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疲れ果てた時の幻影

窓から差し込む柔らかな朝陽が、コーヒーカップの縁を金色に染めている。

カチャリと軽やかな音を立てて、妻が「いってきます」と微笑んだ。
玄関のドアが閉まる音と入れ替わるように、ランドセルを揺らした息子が「いってきまーす!」と元気な声を響かせる。
その二つの背中を見送り、静寂が戻ったリビングで私はパソコンを開く。
こうして穏やかな時間の中で言葉を紡ぐ生活が、かつての自分には遠い世界の出来事のように思える。
もし、あの疲れ果てた夜に、あの不思議な幻影を見ていなければ、今も私は満員電車に揺られ、ビルの谷間に吸い込まれていく毎日を送っていたことだろう。


✅今時なのに激務の会社

私の勤めていた会社は、いわゆるブラック企業というわけではなかった。
むしろ、世間的に見れば優良な部類に入るだろう。
福利厚生は整っているし、人間関係も悪くない。
ただ一つ、扱っている商品に極端な繁忙期と閑散期が存在した。
そして、その繁忙期の渦は、人の心身を静かに、しかし確実に蝕んでいく力を持っていた。

季節が秋から冬へと移ろうとする頃、その渦は最大風速に達する。
日の出前に家を出て、終電間際に帰宅する日々。
会社のデスクで食べるコンビニ弁当はもはや味など感じず、ただエネルギーを補給するための作業だった。
青白い蛍光灯が照らし出すオフィスの静寂の中、聞こえるのはキーボードを叩く音と、時折響く誰かの深いため息だけ。
誰もが疲労という見えない重りを背負い、無口になっていた。

家に帰ると、妻が作り置きしてくれた夕食がラップをかけられて待っている。
その優しさが胸に沁みる一方で、それをゆっくり味わう余裕すらない自分に嫌気がさした。
温め直した食事を数分で胃に掻き込み、熱いシャワーを浴びると、記憶が途切れるようにベッドへ倒れ込む。
そんな毎日が続くと、人は大切なものを見失っていく。

小学校一年生の長男の、起きている顔をもう何日見ていないだろうか。
寝静まった部屋で、すうすうと寝息を立てる息子の頬をそっと撫でるのが、唯一の慰めだった。
しかし、その寝顔を見つめながら、私の心は罪悪感で軋んでいた。
父親らしいことなど、何一つしてやれていない。
運動会の練習の話も、新しくできた友達の話も、私は何一つ聞いてやれていない。
家族のために働いているはずなのに、その家族との時間は削られ、心の距離だけが遠くなっていく。
疲労は思考を鈍らせ、感情を麻痺させる。
私はただ、巨大な歯車の一部として、身を粉にして回り続けるだけだった。

✅あれは何?

その夜も、私は疲労の泥沼の中をもがくようにして帰路についていた。
日付はとうに変わり、駅のホームに人影はまばらだった。
揺れる電車の中で、つり革を握りしめたまま、何度も意識が飛びそうになる。
頭が重く、まるで他人のものであるかのように感じられた。

自宅の最寄り駅に着き、改札を出る。
深夜の冷たい空気が、火照った頬に心地よかった。
ふらふらと覚束ない足取りで、いつもの帰り道を歩く。
街灯がぼんやりと道を照らし、自分の影だけが長く伸びていた。
その時だった。

ふと、視界の端に何か奇妙なものが映った。

それは、言葉で表現するのがひどく難しい。
街灯の光が屈折して生まれた光の粒のようでもあり、ゆらりと揺らめいた人影のようでもあった。
それは、道の真ん中に、まるで初めからそこにあったかのように静かに存在していた。
時間にして、ほんの数秒。
瞬きをした次の瞬間には、もうそこには何もなかった。
いつもの、見慣れた夜道が広がっているだけだ。

幻覚だろうか。
あまりの疲れに、脳が見せた悪戯か。そう思うのが自然だった。しかし、私の心の奥底では、何かが強く脈打っていた。あれは、ただの幻ではない。そう確信に近い感覚があったのだ。

あの現象は、後にも先にもその一度きりだった。
そして、おそらく、あれはあの時でなければ見えなかったのだと思う。
心と身体が限界まで擦り減り、現実と非現実の境界線が曖昧になった、あの極限状態でなければ。
それは恐ろしい体験であるはずなのに、不思議と私の心は凪いでいた。
まるで、分厚い霧に覆われていた視界が、一瞬だけ晴れたような感覚。
見えたのは正体不明の何かだったが、それが見せてくれたのは、他でもない私自身の心の風景だったのかもしれない。
あの夜を境に、私の内側で何かが決定的に変わってしまったことだけは、確かだった。

✅わたしの心

あの幻影が、直接的に私に何かを語りかけたわけではない。
転職を促すようなメッセージがあったわけでも、未来を暗示するようなものでもなかった。
それはただ、そこに「在った」だけだ。
しかし、その不可解な存在は、私の心に深く、静かな波紋を広げた。

翌朝、重い身体を引きずって会社へ向かう満員電車の中で、私は考えていた。
自分は一体、何のためにここまで身を削っているのだろうか。
高い給料か、社会的地位か。
それらは確かに手に入れたかもしれない。
だが、その代償として失っているものは、あまりにも大きすぎるのではないか。
息子の成長を見守る時間。
妻と笑い合う食卓。
自分自身の心の平穏。
それらは、一度失ってしまったら、二度と取り戻せないものばかりだ。

あの幻影は、疲弊しきった私自身の魂が上げた、声なき悲鳴だったのかもしれない。
これ以上は進めない、と。
このままでは、本当に大切なものすべてが壊れてしまう、と。そう思うと、今まで自分を縛り付けていた「安定」や「世間体」といった鎖が、ひどく脆いものに思えてきた。

決断は、自分でも驚くほど早かった。
妻に相談すると、彼女は私のやつれきった顔を見て、ただ「あなたの好きにしていいよ」と静かに言ってくれた。
その言葉に背中を押され、私は会社に辞表を提出した。

そして今、私は在宅でライターとして生計を立てている。
収入は以前より減ったかもしれない。
しかし、手に入れたものは、お金には代えられない価値がある。
毎朝、家族を「いってらっしゃい」と見送ることができる。
息子の他愛ない話に、心から耳を傾けることができる。
妻とゆっくり夕食を囲み、今日あった出来事を語り合える。

あの夜に見たものが、本当にこの世ならざる存在だったのか、それとも単なる脳の誤作動だったのか、今となっては知る由もない。
だが、一つだけ言えることがある。
私たちは、日々の忙しさの中で、自分自身の心が発する小さなサインを見過ごしてはいないだろうか。
それは時に、常識では説明のつかない「幻影」のような形で、私たちの前に現れるのかもしれない。
あなたの人生にも、ふとした瞬間に視界をよぎる、言葉にならない何かがあるのではないだろうか。
それに気づくか、見過ごすかで、人生の航路は大きく変わっていくのかもしれない。


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