小説:子宮と錯乱【10351文字】
妹が妊娠した。スマアトフォンのメイルでその知らせを受け取ったとき私は自室のベッドに仰臥していた。囃し立てるような冷やかすような耳障りな着信音の元に手を伸ばし、皮膚と何日も洗っていないシイツが擦れるだけの摩擦さえ疲弊させる筋力のない腕をようやっと伸ばしてその電子機器を手にしたとき、皮膚がナマコの表面のようにぬるりとざらりと波打ったのがわかった。これは悪い知らせ。確信しながらメイルを開けると、妹の懐妊を知らせるものだった。
ナマコ皮膚は水中から砂地に潜る。私はダアクモオドにしていても眩しすぎて凝視できない電子機器の画面を消して喉元にこみあげる吐き気に耐える。ベッドに仰臥したまま私は数センチ沈む。沈んだ先は砂地。水中でも砂はしゃらしゃらと流れ流浪の民は私の口や鼻や耳、目に流れ込んでくる。物体は高いところから低いところへ。絶望しても懐妊しても世界の物理法則は変わらない。ぎりぎりと歯ぎしる間もなくじゃりゅじゃりゅと砂が口いっぱいに溢れ砂に擦られ唇の端が切れる。血液は十円玉の味。砂が喉を埋め尽くすころいよいよ苦痛に耐えきれず闘牛の日本短角種より重たい体を砂地から引きはがす。冷凍した輪ゴムのように弾力をなくした腹筋をどうにか収縮させ私は起き上がる。転がりながらトイレに駆け込むと、便器を抱えて砂と今朝食べた豆腐の味噌汁を吐いた。陶器は薄汚れていて黄ばんでいる。半消化の豆腐は白濁していて粘性があって精液のようだった。酸っぱい口の端に唾液が糸を引く。
【おめでとう。体大事にね】
スマアトフォンの画面はロシア兵のアヴァンギャルドより冷たい。指先がカマキリの尻から出たハリガネムシのように痙攣する。嘘というわけでもないのにどうしていつも通りにいられないのだろう。ハリガネムシに誘導され私は台所へいき口を漱ぐ。指先についたハリガネムシはそのままシンクへ流れていった。妹のようにうまいこと子孫を残すのだろう。カマキリは自転車に轢かれて死んだ。私はシンクにもたれながら、真空さながら空っぽの胃からそれでもこみあげる吐き気に耐える。
何事も我慢の連続だと思う。妊娠しない体を舐め終わった飴の棒のように持て余す。紙でできた棒はいつまでも口の中でふやけて次第に綿棒のように膨らんでいく。唾液で膨張する綿棒。いつまでも着床しない私の子宮内膜。夫の精子は健康だというのにどうして私以外の人ばかりやすやすと妊娠して私はいつまでも置いて行かれるのだろう。不妊治療で使ったお金を計算することを辞めたのはいつからだろう。宇宙の霧の中から鍵をひとつ探すような探索。触発されて私の子宮も元気を取り戻さないだろうか。
三八七万四千円。
嗚呼。計算しないようにしていたのに覚えてしまっていた。私が子宮で卵子を殺すために使った費用。私の子宮が人を殺した費用。生まれるはずだった受精卵は私の無能な子宮内膜によって殺された。体外受精五回。膣壁から卵巣にむけて長い針で突き刺して採卵し、顕微鏡下で受精させ、ある程度育った状態で胎内にへばりつかされる受精卵。移植と呼ばれるその行為は、尿を最大限我慢した膀胱が緊満した状態で行われる。ぎりぎり排尿を我慢しながら受精卵を移植される子宮。排泄器官と生殖器官が近いのはなぜだろう。ともかく、さまざまな工程を経て三八七万四千円かけて私は五人殺した。それでものうのうと息をしてシンクにもたれかかって人であろうとする私に、ハエがげっぷをするように天啓がおりてきた。
──死に時だ。
笑う気にもなれなかった。シンクの下を開けると薄力粉や醤油やレトルトのカレエが雑多に押し込んであり、その一番手前の開きのところに包丁が刺してある。冬の孤児の髪のような銀色。柄はくすんだ黒。黴臭い湿った収納を眺め包丁を手にする。太い血管の通っていない腕の甲に刃を当てる。皮膚に触る刃が懺悔を踏みにじる司祭のようにヒインヤリとする。死ねばいいと思ってはいてもそう簡単ではないことも承知していた。誰にも迷惑をかけずに生きていくことは本当に難しいけれど、誰にも迷惑をかけずに死ぬほうが何億倍も難しい。針の穴に糸こんにゃくを通すほどに難しい。こんにゃくはひじきを混ぜ込んでわざわざ灰色にしているそうだ。傲慢だな。
