企画参加小説:18禁おにぎり #下書き再生工場
私が朝起きたときから、先生は机に向かっていた。
遮光カーテンの隙間から細く年末の朝日が差し込んでいて、先生がパチパチとキーボードを打つ音以外は何も聞こえない。
私は体を起こし、冷たい床に足を降ろす。
あ、と少しだけ違和感をもった。
私の存在が薄い。
先生が今の作品に夢中になっているせいだろう。私は意識的に自分の存在を高めて、ふわふわした素材のスリッパに足を滑りこませてキッチンへ向かった。
先生は、きっと昨夜から書き続けて眠っていないだろう。コーヒーもいいけれど、胃が荒れてしまうかもしれない。体にやさしくて、何か、あたたかいものを飲んでいただきたい。
私はキャビネットの引き出しを開けて、ほうじ茶を取り出す。茶色く乾燥した茶葉を、ふたつまみほど急須に入れた。ケトルでお湯を沸かして注ぐと、香ばしい土のような豊かな匂いが湯気にのって漂ってくる。思い切り吸い込んで、存在感を自分の中に取り込んだ。
「先生、ほうじ茶飲みますか?」
湯呑に注いだお茶を持って先生のもとへゆっくり近づく。
先生は、ハッと我に返ったように顔をあげた。そして、眼鏡をはずして眉間をもんでから「ありがとう」と言った。
私は、静かに、深く息を吸う。先生はまだ私を知覚している。私はまだ存在している。その事実が甘やかに体のすみずみまで行き渡って指先をほかほかと幸福に満たしていく。
先生は私の淹れたほうじ茶をひとくち啜って、うまいとつぶやいた。
私の先生は、官能小説家だ。18歳以下は読んではいけない物語を日々熱心に書き続けている。頭の中に映像が溢れてしまってどうしようもないから、文字に起こすしかないらしい。私は先生が知覚しているときだけ存在を許されるものだから、日々自分の存在感があやふやで、とりとめがない。たとえば先生が出版社の人と会食などに行ってしまわれると、一瞬消えてしまうこともある。たぶん、ない社会性をふりしぼって「作家」という仮面を貼り付けて頑張って仕事をしているから、私のことが意識の外においやられてしまうのだと思う。
先生が、戦地から戻った兵士さながらのご様子で玄関を開けた瞬間に、すんっと私は存在する。
「おかえりなさい」
私の言葉にうっすらと微笑む先生は、細く長いきれいな指で私の頬を撫で、「ただいま」とささやく。先生の手は、冬の月のように冷たい。
ほうじ茶を飲んだ先生は、椅子の背もたれに背中をあずけ、ぐーっと両手を伸ばしてから「お腹すいたな」とつぶやいた。私が「何か召し上がりますか?」と言ってももう返事はなく、また熱心にキーボードを叩きはじめる。
私は、先生がお疲れで空腹のとき、和食を好むことを知っている。
先生のことなら何でも知っている。
私は先生の概念だから。
小鍋にお湯を沸かし、長ネギを切って入れる。絹ごし豆腐と乾燥わかめも入れる。お出汁は顆粒を使ってしまう。質より早さが重要なときもある。かつおぶしのより、こんぶのほうが、先生はお好み。ネギがとろりとしてきたら、お味噌をとく。少し、薄味で。
昨晩セットしておいた炊飯器をあける。ほんのりと甘い匂いを漂わせて白い粒だったお米が焚かれている。しゃもじでそっと切りまぜてから、手に塩とお水を少しつけて、きゅっと握っていく。私は概念だから、素手のままでいい。ラップやビニール手袋なんて介さないで、先生とつながりたい。先生と私の間には、何も必要がない。思考と意識と存在が、そのままつながっているのだから。
「先生、朝ごはんできましたけど、召し上がりますか?」
私の声に、ゆっくり振り返った先生の目の下にクマがある。夜通しお仕事をしてらしたら、疲れるのは当然で、私はその人間らしい営みを見るたび、胸が高鳴り、呼吸が浅くなる。
「ありがとう。食べようかな」
先生がやっとパソコンから離れて、座卓に並んだ朝食を眺める。床に直に座って、「いただきます」と手を合わせた。お味噌汁を啜ると、ずずずっと音が出て、そのあとふーっと深い息がもれる。私はその呼吸ひとつも聞き逃さないように、じっと耳をかたむける。
