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混ぜこぜな自分自身

たまに思うのだけれど、自分という存在は、まるでいくつもの人格が同居する家のようだ。
ある人の前では饒舌に夢を語る理想家としての顔を、また別の誰かの前では、決して見せることのない、世界の片隅で膝を抱える臆病者の顔を持つ。
だから、わたしという人間を語るとき、人々が思い浮かべる「わたし」の姿は、きっと万華鏡の模様のように、見る人ごとにまったく違った形をしているのだろう。
そして、そのどれもが本当のわたしであり、同時に、そのどれもがわたしの一部分でしかない。

この感覚は、いつから芽生えたものだったか。
記憶を遡れば、かつてのわたしは、もっと単純な生き物だったように思う。
心が硬直し、世界を「白か黒か」の二元論でしか捉えられなかった、スーパーネガティブな人間。
他人も、自分も、一度貼ったレッテルを頑なに信じ込み、その枠の中から一歩も出ようとはしなかった。

今は、違う。
まるで粘土のように、目の前にいるその人との関係性の中で、自分の形を自由に変えている感覚がある。
ある人には、柔らかな曲線を見せ、またある人には、鋭利な角を向ける。
それは偽りとは少し違う。
相手の水面に映った自分の姿を見て、その輪郭をなぞっているような、そんな奇妙な誠実さからくる行為なのだ。
人々は、それぞれの鏡に映った「わたし」を見ているに過ぎない。
そしてわたし自身もまた、その無数の鏡に映る自分を眺めながら、混ぜこzeになった自分自身の正体を探し続けている。


✅人間は平面で考えがち

人生という道を歩む中で出会った人々の多くは、驚くほど他者を平面的な存在として捉えていた。
親切な人、意地悪な人、賢い人、愚かな人。
一度そう認識してしまうと、そのイメージという額縁の中に相手を閉じ込め、それ以外の側面を見ようとしない。
まるで、一枚のポートレートだけを見て、その人物のすべてを理解したかのように振る舞う。
けれど、それではその人の持つ複雑な色彩や、陰影の深さに気づくことは永遠にない。
それでは、その人を知ったことには、到底ならないのだ。

ここに、一本の円柱があると想像してみてほしい。
それを真上から覗き込めば、それは完璧な「円」に見えるだろう。
角のない、どこまでも滑らかな曲線。
人々はそれを見て、「この形は丸い」と断定するかもしれない。
しかし、視点を九十度ずらし、真横から眺めればどうだろう。
そこには、二つの平行な直線と、それを繋ぐ二つの辺からなる、紛れもない「四角形」が現れる。

円であると信じていた者は、その四角い姿を見て混乱するかもしれない。
「君は丸いはずなのに、なぜ四角いのだ」と。
横から見て四角だと信じていた者もまた、上からの円い姿に戸惑う。
「偽りの姿を見せるな」と。

人間も、これとまったく同じなのだ。
ある角度から見れば、温かく、円満な人格者に見える人が、別の状況、別の人間関係の中では、驚くほど四角四面で、冷徹な一面を見せることがある。
片方の側面だけでその人を「円い人だ」「四角い人だ」と断じてしまうのは、あまりにも早計で、あまりにも傲慢な行為ではないだろうか。

私たちは、あまりにも安易に、真上からの視点、あるいは真横からの視点だけで、人を判断していないだろうか。
その人の持つ立体性、その円柱としての本来の形を想像することなく、自分の見たいように、あるいは、自分が見やすいように、相手を平面に押しつぶしてはいないだろうか。
人の本質とは、その多面的な姿の総体の中にこそ宿る。
一面しか見ようとしない者は、結局、その人の輪郭をなぞるだけで、その魂の持つ、本当の厚みや温もりに触れることはできないのだ。

✅立体的な自分の形、見る角度で違う

そういえば、物心ついた頃のわたしは、公園のベンチや教室の隅で、ただひたすらに人間を観察するような少年だった。
友達と駆け回るよりも、人々が織りなす不可思議な模様を眺めている方が、よほど心惹かれたのだ。
何が、か細い少年の心をそこまで掴んでいったのか。
今思えば、それは、人間の持つ「多面性」という、神秘的なきらめきだったのだと思う。

いつもは鬼のように怖い数学教師が、校庭の隅で迷子の猫にだけ見せる、蕩けるように優しい笑顔。
クラスで一番明るく人気者のあの子が、誰にも見られていない帰り道で、ふと見せる寂しそうな横顔。
父親の前では反抗的な態度を崩さない友人が、幼い妹に向ける、慈愛に満ちた眼差し。

それらの光景は、幼いわたしにとって、世界が秘密の扉を開けてくれたような、衝撃的な発見の連続だった。
人は、決して一枚岩ではない。
まるでダイヤモンドの結晶のように、数えきれないほどの小さな面が集まって、一つの個を形成している。
そして、どの面に光が当たるかによって、その輝きはまったく異なる色合いを見せるのだ。

その時、腑に落ちた。
「そっか、人間というのは、会う人によって、いる場所によって、違う表情、違う行動をするのが当たり前の生き物なんだ」と。
それは、誰かを騙すための嘘や偽りではない。
むしろ、それぞれの関係性の中で、最も誠実であろうとした結果、自然と現れる、異なる側面なのだ。
厳しい教師の顔も、優しい猫好きの顔も、どちらも本物。
明るい人気者の顔も、孤独な横顔も、どちらも真実。

その気づきは、世界を覆っていた薄い膜を一枚、取り払ってくれたようだった。
人々が、単純な記号や役割から解き放たれ、複雑で、矛盾をはらんだ、愛おしい立体として立ち上がってきた瞬間だった。
そして同時に、わたしは自分自身の中にも、まだ見ぬ無数の面が眠っていることを予感した。
誰かと出会うたびに、新しい光が差し込み、今まで知らなかった自分の顔が照らし出される。
人間を知ることは、自分自身を知る旅でもあるのだと、少年は静かに悟ったのだった。

✅人間というのは

人間というのは、おそらく、たった一つの答えに収束する存在ではないのだろう。
それは、絶えず変化し、揺らぎ続ける、無数の可能性の集合体だ。
私たちは、自分自身の中にさえ、矛盾した感情や、相容れない人格をいくつも抱えて生きている。
「本当の自分」というものが、どこか揺るぎない一つの核として存在するのではなく、関わる人々や環境との相互作用の中で、その都度、立ち現れてくる、極めて流動的なものなのかもしれない。

かつて心が弱かった頃、わたしは人も自分も、単純なラベルを貼ることで安心しようとしていた。
しかし、それは世界を理解したことにはならなかった。
ただ、その複雑さから目を逸らしていただけなのだ。
人間の立体性、多面性を認知しない限り、私たちは永遠に、誰かの、そして自分自身の、ほんの一面を撫でているに過ぎない。

わたしは、もっと人間を知りたい。
あの人が、わたしに見せている顔の裏側で、どんな光を、どんな影を抱えているのか。
わたし自身が、明日出会う誰かの前で、どんな新しい顔を立ち上げるのか。

混ぜこぜになった自分自身を、矛盾に満ちた愛すべき他者を、その立体的なあり様のまま、ただ静かに受け入れたい。
そうして、無数の面が織りなす、その人だけの複雑な輝きを、この目で見つめたいのだ。

もし、ある人間のすべての面を、あらゆる角度から、同時に見つめることができたとしたら。
その時、私たちの目に映るのは、果たして、どのような形をした「魂」なのだろうか。


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