生魚のような臭いが鼻から離れず気分が悪かったが、おからの脳でも一応は理解した。ここで死んではいけない。
包丁を収納に戻し、シンクにもたれながら立ち上がる。幼児のつかまり立ちよりおぼつかないが、支えてくれる大人はいない。ソファまで歩いてクッションにスマアトフォンを投げつける。しならせた竹のように速く、その俊敏さと獰猛さに自分が一番驚いた。嫉妬は怒りへ。怒りは速度へ変換される。新しい物理法則を発見した私とリビングにあったすべての物体が、一瞬宙に浮いた。
不妊治療を辞めてから夫とは別居している。夫は出て行った。私は夫に復讐されるかもしれないと思った。同時に、そんな馬鹿なことが起こるはずもないとわかってもいた。私の思考はいつも答えの出せないポンコツな数学者のようだ。莫大な研究費を無駄にして公式のひとつも見いだせない愚か者。脳がおからでも仕事をしなければ社会から抹殺される時代であるから私は仕方なく服を着て外へ出る。じんじんと皮膚を焼く灼熱の日差しも何もかも全てが私を懲らしめている。世界は私を痛めつけるようにできている。サンダルから飛び出た外反母趾の指を蟻が噛む。ひねりつぶせるほど小さな存在にも私は痛めつけられる。どれもこれも、私が卵子を殺した所為。
職場につくと、裁判官が三人いた。
「主文朗読は後回しにして、先に判決理由から述べます」
「ノベマス」
「野辺マウス」
背の高いヒュルリイとした男性の裁判官は声が低かった。ほかの二人は背の小さな頑丈そうな体躯の持主だった。声はしわがれた老人のようだった。判決前に理由が述べられるのは死刑のときだけだ、と聞いたことがある。だから私は裁判官たちを無視することにした。私が死ぬときは、夫に復讐されるときである。
事務仕事は簡単ではないが社会から抹殺されるよりは易いかもしれない。駄菓子のようなパソコンのキイボオドを叩き、鼓膜のように薄い数字を入力していく。単純作業の繰り返しは、慣れてしまえば苦ではない。仕事をしていなかったらとっくに自宅のベッドでマットレスに浸透していたはずの私だから勤労の存在は有難かった。凍えた老婆のように動きの鈍い手指でも日銭を稼ぐことはできる。そのことだけで私はどうにか今生きている。
週末に妹を見舞うことになった。悪阻が酷いらしく何も喉を通らないらしい。かつて私を産んだ母と一緒に妹の家に行く。コンクリイトみたいな青灰色の顔色で妹は出迎えてくれた。私は甘い匂いの強いシュウクリイムを差し入れに持って行った。
「お姉ちゃん、そんな甘い匂い、気持ち悪くなるからやめてよ」
率直な妹の言い分に私は惨めになる。何をしても惨め。気の利いた差し入れをできてもできなくても惨め。なめくじ。蛆虫。果たしてそこに故意の悪意はなかったのかと自問自答するが答えは明々白々。
「ああ、ごめんね。気が利かなくて」
五個も買ってきたシュウクリイムを私はその場で一つずつ口に入れた。モソンモソンとする皮を咀嚼すると冷たいカスタアドクリイムが溢れ出てくる。外来種がメダカを駆逐するようにほとんど丸飲みでシュウクリイムを五個飲み込む。妹が私を見て嫌な顔をする。排水溝につまった髪を見るような顔。口のまわりを汚しながらシュウクリイムを飲み込む姉なんて嫌に決まっている。母は見て見ぬふりをして、妹にアイコンタクトをしている。(お姉ちゃんはちょっと頭がおかしいから、そっとしておきましょう)(いつもそう。お姉ちゃんは私に嫌なことばかりする。今日だってなんで連れてきたのよ)(連れてこないわけにいかないでしょう。そのぶん、お母さんが良くしてあげるから)
母と妹が私の陰口を言うのは妹の妊娠と無関係に昔からのことなので、私は気にしないことにする。子供の頃からそうだった。私は陰口を言われて育った。私だけかわいがられていないと感じた。事実はどうあれ、私は扱いにくい子供だったのだ。おとなしくて一人遊びの好きなちょっと不気味な子供。言葉が遅く親戚から馬鹿だと言われた子供。妹の下腹部はまだ膨らんでいなかった。それでも白黒のエコオ写真には確かに小さな生命が写っていた。
「まだこんなに小さいのに、生きてるなんてね」