「先生、私おにぎり握りました」
私は、さきほど自分で握ったおにぎりを手にして、先生の口元へ持っていく。先生は、素直に口を開けて、ひとくちかじる。もぐもぐと噛む先生の顎の骨が動いて、お米が咀嚼されて、唾液とまざって、やわらかくなって、ごくりと嚥下される。のどもとが動いて、食道をとおって胃へおくられる。先生は何も言わずに、右手で持ったお椀のお味噌汁を啜ったあと、また私の手にあるおにぎりをかじる。先生の唇が私の指に触れる。あたたかく、少しかさついている。唾液にふくまれる消化酵素はアミラーゼ。でんぷんを糖にかえる、と以前先生に教えてもらった。私の手がでんぷんなら、もうすぐで糖になれるかもしれない。いや、私は概念だから、先生がそう思えば、私はもう糖なのだ。
私の指先についた米粒を、先生の前歯が噛み取る。少し尖った感触が肌を刺激する。最後にあたたかくぬれた舌が絡むように私の指をなめとり、先生はおにぎりを完食した。
「ごちそうさまでした」
そう言うと、すっかり冷めたほうじ茶を啜ってまたパソコンへ向かった。
私は、食器をさげてから、自分の指をそのままくわえた。
結局先生は夜の十時を過ぎてようやく仕事を終えたようだった。お風呂に入り、ベッドに潜り込む。
まっくらな先生の部屋に一歩足を踏み入れる。先生は、常夜灯も間接照明もつけず、暗闇の中で眠る。それでも些細な灯りさえ気になるらしく、アイマスクまでつけている。
あおむけの胸が静かにゆっくり上下している。
その様子は、洞窟の奥深くで光を恐れる獣のようだった。
ベッドの端に腰かけると、マットレスがほんの少しだけたわむ。
「先生。少しだけ、横にいてもいいですか?」
私の言葉に、先生は黙ってこくりと首だけ動かした。
冷たいシーツに横になり、するりと毛布の中にすべりこむ。
先生は完全なあおむけのままじっとしていた。私は、先生の左腕に右半身を寄せ、肩のあたりにこめかみをあてる。しんと冷えていたつまさきに、先生の体温が移動してくる。
先生はもぞりと一度だけ動いて、右手で私の頭をゆっくり撫でた。
そうしてもらえるだけで、私はこの世界の理などすべてどうでもいいことに思えた。世界にはびこる数々の悪意も、あるのかわからない正義も、日々先生が立ち向かっている18禁文学の世界さえ、私にはどうでもいい。
先生が繰り返し繰り返し私の頭を撫でる。私はこの瞬間のためだけに、髪の手入れをしているようなものだった。艶やかな髪のうるおいが少しでも先生を癒しますように。そして、この感触を忘れないでほしい。私の存在を覚えていてほしい。たとえ憎んだとしても、忘れないでほしい。できれば、ほかの小説など書かなくなってしまうほど、私のことばかり考えていてくれたらいいのに。
そのためには、あまり干渉してはいけないこともわかっていた。先生が自ら私を知覚しなければ、私は消えてしまうから。
もし先生が私を忘れてしまうなら、そうなる前にこのまま先生に触れている部分の境界がとけて、先生と融合できたらいいのに。肉体的な融合と、精神と意識の完全な同一化。それは、生き物がおこなうどんな行為よりもずっといかがわしい想像に思えた。
肩に鼻をすり寄せて甘い獣の匂いをかぐ。
このまま朝を迎え、私はまた先生のためだけに何も介さずにおにぎりを握りたい。
了
本田すのうさんの企画に参加しています。
楽しい企画をありがとうございます!
初めて参加しましたけど、めっちゃおもしろいですね。「18禁おにぎり」を使わせていただきました。いかに、そのお題から飛躍した発想で書けるか考えましたけど、難しかったです笑。
最近、仕事で真面目な意味のある文章ばかり書いているので、その反動で、ちょうどちょい意味のわからない少しエロいものが書きたかったんですよ笑。楽しく自由に書けました!ありがとうございました!
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