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小説:俺たちに過去はない

 現場は血まみれだった。

 被害者は、アパートの玄関から入ってすぐのところに仰向けで倒れており、腹部から胸部にかけて何十か所も刺されている。ドアも、玄関に散乱している靴も、すぐ横にある冷蔵庫も、壁も床も、返り血にまみれて真っ赤だ。足元に凶器と思われる包丁が投げ捨ててある。鉄錆のような、不快で生臭いニオイが充満している。
「怨恨っすかね」
 俺はコンビを組んでいる先輩に声をかける。
「そうだな。物盗りじゃないだろうな」
 空き巣に入って住人に見つかったとしても、ここまでは滅多刺しにはしないだろう。わざわざ強盗が入るような家にも見えない。
「じゅんくん!」
 ドアの外から、錯乱した叫び声が聞こえる。
「困ります、下がってください!」
 警察官の声がする。
「恋人か?」
「かもしれませんね」
 俺は先輩と一緒に狭い1Kのアパートを出て、大きな声を出している女に近づいた。
 背が高く、細い。ベージュ色のTシャツに黒いパーカーを羽織っており、髪の色が派手な紫色で、普通の会社員には見えない。規制線の外で、警察官に止められている。今にも殴りかかりそうな勢いだ。
「ここの住人の方とお知り合いですか?」
 俺が声をかけると、腕につかみかかってきた。
「じゅんくん、私の彼氏です! どうしたんですか、何があったんですか!」
 ひどく興奮している。
「落ち着いてください。あの部屋で、男性が一人、亡くなっています。ご本人確認をしていただいてもよろしいですか?」
 女はひっと息を飲んで顔を青くした。俺の腕をつかむ手の、力が弱まる。昨今のアナログムーブメントによって、虹彩認証やDNA認証は証拠に使えない。よく見知った人間による身元確認が必要なのだ。
「します。します。確認します。じゅんくんが死んだなんて信じられない」
 がくんがくんと首を縦に振りながら、女は身元確認を承諾した。俺は女を規制線の中へ入れ、被害者の家の玄関に立たせる。
「ショッキングだと思います。気をしっかり持ってくださいね」
 一般人が殺人現場を見て失神することは少なくない。女は俺を見て、一度目をぎゅっとつぶってからうなずいた。気合を入れたのかもしれない。
 ゆっくりドアを開ける。真っ赤に染まった死体が目の前にある。
 女は、絶叫した。
 崩れるようにその場にしゃがみこみ、両手で口をおおい、指の間から漏れ出る悲鳴を自分ではどうしようもないようだった。刑事をやっていて一番しんどい瞬間だ。この悲鳴を聞けば誰だって、犯人をあげてやる、と思うのが刑事というものだろう。
「この部屋の住人の方で、間違いないですか」
 あくまで事務的に聞いた。
「じゅんくんです。長谷部純です。間違いありません」
 女は青白い顔をしながら俺を見上げた。
「わかりました。少し署でお話をうかがってもいいですか」
「あいつだわ」
「え?」
「倉持よ。やったのは、倉持健介よ」
 女はアパートの廊下にぺたりと座ったまま、両手でパーカーを握りしめた。
「くらもちけんすけ?」
「犯人は倉持です。絶対にそうだわ」
「続きは署でお聞かせください」
「あいつがやったのよ、絶対にそうよ! 殺してやる!」
 俺は取り乱す女に手をかして立たせ、婦警に預ける。女は泣き叫びながらも婦警と一緒にパトカーに乗った。
「くらもちけんすけ、と言っていたな」
 先輩が女と入れ違いに部屋をのぞく。
「はい。思い当たることがあるようです。しっかり話を聞かないとですね」
 意外にも気の強そうだった女の顔を思い出す。
「ああ」
 俺はひどい有様になった男と、まわりで床に這いつくばるようにしている鑑識を眺めた。ツンとする血のニオイは鼻についてなかなか消えない。

 捜査会議は殺気立っている。
 一課の刑事はみな、実際の犯罪者よりも犯罪者のような顔をしている奴が多い。テレビドラマに出てくるような、人情味に溢れた優しい刑事なんて、少なくとも俺は見たことがない。
「被害者は長谷部純、二十九歳、男性。職業はアパレル用品店の店員。死因は腹部胸部を刺されたことによる出血性ショック。凶器は現場に落ちていた包丁。死亡推定時刻は、本日午前九時から十一時の間だが、おそらく午前十一時頃です」
 刑事の一人が良く通る声で話す。通報があったのが、十一時五分。その直前に隣室の住人が争うような声を聞いている。何事かと玄関を開けて様子を見てみると、長谷部の部屋から返り血にまみれた男が走って逃げていった。隣人は、ただごとではないと慌てて警察に通報した。
「逃げた男の特徴は、白いTシャツにジーンズ姿。身長170㎝くらいの少し太った体型だそうだ」
 そいつが、女の言っていた「くらもちけんすけ」だろうか。隣で先輩がボールペンでカツカツとテーブルを叩いている。集中しているときの癖だ。
「身元確認をおこなった、被害者と交際していた白川陽菜によりますと、倉持健介という男が白川陽菜のストーカーをしており、そのことで被害者と倉持はしょっちゅうトラブルがあったそうです。倉持健介は近所に住むフリーターです」
「倉持健介を第一容疑者とし、捜索を行う。隣室の住人だけでなく付近の聞き込み。また、倉持が容疑者と決めつけず、広い視野をもって捜査にのぞむように!」
 刑事官が声を張り上げ、室内の刑事たちは立ち上がって弾かれるように部屋を出ていく。室内にみっちりと張りつめていた闘争心が解き放たれる瞬間だ。俺も先輩の背中を追いながら、メモ帳をジャケットに入れて部屋を出る。
 会議室から一歩出た瞬間だった。
 一瞬、足元が沈むような感覚がした。
 立ちくらみのような、嫌な感じだ。地震か? いや違う。めまいか? いや、そうじゃない。何かを忘れているような不安な気持ちが沸き起こってくる。俺は立ち止まって、慌てて周囲を見渡す。なんだ。何が起こっている。前を駆けていた先輩も立ち止まる。俺を振り返り、足元に目をやってから、何かを思案するように眉間に皺を寄せている。
「先輩、なんか変じゃないですか?」
「ああ、なんだこれは。何かがおかしいな」
 部屋を飛び出た刑事たちは、みな足を止めていた。
 全員、俺と同じような奇妙な感覚を味わっているらしい。俺は、この感覚を一度だけ味わったことがあるような気がしていた。いつだったか。あれはもう、十年以上前の……
 まさか、と思って室内を振り返る。
「先輩! やばいっす。あれ!」
 ついさっきまで捜査会議をしていたはずの会議室の、ホワイトボードに貼られた写真たちが消えていく。書記係が書いた丁寧な文字も消えていく。
「お前たち、今思い出せることをできる限り正確にメモをとれ!」
 先輩が大声を出す。その言葉に、俺はジャケットのポケットからメモ帳を引っ張り出す。しかし、ボールペンを握る手が動かない。思い出せないのだ。必死に脳内の襞をさぐる。
「は……はせべ、じゅん」
 はるか遠い記憶に見つけた名前をメモに書く。
「しらかわひな!」
 誰かが叫んだ名前も書いておく。でも、これがいったい誰なのかわからない。
 刑事官がゆっくりと会議室から出てきた。みな、引きつった顔で上司を見つめる。
「時空管理局に確認してくる。おそらく、過去が書き替えられた」
 そういって刑事官は廊下を歩いていく。動揺した様子には見えない。さすがは肝が据わっているということか。突然、刑事官がくるりと振り返る。
「以降、時空移動の全容がつかめるまで、車の運転は禁止とする」
 そう言い残して、刑事官は去っていった。
 俺は、やっぱり、と思った。
 さっきの感覚は十二年前の、俺が唯一体験したことのある時空移動のときと同じだった。あのときは明確な理由があって、日本が時空移動の許可を世界政府に申し出て、許可がおりた稀有なケースだった。今また、その何か緊急事態が起こったということか。いや、もし適切な時空移動が行われるとしたら、まずは国会で審議して可決されてから初めて世界政府への許可が求められ、そこで認められない限りは無理だ。しかし、そんな大きなことは十二年前から起こっていない。
 俺たちはどうすればいい。刑事官と一緒にここに集まっていたということは、捜査会議をやっていたにちがいない。とすると、殺人事件が起こったはずなのだ。
 しかし、俺たちは誰一人、何があったのか覚えていなかった。