エコオ写真を見ながら妹が阿保ほど長閑な口調で言う。エアコンがぶおんぶおんと部屋を冷やしている。
「あなたたちだって、大昔はこんなに小さかったのよ」
母が間抜けなほど嬉しそうに言う。私は自分がかつてこの母の股から絞り出されてきたとは到底信じられなかった。そして妹は、あと数か月もしたらスイカほどの大きさのある乳児を自分の体内から産みだすのだ。恐ろしいと思った。人間が体内で人間を造っている。人間が体内でゼロから人間を造りだしている。私も望んでいたことなのに、今更恐ろしいことに思えてきた。恐ろしいと思いつつ、海亀が舌を伸ばすほどの狂いそうな嫉妬にも気付いていた。嫉妬は怒りに変換され、怒りは速度に変換されるともうわかっているから、帰りの運転は母にお願いしたほうがいいかもしれない。今なら時速384400㎞に到達するだろう。
母は私をアパアトの前で降ろしてから「たかしさんとは連絡とってるの?」と聞いた。たかし。別居している私の夫の名前。病めるときも健やかなるときも一緒にいると誓い合った仲ではあったが、子供ができないときも一緒にいるとは誓わなかった。
「連絡とってないね。でも、そろそろ会わなきゃと思ってる」
口に出してから初めて自分がそう思っていたとわかった。それは梅の香りがすると思ったらもう春だったのか、と思う感覚に似ている。もしくは、金木犀の香りがすると思ったらもう秋だったのか、という感覚。意識を感覚が追い抜く。季節には境目がないから、人は草木を愛でるのかもしれない。「そうね。今後のこと、ちゃんと話し合いなさいよ」
母はそういうと勢いよく車を発進させた。五個もまとめて食べたシュウクリイムが胃に堂々と鎮座している。このまま明日までは何も食べられないだろう。家に入ると目の前が霞むから何だろうと思ったら涙が出ていた。
「エコオ写真なんて見なければ良かった」と思わず口に出していた。あんなに小さくて愛おしい。かわいい。かわいい。かわいい。守りたい。育てたい。ほしい。ほしい。ほしかった。ほしかった。私もほしかった。私もほしかった。目から涙がじゃあじゃあ流れる。ひっくひっくと腹膜が痙攣する。シュウクリイムが存在感を強める。血液が体内をぐんぐん巡る。感情を司る脳が八つ裂きにされる。どくんどくん、ぐにゃり。心臓が歪むように脈が乱れる。視界が白く煙ると同時に全身の皮膚がぞわぞわとし始める。虫の大移動が始まった。床が沈むように眩暈がする。日中の熱を閉じ込め蒸し風呂のようになった部屋で私は崩れた。
ファミリイレストランとは嫌な名前だ。家族を持たない人間は拒まれている。私は世間から疎まれているし拒まれている。ファミリイレストランの大きな窓をじっと眺めて夫が座っていた。世間と同じく私を疎み拒んだ男を眺める。お互いの染色体を交換しあって新しい人間を産みだそうとしあった仲なのに、ずいぶんと遠く見える。ツウブロックにした短い髪。私の嫌いな髪形。ゆっくり近づいて声をかける。ファミリイレストランのリノリウムはちょびっとべたつく。
「久しぶり」
「あ、ああ」
夫の正面に座る。夫は健康そうな顔をしていた。もっと貧相だったのに。もっと痩せていたのに。もっと顔色が悪かったのに。なんだか健康そうに見えることに無性に腹が立って、自分はひどく不健康に見えているといいのにと思う。
「仕事大丈夫なの? 呼び出してごめんね。今後のこと、話さなきゃと思って」
どうして私が謝るのだろう。夫はセイウチがあくびをするように間延びした表情で心底めんどくさそうに私の顔を見た。退屈がグラスの水を飲む。そして私を見て言う。
「少し痩せた?」
少し。夫にとってそれはどの程度を表現するのだろう。私は夫と別居してから七キロ痩せた。それ以前に不妊治療中に五キロ痩せた。女性ホルモンを司る薬の副作用で吐き気がするたび、これが悪阻なのかと毎回期待した。どんなひどい悪阻でも耐えられるはずだったのに、私に悪阻はやってこなかった。不妊治療をやめてからも体重は減る一方で、今は三十八キロになってしまった。身長は百六十三センチあるからおそらくかなり痩せている。それでも夫には、少し、としかうつらなかったのならそれが夫にとっての事実である。
「ああ、うん。少しね」
