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15分の物語

私たちの人生は、言うまでもなく時間の連続体だ。
過去から未来へと、決して逆流することのない大河の流れに乗って、私たちはただ進んでいく。
しかし、ごく稀に、その流れが淀み、小さな渦を巻く瞬間があるのではないだろうか。
ほんの数分、あるいは十数分という、瞬きする間に過ぎ去ってしまうような短い時間の中に、日常の法則が僅かに歪む、不思議な間隙。

これから語るのは、そんなありふれた日常に起きた、たった15分間の物語である。
それは、誰にでも起こりうるようで、しかし、誰にも説明がつかない、ささやかな奇跡の記録だ。
時計の針が刻む冷徹な時間とは別に、私たちの心の中に流れる、もうひとつの時間の存在について、少しだけ思いを馳せていただけたなら幸いである。


✅10分前

その夜、私はコインランドリーにいた。
週に一度の、儀式のような時間。
蛍光灯の白い光が、規則正しく並んだステンレス製のドラムを無機質に照らし、モーターの低い唸りだけが単調なBGMとして響いている。
時刻は午後11時をとうに過ぎ、窓の外はインクを溶かしたような闇に沈んでいた。

私は、ガラスの向こうで熱風に翻弄される自分の洗濯物を、ただぼんやりと眺めていた。
Tシャツが宙を舞い、靴下が絡み合い、シーツが大きな生き物のようにうねる。
見慣れた光景だ。
この、誰にも邪魔されない、思考が停止する時間を、私は密かに気に入っていた。

異変に気づいたのは、乾燥機の残り時間が「10分」の表示になった、まさにその時だった。

最初は、気のせいだと思った。
モーター音の向こうから、何か別の音が聞こえる。
それは、店内に流れる有線放送の音楽ではない。
もっと微かで、もっと個人的な響きを持つ音。
例えるなら、遠くで誰かが口ずさむ、鼻歌のようなもの。

私は顔を上げ、店内を見回した。
もちろん、私以外に客はいない。
入り口のガラスドアは固く閉ざされ、外の通りを時折ヘッドライトが滑っていくのが見えるだけだ。
音の出所を探ろうと耳を澄ます。
どうやら、私が使っている乾燥機の、二つ隣の洗濯機から聞こえてくるようだった。

その洗濯機は、もちろん使われていない。
扉は閉まっているが、操作パネルのランプは消灯しており、静寂を保っているはずの機械だ。
私は首を傾げた。深夜の疲労が見せる幻聴だろうか。
あるいは、どこか別の場所から反響している音を、すぐ近くから聞こえるように錯覚しているのかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、再びスマートフォンの画面に視線を落とした。
しかし、一度意識してしまったその音は、もう無視することができなかった。

それは、特定のメロディーを奏でていた。
どこかで聴いたことがあるような、ないような、懐かしさを伴う旋律。
それはまるで、忘れていた記憶の扉を、ためらいがちにノックするような音だった。
私は無意識のうちに、その音の正体を探ろうと、思考を巡らせ始めていた。
この退屈な儀式の時間が、少しだけ様相を変え始めた瞬間だった。

✅5分前!

乾燥機のデジタル表示が「5分」に変わった。
その瞬間、まるで合図だったかのように、例の鼻歌の音量が、ほんの少しだけ上がった。
もはや幻聴ではない。それは確かな音として、私の鼓膜を震わせていた。

そして私は、そのメロディーが何であるかを、はっきりと悟った。

全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
それは、幼い頃、熱を出して寝込んだ私の枕元で、祖母がいつも歌ってくれた子守唄だった。
楽譜にあるような決まった歌ではない。
祖母がその場の気分で紡ぎ出す、彼女だけの子守唄。
だから、この世でその旋律を知っているのは、今は亡き祖母と、それを聴いて育った私だけのはずなのだ。

どうして。
どうしてこの場所で、この時間に、誰も知らないはずの歌が?