 俺は先輩となんとか思い出した記憶のメモを頼りに、とりあえず「はせべじゅん」の家に向かってみることにした。捜査会議をしていたのだから、俺たちは何かしらの事件を追っていたはずなのだ。その糸口だけでも見つけたい。刑事官に運転は禁止と言われたから、歩くしかない。おそらく、運転中に突然時空移動が起こったとき、事故を起こす危険性を考慮したのだろう。刑事官ともなれば、いついかなるときでも冷静な判断が必要なのだと感心する。同時に、不便さに苛立ちもする。
 この近辺に住む「はせべじゅん」という名前を住民票で調べると、一人ヒットした。二十九歳の男で、署から近くのアパートで独り暮らしをしているようだ。漢字で書くと、長谷部純。
 アパートの前に立つ。妙な胸騒ぎがする。たしかに、ここに来たことがあるような気がしないわけではない。しかし、そんな記憶はないのだ。
「何かご用ですか?」
 声をかけられ振り向くと、若い女が立っている。背の高い細い女だ。スポーティな大きめの腕時計を付けている。女は俺たちを見ると、一瞬ハッとしたような表情を見せた。そして、すぐにそれを取り繕う。
「長谷部純さんとお知り合いですか?」
 先輩が声をかける。そのとき、俺は頭の中に「くらもちけんすけ」という名前が浮かんだ。
 誰だ。くらもち? 
 知らない。
 そして、泣き叫ぶ女。
 そうだ、「くらもちけんすけ」は、この女が叫んでいた名前だ。ひどく取り乱した女の姿が見えたような気がする。女の姿がトリガーとなって「くらもちけんすけ」を思い出した。とすると、そうか。この女が「しらかわひな」か。
「しらかわひな、さんですか?」
 女は少し警戒したような顔で、すっと目を細めて俺を見る。紫色に染めた髪が秋の緩い日差しに揺れている。
「どちらさまですか」
「警察のものですが」
 俺が警察手帳を出したところで「どうかした~?」と呑気な声が聞こえた。
 背後でドアが開き長谷部純の部屋から、若い男が顔をのぞかせる。ドアの隙間から、靴の散乱した玄関と、入ってすぐのところに冷蔵庫が置かれた雑多な部屋が見える。
 真っ赤な室内に血まみれの男が倒れている残像が一瞬よぎってすぐに消えた。
 なんだ今の映像は。サブリミナル効果のようで気持ちが悪い。今一瞬見えた男と、この長谷部純が同じ男なのか、俺には判断がつかない。
「警察のものですが、最近何か変わったことはありませんか?」
 先輩が丁寧な口調で、長谷部としらかわひなの両方を交互に見ながら話す。
「ああ、それならこいつのストーカーが……」
「あああ! いいのよ、その話はもう」
 長谷部が何か言おうとしたことを、しらかわひなが遮った。
「ストーカーですか?」
 しらかわひなは笑いながら手を大げさにふる。
「違います、違います。大丈夫です。気にしないでください。何も変わったことなんてありませんから」
 しらかわひなはわざとらしくヘラヘラと笑いながら、長谷部を押し込むようにして一緒に部屋に入ってしまった。隠し事をしていることは、明らかだった。
「今の男が長谷部純で、女がしらかわひなですよね」
「そうだな」
「しらかわひなはずいぶん挙動が怪しいように見えましたが、二人とも、何かしらの事件の被害者ではなかったってことですよね」
「いや、それはわからない」
 先輩は苦い顔をしている。
「どっちかが死んでいた可能性はある。もしくは両方の可能性も捨てられない。過去が書き替えられたなら、被害者だった人間が生きていてもおかしくない」
 たしかにそうだ。何かの目的があって誰かが過去を書き替えたはずなのだから、被害者を助けるために過去へ行ったと考えることはできる。
「じゃあ、今のどちらかが違法の時空移動者ですかね」
 先輩はまた苦い顔をした。
「わからない」
 先輩も俺と同じく、記憶が定かでないことに苛立っているのだろう。