「ちゃんと食べてね」
この前はシュウクリイムを五個もまとめて飲み込んだ、と言ったらどう思われるのだろう。あれは悪意の象徴だった。私は悪意を自分で飲み込んだ。消化され吸収される悪意。私の内臓は実に優秀だ。悪意は吸収され脳へ戻ってきた。その罰として私は八つ裂きにされ、あやうく出血多量で死ぬところだった。
夫は私を見ているようで見ていなかった。目が合わない。眉か鼻か、目ではないどこか近くを見ている。そのせいで、私は自分が認識されていないと感じた。
「今後のことだけどさ」
夫は、いつの間にかもはや私の眉も鼻も見ていなかった。窓の外を眺めながら言った。
「離婚してほしいんだ」
りこんしてほしいんだ。私は、テエブルに置かれたボタンを押して店員を呼んだ。夫は黙って外を見ている。店員がテエブルに来る。
「ご注文は?」
「この人が私と離婚してほしいそうなんですけど、どう思います?」
私の発言に一番驚いた顔をしたのは夫だった。窓から見える夏空のほうがまだ鮮やかかもしれない、と思うほど青い顔をしていた。亀の甲羅にはえる苔。退屈そうだった表情は、驚愕と恐怖と怯えが混じっている。突然人間に撮影されて怖がっているジャングル奥地の猿。店員はつまらない大道芸を見たような顔をして「はあ……」と言って水の入ったグラスを置いて、去っていった。
「お前、何言ってんだよ」
夫は額に汗をかいているように見えた。こんなにエアコンが効いて寒いほどの店内なのになんで汗なんてかくのかしら。
「だって、自分では決められなかったから」
「やっぱりお前おかしいよ。どうかしてる」
どうかしているのかもしれない。でも、どうかしているのかもしれなくても、どうにもならないこともあるんだよ、と子供を悟すような気持ちになる。そんなことも知らないで大人になったの、かわいそうに。
夫はひどくもじもじしたあと「一回病院いけよ」と小さな声で言った。「病院?」
病院なら、夫と別居するまでの数年間で信じられないほど通った。腹に女性ホルモンを増強させるテエプを貼ったり尻に子宮内膜の発育を促進する注射をするために数えきれないほどの受診をした。今更どこの病院に行けというのだ。
「メンタルクリニックとか、そういう……」
夫はこれ以上ないほど言いにくそうに言った。人が死ぬほどの大きな仕事のミスが実は自分のせいだったんだ、と告白する上司よりも言いにくそうだった。私が精神を病んだのなんて、昨日今日の話ではないじゃないか。夫は知らなかったのだろうか。私が、心身を削りながら、精神を病みながら、体を崩壊させながら子宮で子供を殺していたことを。知らずに自分の染色体を私の胎内に預けたというのだろうか。
「離婚届けもってきているの?」
唐突に、今すぐ離婚してあげなければと思った。
「い、いや今日はもってない」
「次いつ会えるの? すぐに離婚するから、届けを持ってきて」
私の声は自分のコントロオルが及ばず切羽詰まったものになっていた。舌が乾く。ここで初めて私はファミリイレストランに入ってからずっと緊張していることに気付いた。さっき私を白い目で見た店員が置いていった水を少し飲む。冷たい液体が喉を通って胃に落ちていく。胃が痛い、と思った。ファミリイレストランの厨房に裁判官が三人いるのが見えた。
「有罪」
「ユウザイ」
「ザアサイ」
私は裁判官から見つからないようにいそいそと席を立って「離婚届け用意出来たらまた連絡して」と夫に言い残し、店を出た。生魚を活きたまま食べたように胃が動いている。痛い。殺すな、と魚が暴れている。足がびりびりする。地面で感電している。蜃気楼のようにユウラユラと空気は湾曲し、私は足場を失った。
帰宅するとすぐに夫からメイルが来た。
【明日、同じファミレスで、十四時】
すぐに役所にいって離婚届けを取ってきたらしい。今日も明日も、営業のあいまに別居中の妻に会ったりしていていいのだろうか、と少し心配になる。私は明日も休みだから大丈夫だけれど、夫と離婚したら仕事を増やさなければ生きていけないな、と思う。でもどうして生きていかなければならないのだろう。
「余計なお世話かもしれないけど、あなたの別れた旦那さん、もう再婚するみたいよ。お相手が妊娠しているんですって」
