しました。しかし、彼の視線は止まったまま。私は次の言葉を失ってしまいました。
「奥さんと、朝は何を食べていましたか?」
隣からミハイルさんが顔を覗かせてきました。とても穏やかな表情でした。
「ライ麦パンとチーズ。ジャムも少し」
「明日の朝、それを用意してください。きっと奥さんも喜びますよ」
男性の表情がすっと緩むのを感じました。帰り際、彼はこう言いました。
「久しぶりに買い物でも行こうと思います。妻の好きないちごジャムを買いに」
その笑顔には、窓の外の雪も和らげる温かさがありました。
「ありがとうございます」私はミハイルさんに言いました。
「私にはできない会話です」
「制度は大切だ。だけど、人間は制度だけでは生きられないんだよ」そう言い、一杯のコーヒーをくれました。ミハイルさんはいつもそうでした。制度の外側から答えを導き出す。そして最後には、皆が安堵して帰っていくのでした。

 ミハイルさんは、あの青年に何を差し出すでしょうか。窓の外では走り回っていた子どもが、母親に抱かれながら海辺を散歩しています。ひとつだけ開いた窓から、子どもの嬉しそうな笑い声が聞こえてきます。青年にもこんな時間があったのでしょう。言葉にできない苦しみを抱えた彼の顔と、母親とはしゃぐ子どもの姿が重なりました。
 休憩時間の終わりを知らせる時報が響きます。ふいに窓から風が吹き込みました。コーヒーの渋い香りが鼻の奥を突くのを感じました。

———正しい答えはなくても、良い答えは必ずある。

 ミハイルさんの声でした。少ししゃがれた、渋くて低い声。豆から挽いたコーヒーを淹れてくれたときのことを思い出します。

 次の相談者が来るまでに、少し時間がありました。相談室に戻ると、私はデスクの引き出しから便箋と封筒を取り出しました。

 お母様との思い出を話してみませんか?
 一緒に良い道を探しましょう。
 また来てくださいね。いつでもお待ちしています。
 ソフィア

 ミハイルさんが亡くなって、三ヶ月が経ちました。いまでは彼の席には新しくユリスという男性相談員が座っています。寂しくないと言えば嘘になります。それでも忙しさに紛れて、彼の気配は薄れていきます。彼を思い出す時間も減ってきました。
 しかし、ときおり彼の穏やかな笑顔が恋しくなる。そして思うのです、彼だったらこんなときどう過ごすのだろうかと。

(2,000字)


花澤薫さん主催の「一枚の写真から文芸賞」の応募作品です。


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