 人類は、今から五十年前にタイムマシーンを完成させた。俺も先輩もまだ生まれていない過去の話だ。当時、アメリカで初めて時空の移動が確認され、それから瞬く間にその技術は世界中に広がった。しかし、そこからは想像もしていなかったような混乱が待っていた。
 国単位で、自治体単位で、時空の移動は繰り返された。タイムマシーンの小型化に成功したヨーロッパでは、個人用にも普及した。最新モデルでは、腕時計ほどのサイズまで小型化に成功していたそうだ。
 会社でのミス、恋人との別れ、些細な怪我、人々は小さな過ちを取り返すために絶えず過去を書き替え、未来を変えた。
 そのうち、人々の記憶が混乱しはじめた。自分で書き替えた過去と、隣人の書き替えた過去に差が生じてくる。人類は記憶を共有できなくなったのだ。
 タイムマシーン完成から五年後、世界が混沌としていく中、アメリカの大手投資会社が倒産した。大損した投資家たちがこぞって過去を書き替えだした。その結果、国が成り立たなくなった。ものすごい数の人が過去を常に書き替え続けた。会社が倒産したり立て直したり、物価が高騰したり暴落したり、人が死んだり生き返ったりする書き替えが数秒ごとに繰り返された。目の前で人や物が消えたり現れたりするのだ。そんな状態で生活が成り立つわけもなく、あっという間に国が崩壊した。アメリカの崩壊は世界に衝撃を与えた。
 世界政府は、即刻タイムマシーンの個人利用を禁止し、全てのタイムマシーンを回収した。そして、専門家によるチームが結成され、タイムマシーンの個人利用が始まる前まで時空を移動し、当時の人間に事の重大性を知らせ、未来を整え直した。
 現在に戻ると、アメリカは国家として依然繁栄し、何の因果か投資会社の倒産も起こらなかった。それからはタイムマシーンの利用は強く監視され、規制されていった。 
 もちろん、これらの記憶を持っている人間は、過去に時空移動した数人の担当者だけだ。それ以外の人間たちは、書き替えられた未来を生きているだけだ。あるはずだった過去は書き替えられ、変化した未来だけを生きた人間たちには、書き替えの起こる前の記憶はないのだ。いや、記憶がないというより、そもそも起こらなかった過去なのだ。だから、体験はしていない。つまり、記憶にも残らない。
 俺がこれらの悲惨な過去、あったはずの過去を知っているのは、学校の授業で習ったからにすぎない。
 人類は、タイムマシーンを個人利用していた記憶こそなくなったが、歴史の授業の影響と、危険への潜在意識が残っていたのか、科学の進歩は人類の敵である、という思想が流行することになる。ここから始まったのが、今世界中で主とした思想の根本になっている「アナログムーブメント」だ。
 人類は科学の進歩を手放しもっと自然に生きるべきだ、という思想は、俺が生きている今の時代に世界中で一番広まっている思想である。唯一、俺が体験した時空移動は、十二年前だ。本来なら決して忘れることのできない、恐ろしい体験だっただろう。
 東京を震源とした大震災が起こったのだ。大地震に襲われた東京は壊滅し、政治、経済、人々の生活の全てが崩壊した。日本の歴史上最も被害の大きい自然災害だった。
 アナログムーブメントが主要な思想ではあったが、どうにか生き残っていた首相の判断は早かった。そうでもしないと、日本が終わるところだったのだ。
 世界政府による時空移動の許可が下りると、時空移動特殊班が作成され、震災の一年前へ移動し、人々の避難とできる限りの態勢を整えた。現在に戻ると、首都は多少の被害にあったものの、一般の都民は全て避難が済んでおり、人的被害はまったく出なかった。
 もちろん、東京直下大震災の被害が実際はどうだったのか、俺はニュースや新聞で知っただけだ。過去の書き替えによって東京の壊滅は回避されたし、学生だった俺は家族みんなで北海道の親戚の家に避難していた。過去の書き替えが起こらなかった場合自分がどうなっていたかは、考えないことにしている。たぶん、俺は今ここにいないだろうから。
 その後、一時的に「過去の全ての災害へ適応するべきだ」という論調も出たが、そのときの首相はまた強気だった。
「もし、過去の日本人を助けるために時空移動を利用するとなると、我々はまず1945年の8月に移動することになる。そのことが、現在の日本、そして世界にどのような変化をもたらすのか、わかる学者などいない」
 首相の発言は物議をかもしたが、誰も反論できる根拠を持っていなかった。
 そこからはまた、根強いアナログムーブメントの時代である。科学の進歩は人類を幸福にはしない。科学の進歩から離れ、より自然に生きよう。
 しかし、人類は時空移動の技術までは手放せなかった。規制され、ほとんど使われない技術ではあるが、その技術の完成の前まで戻り、開発を阻止しよう、とまではならなかった。そもそも時空移動をできなくしてしまえば、世界の崩壊は起こらない。
 結局人類はせっかく発見した夢の技術を手放すほど、無欲ではなかった。

 俺のジャケットの内ポケットで携帯電話が鳴る。
 アナログムーブメントの波にのり一時は生産中止寸前まで追い込まれた携帯電話だったが、二つ折りのこのタイプだけはどうにか生き残っている。通話とショートメールがつかえるもので、アナログムーブメントの〝過激派〟は廃止を訴えている。アナログムーブメントには俺も賛成しているが、携帯電話と自動車だけは、刑事をやっていると必要だと感じてしまう。
「はい。はい。わかりました」
「なんだ」
「署に残っている刑事からです。刑事官によりますと、時空管理局に確認した結果、正規の時空移動は行われていないそうです」
「じゃあ、野良の、違法時空移動か」
〝野良の〟という言い方が先輩らしい。
「はい、そうなりますね」
「でも、誰が何のために時空移動したのか、全然わからねえなあ。たぶん、何かしらの事件に関わった時空移動なんだろうが」
 先輩は吐き捨てるように言う。
 捜査会議の資料が消えていったことから、殺人事件に関わる時空移動であることは確かなのに、何もわからないことが歯痒かった。
 長谷部純もしらかわひなも生きていて「何もトラブルはない」と言われてしまえば、警察が介入できることはもう何もない。どうするべきか、と考えていると、また俺の携帯電話が鳴る。
「はい。え! すぐ行きます」
 俺の声のトーンに先輩の目つきが変わる。
「どうした」
「このすぐ近所で、殺しだそうです」
「行こう」
 先輩が駆け出す。俺も急いであとを追った。

