小さなアパートの小さな事件
私たちの住むこの世界は、目に見えるものだけで成り立っているわけではないらしい。
常識や論理では説明のつかない、ささやかで、けれど確かな奇跡が、日常のすぐ隣で息を潜めていることがある。
彼と私の間に起こったあの不可解な事件も、きっとその一つだったのだろう。
古いアパートの軋む階段が繋ぐ、三階と四階というささやかな空間で起きた、あまりにも小さな、そしてあまりにも大きな事件。
それは、乾いたアスファルトに染み込む夕立のように、私たちの日常を静かに、そして根底から変えてしまったのだった。
✅彼の玄関に置かれるもの
その奇妙な現象は、ある朝、何の前触れもなく始まった。
私の階下に住む彼、時折ポストの前で会えば「どうも」と小さく会釈を交わすだけの、物静かで少し神経質そうな印象の男性。
その彼の部屋の玄関マットの上に、毎朝決まって何かが置かれるようになったというのだ。
最初は、艶やかなドングリが一つ。
次の日は、川原で磨かれたような丸い小石。
そのまた次の日には、色鮮やかなカラスの羽根。
まるで、誰かが集めた宝物を少しずつお裾分けしているかのような、微笑ましいとも言える贈り物だった。
はじめのうちは、彼も私も「どこかの子供のいたずらかな」と顔を見合わせて苦笑していた。
この古いアパートには、他に若い住人はいない。
きっと近所の子供が忍び込んでは、ささやかな冒険の証を残していくのだろうと。
私たちはそう、たかをくくっていた。
しかし、その「贈り物」は日を追うごとにエスカレートしていった。
銀紙の切れ端、青く輝くガラスの破片、そしてある朝には、どこから持ってきたのか、使い古されたネクタイピンまでがちょこんと置かれていた。
彼の表情から笑顔が消え、私を見る目に疑いの色が混じり始めたのは、その頃からだった。
彼は几帳面な性格らしく、自分のテリトリーを乱されることに強いストレスを感じるようだった。
毎朝、郵便物を取りに行くのが苦痛だと、その眉間に刻まれた深い皺が雄弁に物語っていた。
そして、彼の疑いの矛先は、すぐ真上に住む私へと、まっすぐに向けられることになったのだ。
彼の中では、夜勤でもあるまいし、毎朝同じような時間に家を出る私が、出勤ついでに彼の玄関先に何かを置いていく、というストーリーが完璧に組み上がってしまったらしかった。
✅わたしは無実だ!
「あなたが、いつも僕の所に持って来ているのはわかっているんだ!」
ある週末の朝、ゴミ出しのために部屋を出た私を待ち構えていたかのように、彼は血走った目で詰め寄ってきた。
その手には、その日の「贈り物」であろう、錆びたブリキの小さなバケツが握られていた。
彼の感情は、今にも決壊しそうなダムの水位のように、危険なほど高まっていた。
「待ってください。私は絶対にそんなことはしていません」
私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
彼の剣幕に気圧されながらも、ここで引いてはいけないという本能が働いたのかもしれない。
「嘘をつくな!僕がどれだけ迷惑しているか!」
「ですから、やっていないんです。その時間、私はもう会社にいます。信じられないなら、私の会社に電話していただいても構いませんよ。総務に聞けば、私の出勤時間なんてすぐにわかりますから」
私の毅然とした態度に、彼は一瞬言葉を詰まらせた。
しかし、一度固まった疑念はそう簡単には解けない。
彼は何かを言いかけて口をつぐむと、忌々しげに舌打ちをして自室のドアを乱暴に閉めた。
それからというもの、私たちの間の空気は凍りついた。
顔を合わせれば彼は私を睨みつけ、私は彼から目を逸らす。
無実を証明したくても、見えない犯人を捕まえることなどできはしない。
私は毎朝、自分の潔白を祈るような気持ちで家を出て、夜は言いようのない不安を抱えながら帰宅した。
誰かが、私に罪を着せようとしているのではないか。
そんな妄想に駆られることもあった。
同じアパートに住みながら、私たちは互いを疑い、見えない敵意に怯える、孤独な共犯者のようになっていた。
この息苦しい日常が、まさかあんな形で終わりを告げることになるとは、その時の私には知る由もなかった。
✅それは妖精のしわざだった
その日は珍しく、平日に休みを取っていた。
溜まった洗濯物を片付け、ベランダで読みかけの本を開いていると、視界の端で何かがきらりと光った。
目を向けると、一羽の大きなカラスが、すぐ近くの電線にとまっていた。
その嘴には、私の部屋の窓辺に飾っていたサンキャッチャーの小さなガラス玉が、まるで戦利品のように誇らしげにくわえられていた。
「あっ……!」
私が声を上げるのと、カラスが飛び立つのと、ガラス玉がその嘴からこぼれ落ちたのは、ほぼ同時だった。
放物線を描いて落ちていった青い光は、階下の彼のベランダの手すりにカツンと音を立てて当たり、そのまま彼の玄関マットのすぐ脇へと転がっていった。
私は、しばらく呆然とその光景を見つめていた。
犯人は、彼でも、私でも、ましてや人間の子供でもなかった。
光るものが大好きな、一羽のカラス。
彼が「妖精」とでも呼ぶべき、純粋なコレクターの仕業だったのだ。
彼は、私が窓辺に飾っていたキラキラ光るものを気に入り、それを自分の巣に運ぶ代わりに、彼自身の「宝物」を私の部屋の真下である彼の玄関先に、毎日律儀に置いていっていたのだ。
それは悪意のない、むしろ彼なりの誠意や交換の儀式だったのかもしれない。
私は急いで階下へ向かい、ドアをノックした。
訝しげな顔で出てきた彼に、私はベランダを指差しながら、今しがた起こった出来事を夢中で説明した。
彼は私の話を半信半疑で聞きながら、マットの脇に転がる小さなガラス玉を見つけ、そして空を見上げた。
そこには、何も知らない顔で悠々と旋回する、一羽のカラスがいた。
それから三ヶ月後、私たちはアパート近くの小さな居酒屋で、カウンター席に並んで座っていた。
あの事件が嘘だったかのように、私たちは時々こうして一緒に酒を飲む仲になっていた。
「しかし、あのカラスには本当に参ったよ」
彼が、少し赤くなった顔で笑う。
「でも、あの子がいなかったら、こうして話すこともなかったかもしれませんね」
私がそう言うと、彼は少しだけ真面目な顔つきになり、静かに頷いた。
あの一件以来、私たちは互いのことを少しずつ知るようになった。
彼が私と同じように、この街でたった一人で暮らしていることも、本当は人付き合いが苦手なだけだということも。
私たちは、あのカラスを「妖精」と呼ぶことにした。
あの子は、ただのいたずら好きだったのだろうか。
それとも、同じアパートの片隅で、息を潜めるように暮らしていた孤独な二人を繋ぐために、空から遣わされた気まぐれなメッセンジャーだったのだろうか。
真相は誰にもわからない。
けれど、時折アパートの屋根でカァ、と鳴く声を聞くと、私は思うのだ。
目に見えるものだけが、真実のすべてではない。
そして、人と人とを結びつける縁というものは、時に私たちの想像をはるかに超えた、不思議な力によって運ばれてくるのかもしれない、と。
カウンターの向こうで笑う彼を見ながら、私はグラスに残った最後の一口を、そっと飲み干した。
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