上に行くほど下が見えなくなる
かつて、その男は王と呼ばれていた。
彼が玉座に就いた当初、国は希望に満ち溢れていた。
乾いた土地には水路が引かれ、痩せた畑は豊かな穀倉地帯へと姿を変えた。
王は民の声に耳を傾け、賢臣の言葉を尊んだ。
彼の周りには、国の未来を憂い、時に厳しい言葉で王を諫める忠臣たちが常に控えていた。
彼らの存在こそが、国が最も輝いていた時代の礎であった。
王自身も、彼らとの対話の中にこそ、統治の真髄があると信じて疑わなかった。
陽の光はあまねく領土を照らし、彼の名は名君として大陸中に響き渡っていた。
その栄光が、永遠に続くと誰もが信じていた。
彼自身も、そうであった。
✅誰も何も言わない……
しかし、人の心とは、かくも移ろいやすいものなのだろうか。
広大な領土を治め、敵対する国々を次々と屈服させていく中で、王の心に小さな、しかし致命的な染みが広がり始めた。
「自分の判断は、常に正しいのではないか」。
その思いは、成功体験を重ねるごとに確信へと変わり、いつしか傲慢という名の鎧となって彼の心を覆い尽くした。
変化の兆しは、会議の席に現れた。
かつては喧々囂々、多様な意見が飛び交っていたその場所は、徐々に静寂に支配されていった。
王の計画に異を唱える者は、まず疎まれ、次に遠ざけられ、やがて「国を惑わす者」として容赦なく粛清された。
最初に声を上げたのは、先代から仕える老宰相だった。
「王よ、その遠征は無謀にございます。民は疲弊し、国庫は底をつきましょう」。
王は彼の言葉を遮り、冷たく言い放った。
「余の決定に疑義を挟むか。貴様の目は、勝利の輝きが見えぬほど曇ってしまったらしいな」。
翌日、老宰相が城に姿を見せることはなかった。
一人、また一人と、苦言を呈する家臣が消えていく。
彼らの空けた席には、王の言葉をただ反芻するだけの者たちが滑り込んだ。
彼らは王の顔色を窺い、その意に沿う言葉だけを巧みに紡ぎ出す。
鏡の間にいるかのように、王の周りには彼自身の意見だけが反響するようになった。
心地よい肯定の言葉に囲まれ、王はますます自らの万能を信じ込む。
かつて国の礎であったはずの「異なる意見」は、今や不協和音として徹底的に排除された。
誰も、何も言わない。
誰も、何も言えなくなった。
静まり返った玉座の間で、王はただ一人、己の正しさに酔いしれていた。
その静寂が、国を蝕む病魔の足音であることに気づかぬまま。
✅そして国が滅びた
国の衰退は、静かに、しかし確実に進行した。
王の耳に届くのは、常に「計画は順調」「民は王を称賛」という甘言ばかり。
しかし城壁の外では、かつて王が築いた水路は補修されずに決壊し、豊かな穀倉地帯は再び痩せた土地へと戻っていた。
重税に喘ぐ民の顔からは笑顔が消え、道端には餓えに苦しむ者の姿が目立ち始めた。
だが、そうした現実は、巧妙に飾り立てられた報告書によって王の目から隠され続けた。
王が見ていたのは、側近たちが作り上げた虚構の繁栄であり、聞こえていたのは、耳障りの良い喝采の幻聴だった。
かつて王が屈服させた隣国が、反旗を翻したのは必然だった。
国境の砦から上がる狼煙は、瞬く間に王都へと迫った。
報告を受けた王は、それでもなお自らの判断を疑わなかった。
「案ずるな。我が軍は無敵だ」。
しかし、彼が信頼した将軍たちは、実戦の経験よりも王への追従を優先して選ばれた者たちばかり。
兵士たちの士気は低く、装備は旧式のまま。
かつての強国は、砂上の楼閣と化していた。
敵の軍勢が王城の門を破り、なだれ込んできた時、王は初めて現実を直視した。
玉座の間を守る兵は、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
彼に忠誠を誓っていたはずの側近たちの姿も、どこにも見当たらない。
燃え盛る城の中で、王はただ一人、がらんとした玉座の前に立ち尽くしていた。
窓の外から聞こえてくるのは、民の怨嗟の声と、敵兵の鬨の声。
それは、彼が自ら耳を塞いできた、国の断末魔の叫びだった。
✅王であった者、一人の旅人となる
国は一夜にして滅びた。
王であった男は、ぼろをまとい、夜陰に紛れて燃え落ちる王都から逃げ延びた。
かつての威光も、富も、権力も、すべては灰燼に帰した。
初老に差し掛かった男の手には、一本の杖と、わずかな食料が入った袋だけが残されていた。
彼はあてもなく歩き続けた。
道すがら目にするのは、自らの失政が生み出した荒廃した国土と、疲れ切った民の姿だった。
かつて彼を「名君」と讃えた民は、今や彼を「愚王」と罵っているだろう。
その視線に耐えられず、男はただ俯いて歩を進めるしかなかった。
ある夜、小さな村のはずれで火を囲んでいると、一人の老人が近づいてきた。
男は警戒したが、老人はただ静かに隣に座り、こう呟いた。
「高い山に登ると、麓の景色はよく見える。だが、一番高い頂に立つと、足元は見えなくなるものだ」。
その言葉は、男の胸に深く突き刺さった。
老宰相の顔が、処刑した数多の家臣たちの顔が、脳裏をよぎっては消えた。
彼らは皆、麓から頂を見上げ、その危うさを必死に伝えようとしてくれていたのだ。
しかし、頂にいた自分には、その声は届かなかった。
いや、聞こうとしなかったのだ。
夜が明け、男は再び立ち上がった。
彼の行く先に、かつての栄光はない。
しかし、彼の心には、これまで感じたことのない静かな決意が宿っていた。
失ったものを取り戻すためではない。
自らが犯した過ちの大きさを、その目で、その足で確かめるために。
そして、もし許されるならば、かつて自分が耳を傾けなかった「下の声」が、今どこで、何を語っているのかを知るために。
王であった男は、今、一人の旅人となった。
彼の旅路の果てに何が待っているのか、誰にも分からない。
ただ、空っぽになった彼の心だけが、これから出会うであろう世界の真実の声を、渇望している。
我々は、自らが築き上げた世界の頂に立った時、果たして足元を見つめ、麓の声に耳を傾けることができるのだろうか。
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