 男が死んでいたのは、マンションの一室だった。ソファに座ったまま、ロープで首をしめられている。凶器は首に巻き付いたままで、顔は苦悶の表情で固まっている。
 三十歳くらいの、少し太った男だ。目をひん剥いて、分厚い唇を醜く持ち上げ、色の悪い歯肉がのぞいている。だぶついた首の肉に食い込んだロープが痛々しい。ロープの周囲には吉川線。被害者が抵抗した際にできる爪のひっかき傷だ。つまり、他殺だ。
「被害者は倉持健介、二十九歳。フリーターです」
 先に臨場していた刑事が言う。くらもち? 俺は頭の中に何かが点滅する。
 くらもちけんすけは、しらかわひなが叫んでいた名前じゃなかったか。はっきり思い出せないことが歯痒い。砂浜で落としたビーズを探すような気分だ。記憶から目的のものをうまく取り出せない。掬っても掬っても、サラサラと指の間からこぼれ落ちていく。
「死亡推定時刻は、本日の午前九時から十時の間。見てのとおり、ロープによる絞殺と思われます」
「ずいぶん高そうなマンションだが」
 先輩が部屋を見回して呟く。二十畳以上はありそうなリビングに高そうな調度品、解放的なキッチン。窓からの眺めも良い。フリーターが一人で暮らすには広いし、贅沢に思えた。
「親が資産家のようです。被害者は、一応アルバイトをしていますが、ほとんど親の脛をかじりながら自堕落な暮らしをしていたようです」
 濃いこげ茶色のキャビネットの上に被害者の写真が飾られている。生前の被害者は、チェックのシャツを着て、仄暗い目でねっとりとした笑みを浮かべていた。瞳の奥に不気味さを宿している。その笑みは、嗜虐的にさえ見える。乾いた道路でもがいているミミズを、笑いながら棒でつつきそうな顔だ。どの写真の顔も似たような笑みを浮かべており、良い印象は持てない。
 それにしても、自分の写真ばかり飾ってずいぶんナルシスとだな、と思ったが、よく見ると、自撮りした被害者の背後に同じ女が映っている。隠し撮りのツーショットということか。背の高い細い女だ。どことなく、さっき会ったしらかわひなに似ている。
「資産家の息子ってことは、金の絡んだ殺しか?」
 先輩が聞く。
「いえ、現金や金目のものは被害にあっていません。死体の第一発見者でもあるファストフード店のデリバリー配達員が、慌てて走り去る女を目撃しています。目撃者によるとこの近所で美容師をやっている白川陽菜という女だそうです」
「女の身元がわかっているのか?」
「はい。被害者は、どうやらその白川陽菜のストーカーをしていたそうで、よく注文するファストフード店のデリバリー配達員には『自分の恋人がそこの美容院に勤めている』といつも自慢気に話していたそうです」
 先輩がじろりと俺を見た。
「白川陽菜って、長谷部純のアパートに来た女ですね」
「ああ、そうだな」
 俺はキャビネットの写真を指す。
「ここに映っているの、白川陽菜じゃないですか」
 先輩がのぞきこむ。
「どれ……ああ、小さいがそう見えるな。髪の色も似ている」
「さっき長谷部は白川のストーカーのことを心配していました。しかし、白川はすぐに否定した。ちょうど倉持を殺してきたところだったから、その話には触れたくなかった、ということでしょうか」
「すぐに長谷部の部屋を当たらせよう」
 先輩はほかの刑事に電話をかけ、長谷部のアパートへ向かわせた。しかし、そこにはもう誰もいなかった。
「おい、なんかやばそうなもんがあるぞ!」
 部屋を捜索していた刑事が大きな声を出す。先輩も俺も、声のほうへ集まる。
「おいおい、まじかよ」
 先輩が舌打ちをする。そこには、小さなビニールの袋に小分けにされた白い粉が、大量にしまってあった。

 倉持健介殺害事件の捜査会議が始まる。
「被害者の倉持健介は、父親との反りがあわず、主に母親が父親に隠れて仕送りをすることで、生活していたそうです」
「現場から見つかった白い粉ですが、案の定、覚せい剤でした」
「被害者はアルバイトをしていましたが、遅刻や無断欠勤などのトラブルも多く、長続きはしなかったようです」
「現場から立ち去った姿が目撃されている白川陽菜ですが、近所で働く美容師で、倉持健介からのストーカー行為に関して何度か警察に相談に来ています。白川であれば、倉持の好意を利用して部屋にあがることも可能であると思われます」
 刑事たちが次々に報告していく。
「まずは白川陽菜、および一緒に逃走していると思われる恋人の長谷部純の捜索。それから、覚せい剤絡みの線は組対と合同で捜査することになる。被害者の父親は放蕩息子に手を焼いていたそうだ。アルバイト先でもトラブルがあった。全ての可能性を考慮して捜査にあたるように!」
 刑事官は時空管理局に行ってしまったから、ほかの警視が指揮をとる。俺たちは、時空移動が起こる前の事件が何だったのかわからないまま、白川陽菜、および長谷部純の捜索へ駆け出した。

 白川陽菜の家は、洒落たアパートだった。外壁は白く、新しい。建物の名前が鮮やかなグリーンの筆記体で書いてある。〝Premiere〟何と読むのかわからない。英語じゃないのかもしれない。
「ここだな」
 先輩が白川の部屋の前に立つ。インターホンを鳴らす。返答はない。誰もいないのだろうか。先輩がもう一度鳴らそうとしたとき、またしても立ちくらみのような不快感に襲われる。不安な気持ちと、焦燥感が襲ってくる。
 まさか、また時空移動か。いったい、どうなっているのだ。先輩も足元を見つめながら苦々しい顔をしている。
「ちくしょう」
 俺はメモ帳を取り出して思い出せることをできる限り書こうとする。詳細がすぐには思い出せない。やはり、時空移動があったのだ。
 まず浮かんだのは、ソファに座る絞殺体。首にロープを巻き付けた色の白い太った男……倉持健介だ。
 前の時空移動のときより、思い出せることが多い気がする。時空移動の回数と記憶がどんな関係にあるのか、俺にはわからない。白川陽菜という女の名前も浮かんだ。もう一人男がいたはずだ。
「倉持健介! 長谷部純!」
 先輩が、なかば自棄気味に声に出す。勝手に過去を書き替えられることへの苛立ちを感じているのだろう。
「長谷部純!」
 そうだ。もう一人は長谷部純だ。
「あと、女が白川陽菜です」
「そうだ。その三人の名前がすぐに浮かんだ」
「倉持健介が絞殺されていました」
「ソファで死んでいた太った男は、倉持健介か」
 俺と先輩はお互いの記憶を補い合いながら、なんとなく事件の概要をつかんでいく。
「絞殺されていた倉持健介の事件を追っている途中で時空移動が起こり過去が書き替えられた、ということでいいんでしょうか」
「たぶん、そうだな。それにしても、ここはどこだ? 誰の家だ?」
「わかりません。被害者の倉持健介はもっと豪華なマンションに住んでいたような気がします」
「そうだったような……倉持健介のマンションに行ってみよう。何か思い出すかもしれない」
「はい」
 先輩と俺は、わずかな記憶を頼りに倉持のマンションへ向かった。