離婚してから何週間たったかわからないが、突然職場の同僚に言われた。意味を理解するまでに七秒かかった。まだ悪阻のひどい妹を見舞ってきたばかりだったから、青白い顔で下腹部だけかろうじて膨らんできた妹の顔が浮かぶ。夫の子供を妊娠しているのは妹。ではない。妹の旦那さんは別の人だ。記憶と情報と感情が錯綜して理解が追い付かない。
「そうなんですか?」
やっとでた言葉が、それだった。言葉は宙に浮いたまま、永遠に降りてこない空中ブランコ。
「ええ、そうよ。だから、あなたと離婚する前から関係があったんじゃないかと思って」
どうしてこの人はそんなことを知っているのだろう。しかも良い知らせのように話す。懐妊はめでたいことだから良い知らせなのか。祝福されるべき事象と哀憐されるべき事象。私は宙に浮いたままの自分の言葉を手で振り落として、そこに「そうなんですかね」と置いた。
私の体が少しずつ泥状になっていったのは、その日からだった。何をしていても歩いていても体の中に泥がたまっていくようで重くてうまく動けない。どくんどくんぐにゃりの不整脈は続いているし、耳鳴りもひどい。耳介にセミがとまっている。じいいいいじいいいい。絶え間ない耳鳴り。皮膚の虫大移動も常在し、頭は常にフワフワと上の空だった。それでいて感覚が過敏で音の出るものが耐えられなかった。雑踏を拒絶するようになった。何もかもに腹が立ち、何もかもに涙がでた。何もかもに絶望し、何もかもに憂いた。仕事中に唐突にしゃべれなくなり、ねばつく口をあわわあわわと動かすだけで発声されず、自分の動悸の音だけが全身を響かせ、上司から休暇をとるように言われた。私は自宅のベッドから出られなくなった。
とうとう私の体はヘドロになってしまった。薄い布団の上で、何日もカーテンは開けていない。緑色の葉と赤い実の絵柄のカーテンは、裾が長くて埃がたまりやすかった。今は、その埃すら身じろぎせずにじっとしている。じっと事の成り行きを見定めている。この部屋は時間が止まっている。静かだ。いったい、私は何日この布団の上で仰臥しているのだろう。明るいと暗いを繰り返していた窓が、今は暗い。夜なのか曇っている昼間なのか思い出せない。記憶にない。何も覚えていない。あんなにうるさかった耳鳴りはやみ、微かな吐息のような空気の振動だけが聞こえる。興奮も劣情も何もかもなくなった。涙も嗚咽も吐き気もない。静かで何もない。母は私を入院させようとしたけれど、私は断った。妹は悪阻がだいぶおさまり何でも美味しく食べられるようになったらしい。良かった、と心底思った。しっかり食べて赤ん坊に栄養をやらなければならない。
スマアトフォンで時間を確認しようにも充電が切れている。電気は止まっていないはずだから、コンセントに充電器を差せばいいだけのことなのだけれどそれすら億劫。もう体がヘドロなのだから仕方ない。ヘドロに充電は必要ない。ヘドロには水分が含まれているから、充電すれば多少は蓄電してくれるのだろうか。私の体も電気で動くようにできていればよかったのに、とふと思う。
ヘドロは臭いのではないか。私は私が臭いのかどうか、知らない。臭いのかもしれない。誰にも会わないから、臭くても構わないのだけれど、一度気になると確かめたい気がしてくるから不思議だ。知ったからといって対処するとは思えないのに。私の鼻が重い腰をあげてのろのろと体を嗅ぎまわる。持ち主に似て緩慢だ。丸い、形の悪い鼻が汗ばんだ足の指の間や膝の裏、陰部や肛門、腋窩、耳の後ろ、べたついた長い髪をかき分けて頭皮。臭そうなところを一通り嗅ぎまわった結果、やはり私は臭かったようだ。仕方ない。何日風呂に入っていないかも定かではない。妙なところに納得する。鼻は私の顔の中心、正確には中心より少し右側にずれて元におさまった。右の奥の歯が痛いから、おそらく虫歯なのだけれど、その所為で左側の歯ばかり使って咀嚼していたら顔が歪んだ。そもそも完璧にシンメトリイな顔の人間などいないそうなので、ヘドロである私ごときは歪んでいて当然だ。ついでと言ってはおかしいが、口臭がひどいことにはとっくに気付いている。嫌な臭いを発しやすい口と、嗅覚を感知する鼻がこんなに近くにあるというのは欠陥なのではないか。でも、肛門や尿道口と鼻は遠いから正しいのかもしれない。正誤に関わらずこの体の出来で過ごしていくしかないから受け入れるしかない。
