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最近感じるメンタルの重要性

私の周りを見渡すと、時折「なぜ、あんなものを信じているのだろう」と首を傾げたくなるような選択をする人がいる。

それは決して、突飛な思想を持つ一部の人の話ではない。
ごく普通の、昨日まで隣で笑っていたはずの友人が、あるいは尊敬していた先輩が、ふとした瞬間に、まるで別世界に足を踏み入れたかのように、ある特定の考え方に強く傾倒していくことがあるのだ。
もちろん、何を信じるかは個人の自由であり、他人が口を挟むべきではないのかもしれない。
しかし、その選択が明らかにその人を不幸にしているように見える時、私は複雑な気持ちにならざるを得ない。
そして、それは他人事ではないと強く感じる。

自分自身を振り返っても、心が弱っている時、何かに追い詰められている時には、普段なら見向きもしないような言葉や、非科学的で不思議な力を持つとされる何かに、救いを求めてしまいそうになる瞬間があったからだ。
メンタルが正常に機能していない時、私たちの心は、まるで羅針盤を失った船のように、本来求めてもいなかったはずの港へと、いとも簡単に流されてしまうのではないだろうか。


✅信じちゃいけないものを信じる

時折、芸能人が高額なスピリチュアル詐欺の被害に遭ったというニュースが世間を騒がせる。
また、聡明で社会的地位もあったはずの人が、なぜカルト的な集団に全財産を捧げてしまうのかと、多くの人が疑問に思う。
こうした出来事を見聞きするたびに、私はその背景にある心の状態に思いを馳せてしまう。
これはやはり、その人自身のメンタルが、健全に機能していなかったからではないだろうか。
もちろん、騙す側が巧妙であることは大前提だ。
しかし、同じ情報に触れても、そこに惹きつけられる人と、そうでない人がいるのはなぜだろう。

おそらく、その根底には、深く傷ついた自己肯定感があるのではないかと思う。
常に自分を過小評価し、「自分はダメな人間だ」「何をやってもうまくいかない」という無力感に苛まれている人にとって、日々の生活はあまりにも辛く、重い。
暗闇の中を手探りで歩いているような毎日の中で、もし「あなたはそのままで素晴らしい」「あなたには特別な力が眠っている」と、全肯定してくれる存在が現れたらどうだろうか。
あるいは、「この教えを信じれば、すべての苦しみから解放される」という甘美な言葉を囁かれたら。
それは、砂漠で水を見つけた旅人のように、抗いがたい魅力を持って心に響くに違いない。

彼らは、その教えや人物そのものを信じたかったというよりは、ただ、その苦しい現状から抜け出したかっただけなのかもしれない。
何かにすがり、救いを求めるその心は、あまりにも純粋で、切実だ。
だからこそ、本来であれば疑うべき矛盾点や、非論理的な部分に気づくことができない。
いや、無意識のうちに気づかないふりをしているのかもしれない。
一度手にした希望の光を、自ら手放すことなどできないからだ。
しかし、そうやって信じてはいけないものを信じてしまった結果、彼らは一時的な安らぎと引き換えに、より大きなものを失っていく。
金銭、時間、そして人間関係。
救いを求めたはずの場所で、かえって深い不幸の淵に沈んでいくという、あまりにも皮肉な現実が待っているのだ。

✅戻れなくなる自分

一度、そうした世界に足を踏み入れてしまうと、抜け出すことは容易ではない。
なぜなら、信じてはいけないものを信じさせる仕組みというものは、その人を巧みに取り込み、決して離さないように、実によくできているからだ。
最初は、心地よい言葉と優しいコミュニティが提供される。
自分と同じような悩みを抱え、それを克服したという人々の体験談は、何よりもの説得力を持つ。
「ここだけが、本当の自分を理解してくれる場所だ」と感じるようになると、人は徐々にその環境に依存していく。

そして、次の段階として、外部の世界との間に少しずつ壁が作られていく。
「私たちの教えを理解できない人は、レベルが低い」「あなたを批判する家族や友人は、悪魔に唆されている」といった言葉で、既存の人間関係に疑念を抱かせる。
信じる者と信じない者、善と悪という二元論的な世界観を植え付け、信者を精神的に孤立させていくのだ。
かつて大切だった人々からの忠告は、もはや「自分を陥れようとする攻撃」としか認識できなくなる。

年数を重ねるほど、その教義や価値観は、呼吸をするのと同じくらい当たり前のものとして、その人の内面に深く根を張っていく。
自分の頭で考えることをやめ、すべての判断を教祖や指導者に委ねるようになる。
そこには、かつての悩みや葛藤はないかもしれないが、同時に、自分自身の意志もない。
他人の言葉でしか世界を見ることができなくなり、笑い方や泣き方さえも、そのコミュニティの作法に染まっていく。
気がつけば、かつての自分がどんな人間だったのか、何を大切に生きてきたのかさえ思い出せなくなっている。
それは、もはや「本来のあなた」ではない、誰かが作り上げた別の誰かなのだ。
そのことに気づいた時には、あまりにも深くハマってしまい、自力で戻るための道筋を見失っているケースが少なくない。

✅心が動かしている

結局のところ、私たち人間は情報によって動かされている生き物だと言える。
より正確に言うならば、情報によって心が動かされ、その心の動きが思考や行動として現れる。
テレビのニュース、SNSで流れてくる誰かの言葉、一冊の本。
私たちは日々、膨大な情報のシャワーを浴びて生きている。
その情報の一つ一つが、私たちの感情を揺さぶり、価値観を形成し、人生の選択を左右していく。

ならば、怪しげな情報に惑わされないためには、情報リテラシー、つまり情報の真偽を見抜く力を高めればいいのだろうか。
もちろん、それも重要だ。
しかし、私はそれだけでは不十分だと考えている。
なぜなら、どんなに客観的なデータや論理的な反論を提示されても、心が「信じたい」と渇望している時には、それらの声は届かないからだ。
問題は、情報の側にあるのではなく、それを受け取る私たちの心の側にこそある。

自分の心をご機嫌に、そして健やかに保っておくこと。
十分に満たされた心は、外部からの過剰な承認や、安易な救いの言葉を必要としない。
自分の中に確固たる軸があれば、他人の言葉に振り回されることなく、情報の海を冷静に泳ぎ渡ることができる。
自分の心さえきちんと整えておけば、変な情報に心を動かされることはない。
それは、おそらく真実なのだろう。

しかし、と私は思う。
この不確実で、ままならない世界で、常に心を整え、満たし続けることなど、本当に可能なのだろうか。
私たちは皆、多かれ少なかれ、弱さや不安を抱えて生きている。
ならば、何かを「信じる」という行為そのものが、私たちの生存戦略なのかもしれない。
だとしたら、問われるべきは、何を信じるか、信じないか、という二者択一ではない。

本当に大切なのは、自分が今、なぜそれを信じたいと願っているのか、その心の奥底にある声に、静かに耳を傾けることではないだろうか。
その声は、寂しさか、怒りか、それとも純粋な希望か。
その正体を見つめることさえできたなら、私たちはきっと、自分を不幸にするような選択を、自ら避けることができるはずだ。
答えは、情報の向こう側にあるのではない。
いつだって、私たち自身の心の内側にあるのだから。


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