 部屋の前の規制線がはずされており、見張りの刑事もいない。
「おかしいな」と先輩は呟きながら、ドアノブをまわす。鍵がかかっており、ドアは開かない。先輩は乱暴にインターホンを鳴らす。
「はい」
 男の声がした。
「すみません、警察のものですが、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
「警察? 少しお待ちください」
 すぐにドアが開けられた。
「どのようなご用件でしょうか?」
 ドアから出てきたのは、倉持健介本人だった。生きている。
 チェックのシャツを着て、少し太った、倉持健介本人だ。この男はさっきまで、ソファで首にロープを巻き付けられて死んでいた気がする。どういうことだ。
 しかし、どことなく顔つきが違う。人を見た目で判断するのは良くない……そんなことは百も承知だが、刑事には人間観察の眼が養われていると自負している。
 この男、時空移動前に絞殺されていた倉持健介だが、何かが違う。うまく言えないが、絞殺されていた倉持健介のイメージは、もっと目が暗かった。嗜虐性を持った笑みを浮かべていた気がする。死んだ姿しか見ていないはずなので断言はできない。しかし、今目の前にいる倉持健介には仄暗さがない。落ち着いた、人望のようなものさえ滲んでいる。言い方は悪いが〝育ちが良い〟という印象なのだ。
「警察のものです。何か変わったことはありませんでしたか?」
 先輩も、倉持が生きているとは思わなかったのだろう。また、倉持の雰囲気が変わったことにも気付いているに違いない。
「変わったこと、ですか? 特にありませんけど……」
「健介? どなた?」
 部屋の中から女の声がする。
「ああ、ママ。警察の方だって」
 ママ? 
 倉持は親の脛かじりで、このマンションに独り暮らしじゃなかったのか。両親との仲は……どうだったか。やはり記憶は鮮明には戻らない。
 穏やかそうな五十代くらいの女が玄関に出てくる。
「何かあったんですか?」
「いえ、定期的な巡回のようなものです」
 先輩は穏やかに言って「ご協力ありがとうございました」とドアを閉めた。

「先輩、倉持健介は生き返っています」
「そうだな。それに、俺は写真で生前の倉持を見た気がするんだが、あんな男だったか?」
 やはり先輩も違和感があったようだ。
「俺も思いました。なんか雰囲気違いましたよね」
 同じ人物には違いないが、何かが違うように感じだ。マンションを出る前に管理人室へ寄ってみる。倉持の情報が得られるかもしれない。
 管理人は六十代くらいの男で、緑茶を啜りながらぼんやりとテレビを見ていた。刑事だと告げると、わざわざ管理人室の中へ招き入れた。狭い管理人室に、男三人が縮こまる。管理人は目を輝かせていた。平凡な毎日に倦んでいて、刺激に飢えているタイプなのかもしれない。こういうタイプは話を大きくすることがあるから、気を付けて聞かねばと俺はメモを取り出した。
「ああ、あそこの倉持さんね。仲の良い親子ですよ。お母さんは素敵なマダムだし、息子さんは好青年だし。なんでも、ずいぶんと資産家の家庭みたいだねえ。いいねえ、お金持ちは。ここのマンションの人たちは、みーんなお金持ち。まあけど、倉持さんのところはお父さんがひどい奴だったらしくてね。息子さんが子供の頃、暴力振るわれたりしていたらしいですよ。ひどいですよねえ。でもね、それが……」
 そこで管理人は、わざとらしく声を小さくした。
「息子さんが中学生くらいのときに、お父さん誰かに殺されちゃったんですって。殺人事件!」
「ええ?」
 先輩が声を出す。俺はメモを取る手に力が入った。
「昔の事件ですけどね。犯人つかまってないらしいですよ。それからはお母さんが会社の事業を引き継いで、息子さん、健介さんが大きくなってからは二人で、会社を成長させたらしいです。いやあ、人生何があるかわかりませんよね。お父さんが生きていたら、もしかしたら健介さんは暴力を振るわれ続けて、もっとひどい人生だったかもしれない、なんてちょっと思っちゃいます。あ、刑事さんの前で人殺しを擁護するようなこと言ったら、ダメですよねえ」
 管理人は野次馬のような好奇の目で俺たちを見ると、ハハハっと笑って、緑茶を啜った。
 俺は先輩と目をあわせる。同じことを考えているような気がした。

