小説:淡雲さようなら【3462文字】
青が透けて見えるような雲の薄い空だった。
あまりの美しさに思わず見惚れる。特に急ぎの用事もない。私は、川沿いの遊歩道にあるベンチに腰を下ろした。梅雨の晴れ間。久しぶりに爽やかな日。風は穏やかで、川の流れる音と、微かに遠くの雨の匂いが混じる午後の二時。私は、長い髪を、ゆっくり指でかきわけて、撫ぜるように耳にかける。
何も考えられない。何も考えたくない。ただこの平凡な、ありきたりな日常に蕩けていたい。
煙草を一本咥える。細い指に細いメンソール。青白い煙はまっすぐに立ち上り、途中から空と絡まるように揺らめき、消えていく。その行く末を、ただ眺めている。
「おねえさん」
声をかけられて、横に小学生くらいの少女が立っていることに気が付いた。
「なに?」
「これ」
少女は小さな、名刺くらいのサイズの紙を、私に見せてきた。
「何それ」
「あげる」
少女は私に紙を渡すと、走って行ってしまった。髪の長い、大人びた目つきの、きれいな少女だった。渡された紙は、何かのチケットだった。
【劇団:さようなら】
聞いたことのない劇団だ。私は、変わり映えのない日常の中に閉じこもっていたかったが、突然渡されたチケットに、何か引っ掛かりを覚えた。それは、眼鏡のガラスについた指紋ほどの、些細な引っかかりであった。見ないふりはできる。でも、違和感がある。そんな些細な興味と微かな不快感を伴って、私はチケットに書いてある劇場を探してみた。
劇場はすぐに見つかった。書いてある住所の場所にちゃんとあった。
よく通る道であったが、こんな劇場があることは知らなかった。何せ、入り口が狭い。レンガ造りの古いビルで、狭いガラスの引き戸。横に、小さな宝くじ売り場みたいな受付。良く言えば、レトロな昭和の映画館みたい。悪く言えば、汚い場末の雀荘みたい。私は受付にいる女性にチケットを渡す。女性は無言でチケットを半分切って、私に返したあと、口角だけをあげてにっと笑った。
会場に入ると別世界だった。
入った途端、思わず足を止め、見渡してしまう。こげ茶色の絨毯、間接照明のような柔らかいライト、臙脂色のイスは余裕を持って配置されている。振り向くと、覆いかぶさるように三階席まであり、音を効果的に響かせる独特の作りになっている。こんなに広かったのか。あの入り口と建物からは想像がつかない会場だった。その広い会場が、ほぼ満席だ。たくさんの人が席につき、公演が始まるのを待っている。こんなに人がたくさん入るのか。人気の公演なんだな。不思議な気分だった。
チケットで席を確認して座る。椅子は上質な肌触りで、適度な柔らかさだ。ざわざわしていた会場が少しずつ静かになり、人々の期待が膨らんでいくのがわかる。私も少し楽しみになってきた。静まっていく会場。誰かの咳払い。
ライトがゆっくりと暗くなり、ステージの上に一人の少女が現われた。
さっき、私にチケットを渡してきた少女だ。劇団員の子だったのか。もしかしたら、チケットが余ってしまって、客を探していたのかもしれない。
「ある女の半生」
少女は唐突とも思えるほど大きな、よく通る声で、言った。
舞台上、少女は、ランドセルを背負っていて、一人で歩いていた。少し離れたところに、同年代くらいの少女たちがいる。一人で歩いている少女が振り向くと、離れたところにいる数人の少女たちは、顔を見合わせてクスクスと笑った。すっと胸が縮むような、切なさがこみ上げる。誰にでも多少は共感できるのではないだろうか。本当に、取るに足らない寂しい出来事。記憶の奥にしまいこんだ、微痛。ノスタルジーと呼べるほどの思い入れはないけれど、確かに存在した棘。そんなものを思い起こさせる場面であった。
一人で歩いていた少女は、その後もほかの少女たちに笑われたり無視されたり、仲良くしてもらえずにいた。だんだん少女に同情していく。あるとき少女は、自分の母親の常用している睡眠薬をこっそり持ち出して、意地悪をしてくる少女たちの、主犯の給食に混入した。何も知らずに給食を完食した主犯の少女は、めまいを訴え、保健室に行った。そして、そのまま翌日まで眠った。薬を盛った少女は、悔しがった。目を覚まさなければいいと思ったのに、と。期待と違った。今度はもっとちゃんとやらなければ。そう思いながら、歩いていると、ぬらぬらとつやめくナメクジを見つけた。少女は、力の限りに踏みつぶした。
