カツ丼でも出てくるのだろうか。
映画やドラマで幾度となく見た光景が、今、目の前にある。
冷たいパイプ椅子、無機質なグレーの長机、そして、じっとりと汗ばむ手のひら。
蛍光灯の白々とした光が、私の顔から一切の感情を奪い去っていくようだ。
向かいに座る二人の刑事は、私が何かを話すのを待っている。
あれから数時間、こうして私は警察の取り調べ室にいる。
しかし、これは単なる誤解や不運の結果なのだろうか。
時計の針を巻き戻すようにあの夜を思い返すたび、私はもっと得体の知れない何かに捕らえられたのではないかという、奇妙な感覚に襲われるのだ。
✅俺は無実だ
俺がいつもの居酒屋をいつものメンバーと出たのは、午後十時半ごろだった。
金曜の夜だというのに、街の喧騒はどこか遠くに聞こえた。
仕事で抱えた大きなミスが、鉛のように腹の底に溜まっていた。
消化不良のまま、ぬるい夜風がやけに肌にまとわりつく。
最寄りの駅のホームは、家路を急ぐ人々のまばらな波で満ちていた。
ぼんやりと電光掲示板を眺めていた、その時だった。
甲高い女性の叫び声が耳をついた。
視線を向けると、人波をかき分けるようにして、一人の男がこちらへ走ってくる。
その目は焦点が合っておらず、何かに憑かれたように虚ろだった。
そんな他人事として光景を眺めていた俺の体に、男がぶつかってきた。
衝撃はさほどでもない。
だが、男は俺の耳元で、熱っぽい息と共にこう囁いたのだ。
「持っていてくれ。これはもう、お前のものだ」と。
そして、冷たく、奇妙に滑らかな感触のものを手に握らせ、闇に溶けるように去っていった。
手の中にあったのは、使い古された黒い革の財布だった。
中には金はおろか、カード一枚入っていない。
ただ、一枚の古い白黒写真と、錆びついた小さな鍵が一つだけ。
写真は、見知らぬ子供が不気味なほど無表情にこちらを見つめているものだった。
これは一体何なんだ。
そう思った瞬間、息を切らした一人の女性が、亡霊のように俺の目の前に現れた。
肩で息をしながら、憎悪というよりは、何かを取り憑かれたような狂的な目で俺を睨みつけている。
そして、震える指が、まっすぐに俺の手元を指した。
「あなた!それを返して!」
違う、俺じゃない。
そう言おうとしたが、声にならなかった。
彼女の執着は、単なる財布を奪われた者のそれではなかった。
俺は無実だ。
だが、何の?
✅あなたが犯人
あれを失くすわけにはいかなかった。
あの人の目は、獲物を前にした獣のようだった。
違う、私こそが獣だったのかもしれない。
必死だった。
プロジェクトの成功も、そのために買った新しい財布も、どうでもいい。
問題は、その中に入れていた「お守り」だ。
母から譲り受けた、あの古びた黒い財布。
それだけは、絶対に手放してはならなかった。
改札を抜けても、男の背中は遠くならない。
私はただ無心で走った。
ホームに駆け上がったところで、男が誰かとぶつかるのが見えた。
そして、男はその場を走り去っていく。
ぶつかられた男は、私の「お守り」を手にしたまま、そこに突っ立っている。
仲間だ。
いや、違う。
あれに選ばれたのだ。
息も絶え絶えに、私はその男の前に立ちはだかった。
「あなた!それを返して!」
男は何か言いたげに口を開いたが、言葉を発することはなかった。
その狼狽した表情が、私には運命を受け入れられない愚か者の顔にしか見えなかった。
周囲の視線が、私の正しさを証明してくれているようだった。
駅員が駆けつけ、警察が来て、私たちはここにいる。
刑事は私に何度も尋ねた。
「本当に、その男が犯人ですか?」
その度に、私は強く頷いた。
なぜなら、彼があれを持っていた。
それが全てだ。
私は被害者で、あなたは選ばれた。
その事実は、決して揺らがない。
✅すれ違いの結果
結局、俺が解放されたのは、朝日が昇る頃だった。
理由は奇妙なものだった。
あの女が、何の前触れもなく、ぱったりと被害届を取り下げたのだという。
「気が変わった」とだけ言い残して。
俺を担当した年配の刑事が、呆れたような、それでいて何かを憐れむような目で俺を見つめ、こう言った。
「あんた、妙なものに好かれたな。せいぜい気をつけるんだな」
俺は「冤罪」の被害者として、警察署を後にした。
だが、手元にはあの黒い革の財布が残された。
警察が返そうにも、女は「もういらない」と受け取りを拒否したらしい。
俺は本当に、解放されたのだろうか。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
だが、眠気は一向に訪れない。
ポケットの中の財布が、微かな熱を持っているような気がしてならなかった。
俺はそれを取り出し、もう一度、中を改めた。
錆びた鍵と、一枚の写真。
写真の中の子供が、じっと俺を見つめている。
警察署の冷たい光の下で見た時とは、何かが違って見えた。
俺は写真を灯りにかざし、目を凝らした。
それは一人の子供ではなかった。
古く、折り目のついた写真には、小さな男の子と女の子、二人の子供が写っていたのだ。
男の子の眉の上には、小さな古傷がある。
俺が毎朝、鏡を見るたびに無意識に指でなぞる、あの傷と全く同じ場所に。
全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
写真の中の少年は、間違いなく幼い頃の俺だった。
では、隣で俺の手を固く握っている、この少女は誰だ?
その顔を、食い入るように見つめる。
そして、気づいてしまった。
あの駅のホームで、狂的な光を宿して俺を睨みつけていた瞳が、写真の中の少女の瞳と、寸分違わず重なった。
あの財布は、彼女が母から受け継いだ「お守り」などではなかった。
それは、幼い頃に引き裂かれた兄を探すための、唯一の手がかりだったのだ。
ひったくり犯も、警察も、冤罪も、もはやどうでもよかった。
俺たちの人生を狂わせた本当の「罪」は、何十年も前に、俺たちがまだ何も知らなかった頃に、とっくに始まっていたのだ。
俺は今、失われた半身の証明を、この手に握りしめている。
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