 マンションを出る。
「死んでいたはずの倉持健介は、生きていた。生きていたはずの父親がずいぶん昔に殺されていた。そして、倉持健介の人相は良くなって、〝好青年〟とまで言われている。過去が書き替えられた。そのせいで、未来が変わった。つまりこれは、暴力的な父親がいなくなったことで健介がまっとうに生きることができ、覚せい剤やストーカーなどの悪事に手を染めずに済んだ未来、ということか」
 先輩の言葉にハッとする。
「覚せい剤?」
 倉持健介は、ストーカーだけでなく覚せい剤にも手を出していたのか。
「お前の記憶にはないか? 俺のほうが覚えているようだな。倉持健介は、覚せい剤を常習的に使っていたようだ。さっきまでの、殺されたほうの倉持健介だ」
「死んだほうの倉持健介は、どうして殺されたのでしょう。もう一人記憶にある男、長谷部純とはどういう関係でしょう」
 先輩は頭を抱える。
「俺には、血にまみれた男が一人遠い記憶に見える気がするんだが、こいつは誰だ? 倉持健介は、絞殺される前に刺殺されたのか?」
 血にまみれた男……つんと鼻につく血液のニオイが遠い記憶によみがえる。真っ赤な狭いアパートの玄関。
「先輩、その血まみれの男って狭いアパートの玄関に倒れていますか?」
「ああ、そうだ。お前にも記憶があるか?」
「記憶というほどはっきりしたものではありません。もっと曖昧で……夢で見た景色のような」
「俺もそうだ」
「その男は、太ってはいませんでした。もしかして、血まみれの男が長谷部純ですかね」
「長谷部純が死んだ過去と、倉持健介が死んだ過去があった、ということか」
「その両方が、書き替えられている気がします」
「となると……時空移動をしているのは白川陽菜か。死んでいたら、時空移動はできない。一連の殺人事件の関係者で死んでいないのは、白川陽菜だけだ」
 先輩は、自分の手帳に【時空移動の犯人は白川陽菜】と殴り書いた。俺も、また書き替えられないうちに、慌ててメモをした。
 白川陽菜が時空移動を繰り返していると考えてみると納得もいく。
 白川は、恋人の長谷部を殺したのは倉持だと確信し、過去へ行き倉持を殺した。しかし、倉持殺害の容疑が自分にかかったことを知った。だから、自分のストーカーの倉持を殺すのではなく、そもそもストーカーにならないようにさらに過去を書き替えたというわけだ。倉持の父親を殺すことによって。二十年前までさかのぼれば、さすがに逮捕されないと思ったのだろう。もちろん警察は、過去へさかのぼって事件捜査をすることはできない。
 白川は倉持から父親との関係性を聞かされていたのかもしれない。そして、倉持が悪事に手を染めることになった経緯も。白川はその過去を書き替えた。そして倉持は今、母親と一緒にまっとうに生きている。そして、自分へのストーカー行為は起こらなかった。つまり、恋人の長谷部純は殺されない。
「もしかして、さっき俺たちがいた小綺麗なアパートは、白川陽菜の家じゃないか? ああいうタイプのアパートは、女の単身者が住むことが多いだろ」
 先輩が顎を撫でながら言う。目の前に時空移動の違反者、つまりは過去を書き替えている張本人で、殺人事件の犯人がいたかもしれないのに、思い出せなかったことが悔やまれる。
「白川の身柄を確保しましょう」
「おう」

 先輩と一緒に白川のアパートと思われる場所へ急ぐ。車が使えないのは痛手だが、いつ時空移動が起こるかわからない。自分の足で走るしかない。
 さっき時空移動を感じた小綺麗なアパートが見えてきた。
「あそこですね」
 そこで、先輩が脱兎のごとく駆け出した。
「いたぞ、白川! 待て!」
 そこには、背の高い女が慌ててアパートのほうへ走る姿が見えた。
 先輩が走る。俺も追いかける。
 女が自分の左手首についている腕時計を触っている。
 その瞬間、立ちくらみのような感覚がする。まさか、またか! くっそ。俺はよろめきながらも走ってアパートへ駆け寄る。
 その瞬間、先輩が消えた。
 一瞬だった。そこにいたはずの先輩が、跡形もなく消えた。
 どういうことだ。先輩はどこへ消えた。
 白川もいない。気が逸る。
 まさか……また過去が書き替えられたとしたら。白川陽菜は、おそらく何件もの殺人事件に関わっている。まさか先輩も……! 恐ろしい想像を払いのけて、俺は携帯電話をポケットから取り出す。すると、ちょうど先輩からショートメールが来ていた。俺はドッと背中に汗をかいた。ほっとしたのだ。最悪のケースは回避した。良かった、とりあえずは、生きている。
 先輩からのメールを開けてみる。
【今日の朝採れ野菜】
 なんだこれは。
 画像が添付されている。画質の荒い写真の中で、先輩が嬉しそうに何かの野菜を持っている。どういうことだ。先輩とは、今の今まで一緒にいた。もうずっとコンビを組んで捜査をしてきた。ついさっきまでの先輩は、鋭い目をした猛禽類のような刑事だった。しかし、この画像の先輩はすっかり闘争心を失くした、まるで陽だまりのすずめみたいだ。
 胸に沸き起こる不安な感情とともに、脳内の記憶が塗り替えられていく。そうだ。先輩は、一年前に早期退職をして、田舎に広い土地を買って……
「嫁さんが昔から田舎暮らしに憧れていてな。いつも行ってる美容院の人に、背中を押されたらしいんだ。田舎暮らしをしている友人がいるけど、すごく充実しているみたいですよって、おすすめされたらしい。今まで苦労ばかりかけたから、今後は嫁さんとのんびり暮らすことにするよ」
 先輩の言葉がいつの間にか記憶に刻まれていく。いつも行っている美容院と言っていた。もしかして、それが白川陽菜の可能性はないか。先輩は、さすがに殺されなかった。しかし、奥さんを巧みに使って早期退職に追いやられたのだ。
「ちくしょう!」
 俺は白川陽菜の部屋の前で大きな声を出した。ドアを叩くが、中には誰もいないようだった。