私は、少女がナメクジを踏みつけた瞬間、ひっと声をあげそうになった。喉元に苦いものがこみ上げる。靴の裏でつぶれたナメクジのびじゃっとした感覚が伝わってくる。どす黒い内臓の飛び出したナメクジがはっきりと脳裏に浮かぶ。なんだか、気持ち悪い公演だ。
芝居をしていた少女は突然客席を向いて「それから十五年」と言った。唐突な、場違いに大きな声に、ぞっとした。
少女が舞台袖にはけると、若い女性が出てきた。少女が大人になった、ということらしい。女性は、淡い水色のワンピースを着て、長い髪がきれいだ。男性が出てきて、二人は軽くダンスをする。恋に落ちたという表現だろうか。なかなかに色っぽい動作のダンスが続き、少し目のやり場に困る。性行為を彷彿とさせる動きで、いったいどんなストーリーなのか、まだ理解できない。
次の場面になると、女性と男性は、一緒にソファに座ってくつろいでいた。
「ねえ、奥さんとはいつ別れてくれるの?」
不倫の恋らしい。女性が甘えた声で男性にもたれかかる。私は動悸がし始めた。なんだこの不快感は。
「ねえ、奥さんと別れてくれるって言ったじゃない」
女性は次第に感情を高ぶらせている様子だった。なんだか気持ち悪い公演だ。これ以上見たくない。どうせ無料でもらったチケットだ。興味本位なんかで見にくるんじゃなかった。帰ろうと思った。
「ねえ、私のこと、愛してるんでしょ、トモキさん」
立ち上がりかけた私は、その名前を聞いた瞬間、ほとんど叫びそうだった。心臓を直に手でぎゅっと握られたのかのようだ。だめだ。それ以上は。やめてくれ。もう終わりにしてくれ。見たくない。こんな公演見たくない。何が「ある女の半生」だ。信じられない。怖い怖い。呼吸がしにくい。動悸が止まらない。
舞台上では芝居が続いている。
「ねえ、私と結婚してくれるって言ったじゃない、ねえ聞いてるの? え、別れる? 私と? どういうこと、ねえ、どういうことよ」
女性は取り乱しながら男性に縋っている。男性は、女性の手を振りほどいて部屋を出て行こうとした。女性は醜い形相で、花瓶を手にし、大きく振り上げた。
「やめてー!」
私は立ちあがって思わず叫んだ。
舞台上の役者たちが驚いて私を見つめる。
はっと両手で口を覆った。
「ごめんなさい、私……私……帰ります」
歩き出す私を、役者と観客が見ている。全員が私を見ている。やめて、見ないで。視線が、全員の視線が私に集まっている。注目されている。何十の、何百の目が私を見つめている。やめて、見ないで。助けて、怖い。怖い。
私はもつれそうになる足を必死に動かしてなんとか会場を出る。受付の女性も私を見ている。やめて。見ないで。怖い。早く逃げなきゃ。劇場を出て、走る。空気が蒸し暑い。さっきまであんなに爽やかだったのに。長い髪が額に張り付く。気持ち悪い。つぶれたナメクジは、いつまでも靴の裏にへばりついて取れなかった。怖い。睡眠薬を飲ませた同級生は少ししたら引っ越していった。怖い。どうして忘れていたんだろう。こんなに怖いこと。足がもつれて思い切り転んだ。痛い。手を擦りむいた。血が滲む。水色のワンピースが汚れる。私、今日こんなワンピース着ていたっけ。怖い。雨が降ってきた。
ぼんやりと立ち上がって空を見上げる。顔に容赦なく打ち付ける雨。嫉妬と吐き気が雨にゆっくり溶け合って視界が灰色に滲んでいく。曇天の、青の見えない空。さようなら。どんどん雨は強くなる。私の空。きれいな空。変わり映えのない、美しい日常。さようなら。土砂降りになった梅雨の、晴れ間だったはずの今日。さようなら。
私は一番近い交番に入った。警官はずぶぬれの私を見て、一瞬ぎょっとした顔をした。
「どうかされましたか?」
私は、冷えた体をそっと自分で抱きしめる。
手に持った花瓶の重さ、冷たさ、振り下ろす重力、鈍い音。
どうして忘れていたんだろう。
「私……人を、人を殺しました」
さようなら。私の淡雲の日常。
《おわり》
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