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幻の彼はあいつだったのか?

大人になった今でも、ふと月を見上げると、あの不思議な夜々のことを思い出す。
まるで上質な絹のベールを纏ったような、静かで、どこか非現実的な時間の記憶。
社会の荒波に揉まれ、人間関係に疲れ果てていた私の心に、そっと差し込んできた一筋の月光。
それは幻だったのだろうか。
それとも、私のすぐそばに、ずっといてくれた存在だったのだろうか。
答えは今も見つからない。
ただ、あの満月の夜から始まった短い逢瀬が、私の人生にとってかけがえのない宝物であることだけは、確かな事実として胸に刻まれている。
今夜もまた、窓の外には凛とした月が浮かんでいる。
あの澄んだ瞳を思い出しながら、私は静かに記憶の扉を開ける。


✅突然現れた彼

あの頃の私は、まるで嵐の中の小舟のようだった。
就職して数年、ようやく慣れたはずの仕事で大きなミスを犯し、信頼していた同僚からは裏切られ、心はささくれ立ち、誰にも会いたくない日々が続いていた。
そんなある夜、私はアパートの小さなベランダで、膝を抱えていた。
涙も枯れ果て、ただ虚空を見つめることしかできない。
煌々と輝く満月が、私の孤独を照らし出しているようで、それがひどく恨めしかった。

「月が綺麗だね」

不意に、すぐ隣から声がした。驚いて顔を上げると、そこに見知らぬ青年が立っていた。
いつからそこにいたのだろう。気配すら感じなかった。
手すりに軽く腰掛け、私と同じように月を見上げている。
簡素な白いシャツに身を包んだ彼は、まるで月の光そのものが人の形をとったかのように、儚く、そして美しかった。

「あなたは…誰?」

警戒心も露わに尋ねる私に、彼はゆっくりと視線を移した。
そして、私は息を呑んだ。彼の瞳。あまりにも澄み切っていて、深い湖の底を覗き込むような、不思議な静けさを湛えていたのだ。
その瞳に見つめられると、私のささくれ立った心が、すうっと凪いでいくのが分かった。

「君が、一人で泣いているように見えたから」

彼は私の名前を知っていた。
私が仕事でどんな失敗をしたのかも、誰に裏切られて傷ついているのかも、全てを知っている口ぶりだった。
普通なら恐怖を感じるはずの状況。
けれど、彼の纏う柔らかな雰囲気と、絹糸のように優しい声は、私の警戒心をいともたやすく解いてしまった。

彼は何も問いたださなかった。
ただ、私の隣に座り、とりとめのない話をした。星の名前の由来、雲の形の面白さ、遠くで鳴く虫の声。
彼の言葉は、傷ついた私の心にじんわりと染み渡る軟膏のようだった。
彼といると、自分が抱えていた悩みや苦しみが、ちっぽけなものに思えてくるから不思議だった。

その夜から、月が満ちる夜にだけ、彼は私のベランダに現れるようになった。
満月に最も近く、そして月が欠けていくにつれて、彼と会える時間は短くなっていった。
私たちは多くを語り合ったわけではない。
それでも、彼の存在そのものが、私にとって何よりの癒しだった。
月の光が溶け込んだような彼の瞳に見つめられていると、私は独りではないのだと、心からそう思えた。

しかし、月がその姿を完全に消した新月の夜、彼は現れなかった。
次の夜も、その次の夜も。
まるで、最初から誰もいなかったかのように、ベランダは静まり返っていた。

✅見つめる目が同じうちの猫

彼が姿を消してから、私の心にはぽっかりと穴が空いたようだった。
ベランダに出るたびに、月の光が作り出す影に彼の姿を探してしまう。
あの不思議な安らぎをもう一度感じたくて、夜ごと月を見上げたが、彼が戻ってくることはなかった。