混乱と、説明のつかない恐怖。
しかしそれと同時に、胸の奥からこみ上げてくるのは、どうしようもないほどの強い懐かしさだった。
私は立ち上がり、まるで何かに引き寄せられるように、音のする洗濯機へとゆっくりと歩み寄った。
三歩、二歩、一歩。
ステンレスの冷たい筐体の前に立つ。

歌は、間違いなくこの中から聞こえてくる。
私は、震える指で洗濯機の分厚いガラス扉にそっと触れた。
ひんやりとした感触が、指先から伝わってくる。
その瞬間、蛍光灯の光を反射するガラスの表面に、一瞬だけ、何かが映り込んだ気がした。

それは、おかっぱ頭の、幼い少女の顔だった。

「えっ」と声が漏れた。
驚いて後ずさる。
しかし、再びガラスを見つめても、そこに映るのは、訝しげな顔をした私自身の姿だけだ。
見間違いだ。
疲れているんだ。
そう必死に自分に言い聞かせる。
だが、耳元で鳴り続ける懐かしい子守唄が、それを許してはくれなかった。

これは現実なのか、それとも夢の続きなのか。
その境界線が、急速に曖昧になっていく。
私はただ、その場で立ち尽くすことしかできなかった。
心臓の音が、乾燥機のモーター音よりも大きく、店内に響き渡っているような気がした。

✅今!!

ビーッ、ビーッ、ビーッ。

けたたましい電子音が、私の思考を現実へと引き戻した。
乾燥の終了を告げるブザーだ。
その音に驚いたように、あれほどはっきりと聞こえていた子守唄が、ぴたりと止んだ。
まるで、魔法が解けたかのように。

静寂が戻った。
いや、モーター音が止んだ店内は、以前よりも深い静けさに包まれているように感じられた。
私は、まだ鳴り続けるブザーを止めるのも忘れ、恐る恐る、隣の洗濯機に再び顔を近づけた。
ガラス扉を覗き込む。

中は、がらんどうだった。

水滴ひとつない、乾いたステンレスのドラムが、蛍光灯の光を鈍く反射しているだけ。
もちろん、おかっぱ頭の少女などいるはずもなかった。
私は、まるで憑き物が落ちたかのように、ふっと体の力を抜いた。
やはり、すべては疲労が見せた幻だったのだ。
そう結論づけようとした、その時だった。

自分の乾燥機から、洗い立ての洗濯物を取り出す。
手に取ったTシャツから、ふわりと温かい香りが立ち上った。
それは、洗剤や柔軟剤の人工的な香りではなかった。
もっと優しく、もっと懐かしい、陽だまりのような匂い。

その匂いを嗅いだ瞬間、私は息を呑んだ。

それは、子供の頃に過ごした、祖母の家の縁側の匂いだった。
日に干した布団の匂い。庭の草木の匂い。
そして、いつもそばにいてくれた祖母自身の、温かい匂い。

私は、そのTシャツを、たまらなくなって強く抱きしめた。
温かかった。
それは単なる乾燥機の熱ではない、人の温もりのようなものが、確かにそこにはあった。

あの15分間は、一体何だったのだろう。
幻聴と幻覚。
そう片付けてしまえば、話は簡単だ。
だが、この胸に残る温もりと、鼻腔をくすぐる懐かしい匂いは、どう説明すればいい?

答えは出ない。
おそらく、永遠に出ることはないだろう。

私たちは、目に見えるもの、説明できることだけを「現実」と呼んで生きている。
だが、もしかしたら、この世界の片隅では、私たちの知らない法則が働き、時空を超えた誰かが、そっと優しい合図を送ってくれているのかもしれない。
それは、乾燥機が止まるまでの、ほんの15分という束の間にだけ許される、ささやかな奇跡。

私は、陽だまりの匂いがするTシャツを抱きしめたまま、コインランドリーの冷たい椅子に、もう一度腰を下ろした。
窓の外は、相変わらず深い闇に包まれている。
しかし、その闇は、さっきまでとは少しだけ違って見えた。
日常と非日常の境界線は、私たちが思うよりもずっと、曖昧で、そして優しいものなのかもしれない。
そして私たちは、そんな奇跡の瞬間に気づかぬまま、ただ毎日を通り過ぎているだけなのではないだろうか。


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