 俺は警察署に戻った。先輩はいなくなってしまったし、時空移動の犯人の目処をほかの刑事にも共有したかった。
「白川陽菜が、違法の時空移動を繰り返しながら、過去を書き替え続けているということか?」
 俺の話を聞いた警視が顔をゆがめる。
「そうなれば、辻褄があうかと」
 うーんと警視が唸る。
「よく思い出してみたのですが、一回目の時空移動の直後、白川陽菜は自分たちを見て少し驚いたような顔をしました」
「自分たち?」
 ああ、そうか。先輩は早期退職しているんだ。
「いや、自分を見て、です。こちらとしては初対面のはずでしたが、向こうは俺を知っていたような顔です。つまり、俺の過去は書き替えられていたから白川陽菜に会った記憶はなくなっていたけれど、白川が時空移動をした張本人なら、全ての記憶の詳細を持っていても不思議ではありません」
 今までの人類の歴史上でも、そうだった。時空移動をしている本人たちだけが、書き替えられた全ての過去の記憶があるのだ。だから、アメリカの崩壊を防いだことも、日本の東京直下大震災の被害を最小限にすることができたことも、記録に残っている。過去を書き替えに移動した本人たちが記憶を記録していたからだ。
「白川陽菜は左手首に大きめの腕時計をつけています。昔、海外で個人用に普及したタイムマシーンは、腕時計型のものもあったと授業で習った覚えがあります」
 そうだ。最初に会った白川陽菜は、腕時計をしていなかった。長谷部純が殺害されたときだ。しかし、二度目、長谷部の部屋の前で会った白川は大きめのスポーツタイプの腕時計をしていた。先輩が目の前で消えたときも、白川は腕時計を触っていた。
 あれが、タイムマシーンなのではないだろうか。
 ここで、はたと疑問が浮かぶ。
「そういえば、時空移動する前の記憶が残っているのは、どうしてでしょう」
 そうだ。本来ならば、時空移動をした本人以外、その記憶は残らない。なぜなら、過去が書き替えられてその未来はなかったことになっているからだ。記憶に残らないのは、そもそも体験していないからだ。しかし、今の俺は書き替えられる前の過去も遠い記憶の隅に残っている。はっきりと明確に、とまではいかないが、思い出せるのだ。
 警視は、書類の束をばさりと机に置いた。
「警察図書館から取り寄せた。アメリカ合衆国が時空移動によって崩壊したときの情報がまとめてある」
 俺は書類を手にし、読み始めた。
【短期間のうちに時空移動を複数回繰り返した場合、書き替えられて体験しなかったはずの未来が記憶に残ることがある。個人差が大きく、完全に忘れてしまう人もいるが、微かに覚えている、という人が多い】
 最初の時空移動のときはほとんど何も思い出せなかったのに、時空移動を繰り返し体験するうちに思い出せるようになったのは、こういうことだったのか。
「当時のアメリカでは、記憶の完全消去がされないことも国の崩壊を招いた原因らしい。会社が潰れた、という記憶を持ったまま出社しなければならなくなったり、A氏は死んだ、という記憶を持ったままA氏と会話しなければならなかったりする。記憶の混乱だけじゃなく、かなり多くの人が精神に不調をきたしたそうだ」
 警視は文献を全て読んだらしかった。精神に不調をきたす、と言われて納得がいく。今日の、数回だけの時空移動でも気が変になりそうだからだ。自分の記憶が信じられなくなる。覚えていることと違うことが起こる。死んだはずの男が生き返っている。自分の知らないところで、勝手に過去が書き替えられる。それは不気味であると同時に、苛立ちもすることだった。自分で自分が信用できなくなってくるのだ。先輩と一緒じゃなかったら、正気ではいられなかったかもしれない。
「そこから復興したアメリカだが、そのあと何年も、いや何十年も、いわゆるトラウマに悩まされる人が絶えなかったそうだ。アナログムーブメントの流行は、こういった背景もある」
 やっぱり、科学の進歩は人を幸せにはしない。俺もアナログムーブメントには賛成だ。
「だが、お前の考えが正しいとなると、白川陽菜は個人用のタイムマシーンを所有していることになるが、いつどこでそんなものを手に入れたんだ。規制も管理も厳しいはずだろう」
 警視は苦り切った顔で言う。時空移動が行われたのはもはや疑いのない事実だが、時空管理局への届けのない時空移動は、世界政府からも睨まれる。日本の警察の威信に関わるのだ。
「どんなものでも、規制されれば闇で流通するのが世の常です」
 白川陽菜は、最初の殺人事件のあとに事情聴取を受けているはずだ。聴取が終わってすぐに、個人用タイムマシーンの闇取引をおこなったことになる。もしかしたら、アナログムーブメント反対派の過激組織が利用する〝インターネット〟に精通していたのかもしれない。今では完全に規制されているインターネットだが、かつては広く世界を繋ぐツールとして利用されていた。今でも、アナログムーブメントに反対する人々が、隠れて使っていると聞いたことはある。時空管理局と警視庁の情報技術犯罪対策課が目を光らせているが、摘発はいたちごっこだ。
 警視は諦めたような顔をして「わかった」と言った。
「白川陽菜を、時空移動法違反者として指名手配しよう」
「ありがとうございます!」
 そのときだった。足元がぐっと沈み、立ちくらみのような感覚がする。不安と焦燥が胸を満たす。
 ちくしょう、またか。
 早く白川陽菜の身柄を確保しなくては、何もかも奴の思い通りになってしまう。すっかり奴の手の平で踊らされているのだ。
 そこへ、先輩が会議室に駆け込んできた。
「先輩!」
 会わなかったのはほんの少しの時間なのに、ずいぶんと久しぶりな気がする。野菜を持っていた長閑な先輩の顔が、すーっと記憶から薄れていく。
「なんだよ、じっと見て。顔になんかついてるか?」
「なんでもないっす」
 どうやら先輩の早期退職は書き替えられたらしい。やっぱり、陽だまりのすずめになるのは少し早い。しかし、今度はいったい何が書き替えられたのだ。
「そんなことより!」
 先輩は俺を押しのけて警視のほうへ向かった。
「白川陽菜ですが、すでに死んでいます」
「なにい!」
 警視は目を見開いて立ち上がった。
「どういうことだ!」
「白川陽菜が怪しいと思って、調べていました。役所で戸籍の確認をしたところ、死亡しているんです」
「いつだ」
「二年前に、自殺です」
 会議室がしんと静まった。警視は黙って、腕を組んだ。

 集まった捜査員の記憶と、現在ある記録を照らし合わせると、死んだのは白川陽菜だけだった。倉持健介と長谷部純は、生きている。二十年前に死んだはずの倉持の父親も、生きていた。誰も殺されていない。
「恋人が殺されるきっかけになった自分を消すことで、未来の恋人を守った、ということでしょうか」
 刑事の一人が発言する。警視は腕を組んでうなっている。
「ストーカーの過去を変えたところで、自分は時空移動法違反者と倉持の父親殺人の罪で警察に追われてしまう。過去の自分を死ぬことで、恋人を守り、全てを解決した、ということでしょうか」
 刑事たちが各々の意見を述べる。捜査会議は「白川が自殺することで未来の恋人を守った」という結論に固まりつつあった。警視は、ふんふんと頷いている。
「そうだな。それで決まりのようだな」
 もしかしたら、警視としてはそのほうが収まりがいいのかもしれない。結果的に殺人事件は起こっていないし、死んだのは白川陽菜一人で、しかも自殺だ。時空移動を繰り返し、過去を変えながら警察を翻弄した犯人が存在することは、日本警察の恥であり、世界にとっても良い影響は与えない。結果的には、白川陽菜が二年前に自殺しただけで、ほかには何の事件も起きていないのだ。
 俺は釈然としない気持ちのまま、会議室を出た。

 本当にそうだろうか。
 白川陽菜は、自殺して全てを終えたのだろうか。今まで書き出したメモのページをめくる。消えてしまったページもあったが、白川陽菜の名前は繰り返し書いた覚えがある。ひたすらに振り回されたような気がしている。白川陽菜は、警察をうまく出し抜いて翻弄していたような記憶が、微かだが確かにある。そんな人物が、自殺をするだろうか。