失意の日々を送っていたある日の午後。
私はリビングのソファで、飼い猫のミウを膝に乗せて本を読んでいた。
ミウは私が一人暮らしを始めた時から一緒にいる、黒い毛並みのオス猫だ。いつもは気まぐれで、私の膝の上で眠ることなど滅多にないのに、その日はやけに甘えてきた。

ふと、読書の邪魔をするように顔を上げてきたミウと、目が合った。
その瞬間、私は時が止まったかのような衝撃を受けた。

(この目…)

ゴロゴロと喉を鳴らしながら、私をじっと見つめるミウの瞳。
艶やかな黒毛に縁取られたその緑色の瞳は、陽光を浴びて金色にきらめき、深く、そしてどこまでも澄み渡っていた。
それは、あの夜、私を見つめていた彼の瞳と、あまりにもよく似ていたのだ。

すべてを見透かすような、優しい静けさ。
私の心の奥底まで見つめ、その痛みを理解してくれているかのような眼差し。
まさか。そんなはずはない。
頭ではそう否定しながらも、心臓は早鐘のように鳴り響いていた。

思い返せば、おかしなことはいくつもあった。
彼が私のことを詳しすぎたこと。私が一番好きな紅茶の銘柄を知っていたり、子供の頃の些細な癖を言い当てたり。
それは、この部屋でずっと私を見てきたミウしか知り得ないことばかりだった。
私がベランダで泣いていたあの日、ミウは心配そうに私の足元にすり寄ってきていた。

彼と会えなくなったのは、新月の夜から。
そして、最近ミウの体調が少し優れず、動物病院で「しばらくは安静に」と言われた時期と重なる。
まさか、ミウが? 私の愛する猫が、あの月の夜、人の姿を借りて私を慰めに来てくれていたとでもいうのだろうか。

あまりに突飛な考えに、私は一人で笑ってしまった。
けれど、膝の上で安心しきったように眠るミウの寝顔を見ていると、その馬鹿げた空想が、不思議と腑に落ちるような気がした。
私のことを見つめるその瞳は、間違いなく、あの夜の彼と同じ優しさを宿していたのだから。

✅彼との思い出が宝物

結局、彼が再び私の前に姿を現すことはなかった。
そして、あの不思議な出来事から数年後、ミウは静かにその生涯を閉じた。
15歳。
猫としては大往生だった。
私の腕の中で、だんだんと軽くなっていくミウの体を抱きしめながら、私は声を上げて泣いた。

ミウが息を引き取る間際、彼は力の入らない目で、じっと私のことを見つめた。
その最期の瞳は、驚くほど穏やかで、澄み切っていた。
まるで、「もう大丈夫だよ。君はもう独りじゃない」と、そう語りかけているかのようだった。
私はその瞳に、あの月夜の彼の面影をはっきりと見た。

幻の彼は、本当にミウだったのだろうか。
それとも、傷ついた私の心が生み出した、都合の良い幻だったのだろうか。今となっては、それを確かめる術はない。

けれど、どちらでもいいのかもしれない、と今は思う。
確かなのは、あの月夜の思い出が、打ちひしがれていた私を救い上げ、前を向く力をくれたという事実だ。
そして、その思い出は色褪せることなく、大人になった私の心を今も温め続けてくれる、かけがえのない宝物になっている。

彼が誰であったにせよ、私はあの夜、確かに愛されていた。
見返りを求めない、ただひたすらに純粋な優しさに包まれていた。

今夜も、窓の外には美しい月が浮かんでいる。
私はベランダに出て、冷たい手すりにそっと触れる。
隣にはもう誰もいない。けれど、孤独は感じない。
あの澄んだ瞳が、月の光と共に、今も私を見守ってくれているような気がするからだ。
そして、私は思うのだ。
もしかしたら、この世界のどこかでは、今も誰かの孤独な心に寄り添うため、月明かりを道しるべに、誰かがそっと訪れているのかもしれない、と。


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