あの朝の木漏れ日を忘れない
真新しい制服の袖に腕を通すたび、心臓が新しいリズムを刻むような、そんな浮き足立った高揚感を今でも思い出す。
高校に入学したばかりの春。
見るものすべてが新鮮で、少しだけ背伸びして大人の仲間入りをしたような気分だった。
満員電車に揺られ、新しい教科書のインクの匂いを嗅ぎ、まだ名前も覚えきれないクラスメイトたちの顔を盗み見る。
そんな毎日が、未知の冒険への入り口のように思えて、ただただ胸がときめいていた。
学校へと続く道は、緩やかな坂道の桜並木だった。
入学式の頃には満開の花で私たちを迎えてくれたその道も、季節の移ろいとともに葉桜となり、今は朝の光を浴びてキラキラと輝く緑のトンネルを作っていた。
地面に落ちる木漏れ日は、まるで万華鏡のように刻一刻と形を変え、私の足元で踊っている。
あの日も、いつもと同じように、その光の粒を踏みしめながら歩いていた。
何の変哲もない、ありふれた朝。しかし、その日は今でも忘れられない、特別な朝として私の記憶に深く刻まれている。
突然、私の前に一人の男子生徒が現れた。顔は知っている。同じクラスの、でも名前も知らない、物静かな男の子。
彼が私の日常に足を踏み入れた瞬間、それまで安定していたはずの世界の方程式が、ゆっくりと、しかし確実に、その形を変え始めたのだった。
✅普通を女子高生にしたらわたしになる
当時の私を一言で表すなら、それは「普通」という言葉が最も似合うだろう。
もし「平均的な女子高生」という彫刻があるとしたら、きっと私のような姿をしているに違いない。
カバンには流行りのJ-POPが詰まったポータブルCDプレーヤーを忍ばせ、休み時間になれば友人たちと昨日のテレビドラマの感想や、他愛もない噂話に花を咲かせる。
テスト前には一夜漬けで頭を抱え、返ってきた答案の点数に一喜一憂する。
そんな、どこにでもいる、ありふれた高校生だった。
恋愛に対しても、どこか他人事のように捉えていた節がある。
少女漫画のようなドラマチックな展開に胸をときめかせはするものの、それが自分の身に起こるなどとは、露ほども思っていなかった。
恋愛は、物語の中の出来事。
私という観客は、それを安全な場所から眺めているだけで満足だったのだ。
だから、彼の存在もまた、私にとっては日常という名の風景の一部でしかなかった。
教室の隅の方の席で、いつも静かに本を読んでいる男の子。
特別目立つわけでもなく、運動神経がいいわけでも、面白いことを言ってクラスを沸かせるわけでもない。
彼の声すら、ほとんど聞いたことがなかったかもしれない。
彼は、教室という名の水槽の中を、他の魚たちとは交わらずにゆらゆらと漂う、一匹の小さな魚のようだった。
私というフィルターを通した彼は、色も形もぼんやりとした、印象の薄い存在。
それが、あの日までの、彼に対する私の全ての認識だった。
✅恋愛方程式=変化して行くわたし
あの日、葉桜のトンネルをくぐり抜けた先で、彼は私の少し前を歩いていた。
いつもと同じ、風景の一部のはずだった。
しかし、彼がふと何かを落とした。茶色い革のブックカバーに包まれた文庫本。
私はほとんど無意識にそれを拾い上げ、「あの…」と声をかけた。
それが、私たちが交わした最初の言葉だった。
「ありがとう」
そう言って振り返った彼の声は、想像していたよりも少し低く、そして驚くほど穏やかだった。
その時、初めて私は彼の顔をまともに見た気がする。
整っているとか、そういうことではない。
ただ、その瞳がとても静かで、深い色をしていることに気づいた。
彼が読んでいたのは、私も好きな作家の、少しマイナーな小説だった。
「この本、好きなの?」と尋ねると、彼は少し驚いたように目を見開き、それから、はにかむように小さく笑った。
「うん、すごく」と。
その瞬間、私の中で何かがカチリと音を立てた。
それまで「彼=風景」だった方程式に、突如として「共通点」という新しい変数が加わったのだ。
その日を境に、私の日常は少しずつ色合いを変えていった。
教室で彼の姿を探している自分に気づく。
彼が読んでいる本の背表紙が気になり、休み時間にそっと盗み見る。
目が合えば、心臓が少しだけ速く脈打つ。
彼という変数を得た私の方程式は、もはや以前の単純なものではありえなかった。
彼が笑えば、私の世界も明るくなり、彼が曇った顔をしていれば、私の心にも靄がかかる。
今までモノクロームに見えていた通学路の木漏れ日が、彼の存在を意識するだけで、鮮やかな色彩を帯びて輝き出す。
彼の言葉、彼の仕草、その一つひとつが新たな変数となり、私の方程式はどんどん複雑な形に変化していく。
それは、戸惑いでもあり、同時に、今まで知らなかった新しい自分を発見していく、胸躍るような冒険でもあった。
私は、変化していく自分を、少し怖いと思いながらも、確かに楽しんでいたのだ。
✅今のわたしがあの頃に届けたい想い
あれから十数年の月日が流れた。
三十歳になった私の左手の薬指には、シンプルな指輪が輝いている。
隣で眠る夫の指にも、同じものが。
そう、あの朝、葉桜の下で文庫本を拾った相手が、今、私の隣で穏やかな寝息を立てている。
窓から差し込む朝日は、あの頃の木漏れ日によく似ていて、時々、ふと高校時代の自分に引き戻されるような錯覚に陥る。
隣のベビーベッドでは、三歳になった息子がすやすやと眠っている。
この小さな寝顔を見つめていると、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。
もし、あの頃の私に何かを届けられるとしたら。
未来なんて何も考えず、ただ目の前の出来事に夢中だった、あの無防備で、少しだけ無知だった私に。
伝えたいことは、ただ一つだ。
「あの日のあの方程式の変化は、間違いなく、あなたに幸せをくれたよ」と。
あの朝の、ほんの些細な偶然。
私が声をかけなければ、彼が振り返らなければ、私たちの物語は始まらなかったかもしれない。
無数の選択肢があった中で、私たちは互いを選び、手を取り合って、ここまで歩いてきた。
この穏やかで、愛おしい日々のすべてが、あの方程式の変化の先にあったのだと思うと、奇跡のようにすら感じる。
けれど、本当にそうだろうか。
時々、私は考える。
もし、違う道を選んでいたら、私は今頃、どこで、誰と、どんな景色を見ていたのだろう。
あの日の選択が、唯一の正解だったと、どうして言い切れるだろう。
人生とは、無数の分岐点を持ち、その度に変化し続ける、解くことのできない方程式のようなものなのかもしれない。
確かなことは、一つだけ。
私は、この「今」という解を、心から愛おしいと思っている。
隣で眠る愛する人々と、窓から差し込む優しい光に包まれたこの瞬間を。
もしかしたら幸せとは、完璧な解を求めることではなく、変化し続ける方程式の、その時々の不完全な解を、どうしようもなく愛おしいと感じる、その心の動きそのものを指すのかもしれない。
あの朝の木漏れ日のように、揺らぎ、移ろいながらも、確かにそこにある光。
それこそが、私たちの人生そのものなのだと、今はそう、思っている。
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