 俺は、長谷部純のアパートに来た。メモに書いてあったアパートだ。そもそも、ここから始まった気がする。ここで、男が、たぶん長谷部純が血まみれで死んでいたのだ。血のニオイがツンと鼻によみがえる気がする。はっきりと記憶にはないが、たぶんそうなのだ。それを、俺は白川陽菜と一緒に見た。泣きながら「殺してやる」と叫んでいた白川陽菜。
 記憶とまで言えないような漠然とした曖昧な想像を思いめぐらせていると、長谷部純の部屋のドアが開いて誰か出てくる。長谷部だろう。
 しかし、もう長谷部に用はない。今の長谷部純は、二年前に恋人を自殺で亡くしたかわいそうな青年だ。そっと目で追っていると、長谷部と一緒に部屋から女が出てきた。もう別の恋人ができたのか?
 でも……そうか。
 恋人が自殺したとしても、二年もあれば立ち直るものか。気持ちも落ち着いて新しい恋人もできるか。
 いや、そもそも白川陽菜が自殺をしたのは、長谷部純と知り合う前だったかもしれない。それなら、自分と知り合わないまま幸せになってくれるよう、白川陽菜は願いながら死んだことになる。警察を散々振り回した白川も、恋人に対しては健気だったということか。たしかに、そもそも白川陽菜が時空移動をしたのは、おそらく長谷部純が死んだからだ。血まみれの恋人を見て、助けたいと思って、過去を書き替える決心をしたに違いないのだ。つまりは、恋人を救うためなら手段を選ばない女だったのだ。自殺をしてもおかしくない、か。
 長谷部純のあとから部屋を出てきた女は、背が高く細身だった。どことなく、白川陽菜に似ている。長谷部の好みのタイプ、ということか。白川陽菜は、髪を紫色に染めた美容師だったが、この女は黒い髪でもっとおとなしそうだ。
 ……しかし……似ている。
 俺は鼓動が早くなる。
 あまりにも似ている。
 髪型や色は違うが、体型や雰囲気が似すぎている。あの女、まさか白川陽菜ではないか? 俺の中の刑事の勘が、鋭く反応する。俺は二人に駆け寄った。
「すみません」
 思わず声をかける。
「はい」
 長谷部純と女が俺を見た。
「警察のものですが、このあたりでちょっと事件がありまして、申し訳ありませんが、何か身分を証明できるものを持っていらっしゃいますか?」
 俺は苦し紛れの嘘で、二人の身元を確認しようとした。二人が怪訝そうな顔をする。俺は警察手帳を見せたうえで、穏やかな態度を意識した。
「すみません、ご協力していただけると助かるのですが」
 俺の低姿勢に、男が財布から免許証を出した。そこには、長谷部純と書いてある。顔写真も長谷部だ。たしかに、この男は長谷部純だ。
 俺は女のほうを見る。
 女は、白々しい顔で「免許証持ってないんですけど」と言いながら、健康保険証を出した。
 正面から見た顔は、やっぱりたしかに白川陽菜だ。服装のイメージも髪型も違うし、スポーティな腕時計もしていないが、やはり白川陽菜に見える。やっと捕まえられるのか。俺は逸る気持ちが顔に出ないように気を付けながら「お手数かけます」とにこやかな表情をはりつけ、保険証を受け取る。

 田中あつこ

 そう書いてあった。思わず女の顔を見る。
 いや、こいつは白川陽菜だ。田中あつこなんて、今までどこにも出て来なかった。メモにも書いていなかったし、白昼夢のような朧げな記憶の襞の中にもいない。しかし、保険証は本物だ。偽造ではなさそうだ。そもそも、戸籍から白川は消えているのだ。
「あの……もう、いいですか?」
 女が俺を見る。
「あ、はい」
 女の目の奥に、微かな優越感が光った気がした。
「ありがとうございました」
 俺は女に保険証を返す。女が口の端を少し上げたように見えた。
「じゃあ、失礼します」
 そう言って去っていくふたりの背中を見つめた。女は長谷部純の腕に、自分の腕を絡ませた。俺は歯噛みしながら考える。
 どういうことなのか。
 戸籍上の白川は死んでいた。しかし、今目の前に「田中あつこ」と名乗る「白川陽菜」がいる。そこから導き出される、一つの結論に至る。恐ろしいが、そうとしか考えられない結論に。
 そこまでするか、白川陽菜。
 俺は、この女の真の姿を見た気がした。
 つまり、今の女は、過去からずっと生きてきた白川陽菜なのだ。過去を書き替えにいった白川陽菜は、現在に戻ってきていない。
 過去を書き替えにいった現在の白川陽菜は、二年前の自分と長谷部純に説明したにちがいない。これから未来で起こることの全てを、そして自分が未来から過去を書き替えにきたことを。そして、過去で自殺をした。長谷部純は、未来から来た白川陽菜を、当時の白川陽菜として扱った。
 つまり、二年前に自殺したのは未来から来た白川陽菜で、当時の白川陽菜は生きていたのだ。そして、何かしらの方法で新しい戸籍を手にいれて、田中あつことして生きてきた。タイムマシーンを闇取引できるくらいのタフな女だ。二年の間に戸籍を手に入れるくらい、できたわけだ。それも〝インターネット〟のなせる技なのかもしれない。
 世間的にも、戸籍上も、白川陽菜は死んだ。ストーカーの倉持健介はショックを受けたかもしれないが、もうストーカーをする相手はいない。別の獲物を探し出したかもしれない。
 現在、もう白川陽菜はいない。存在しないことになっている。何の罪でも裁くことはできない。

 俺は、腕を絡ませ去っていく二人を見送り、自分の無能さを罵った。俺たち警察の完敗だ。一人の女に、まんまと振り回されて、そして負けた。一人の女の執念の勝利だ。もう俺たちに、正しい過去などないのだ。
 秋の気配を乗せた風が、俺をからかうように頬を撫でた。俺は唇を噛みながら、去っていく二人に背を向けた。


【おわり】

ここまでお読みいただきありがとうございます。いつ書いたのか忘れてしまったくらい前に書いたものです。つたないですが、修正せずにのせますね~。過去は過去として受け入れまっせ!


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秋谷りんこ(あきや・りんこ) おもしろいと思っていただけましたら、サポートしていただけると、ますますやる気が出ます!