嗚呼、そうか、と脳内だけで膝を叩く。実際は手を膝にやるほど動けない。脳内で、そうか、と膝を叩く。体中のぞわぞわする感覚はもしかしたらヘドロに棲むハエの所為かもしれない、とはたと気付いて脳内だけで膝を叩く。ハエの幼虫が皮膚の内側を這っていたのなら、言いようのないぞわぞわする感覚も納得がいく。ハエだ。ハエだったのだ。私はついにハエの棲むヘドロになった。体の中で生命が生殖しているのならば、私の願いは図らずも叶ったことになる。こんな形で叶うなんて想像もしていなかった。ハエの繁殖万歳。私の生殖無能力万歳。
もう腕を持ち上げる力も残っていない。皮膚という薄い薄いたんぱく質でようやっと飛び散らずに済んでいる私のヘドロは、このままどこかの穴から流れていくだろうか。誰にも嫌な思いをさせずに死ぬことは本当に難しい。賃貸の一室で中年の女が体中の穴からヘドロを垂れ流して死んでいたら、いったい誰が喜ぶというのだ。完全な事故物件だ。いわくつきだ。迷惑この上ない。大家さんごめんなさい。しかもハエの繁殖つき。いっそ、ハエのブリーダーになろうか。それで誰かお金をください。もう食べるものもないので、誰か私のハエを買ってください。いやお金を手にいれたところで私の胃腸は何も受け付けない。どだい、胃腸もヘドロではないか。ヘドロに何か食わせたところで栄養になるとも思えない。
こんなに疲弊して指の先をほんの数ミリ動かすのも布団の生地と皮膚との摩擦が気になるほど体力を消耗しているというのに、こんなに思考が溢れてくるのはどういうわけだ。モグラの出てくる土の盛り。脳が一番エネルギイを使うのではなかったのだろうか。もしそうだとしたら、私は思考を停止して体を動かすほうにエネルギイを使ったほうが良い。そうすれば少なくとも、悪臭を放つこの体をどこか別の場所に運ぶことができる。誰にも迷惑をかけずに人生を終わらせられるところへ。果たしてそこはいったいどこだろう。どこまで行けば私は人に迷惑をかけずに果てられるだろう。どこでこのヘドロを放流すればいいのだろう。
あの日からいったい何日経ったのだろう。せめて十月十日は数えておこうと思ったのに、途中でわからなくなってしまった。夫の赤ん坊はもう産まれたのだろうか。夫の元気な精子はこの世に生命を残せたのだろうか。夫の遺伝子は生命のバトンを繋いだのだろうか。輝かしい未来。柔らかい赤ん坊。温かい家庭。美しい世界。何もかもが麗しく狂おしい。死にたい。死にたい。早くヘドロを放流して楽になりたい。湯葉のような薄い薄いたんぱく質一枚になりたい。
足元に気配を感じて重い頭を持ち上げると三人の裁判官が立っていた。「いつぞやは無視をしてすみませんでした」
私は正直に謝った。裁判官は私を裁いてくれるだろうか。私を裁くのは夫だけだと思っていたけれど、その夫もいなくなってしまった。
「被告は子宮で受精卵を五人殺した罪と、体内にヘドロを溜め込みすぎの罪により、極刑」
「キョッケイ」
「烏骨鶏」
肺を悪くした老人のような声で三人の裁判官が言った。嗚呼やっと裁かれる。これでやっと償える。自分も夫も受精卵も何もかも私の所為で不幸になる可能性があった何もかもに償える。殺された受精卵。海亀の涙。象の直腸。ダンゴムシの脚。粘性の液体。べたつく床。百足の角。雲丹の隙間。鼠の前歯。羚羊の毛皮。シンクの臭い。毛布の毛玉。深爪の痛み。眼精疲労の虎。何もかもを償える。
私は裁判官三人に抱えられ空を飛んだ。海へ。海へ行きたい。最期くらいは大好きな海へ。死刑囚が最期に一服許可されるように、せめて私は海へ行きたい。裁判官は南へ飛んだ。すっかり軽くなった私はヘドロにしては持ち運びやすかった。潮騒と砂浜の匂いがする。甲殻類と魚類と大きな哺乳類。紺碧の海にヘドロを放流して、早く楽にしてあげたい。
【おわり】
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