世界は不条理だから、月が欲しかった|神聖朗読劇「カリギュラ」観劇した感想
緒方恵美が、突如別人になった。比喩ではなく。幼い青年だったはずのカリギュラが、ある瞬間から、背筋の凍る何かに変わっていた。あれを人間の喉と身体ひとつでやっている。まだ信じられていない。
朗読劇のおもしろさに魅了されて観劇した「カリギュラ」。劇場を出るころ、僕の頭にあったのは演技の余韻ではなく、「自由って何だ」という、いい歳した大人が抱えるには少し重たい問いだった。順を追って書いて感想を記しておきたい。
神聖朗読劇「カリギュラ」とは?
神聖朗読劇「カリギュラ」は、アルベール・カミュの戯曲を原作にした朗読劇。2026年8月12日から16日まで、東京建物ぴあシアターで上演された。翻訳を大川珠季さん、構成・演出を深作健太さんが担当している。
物語のあらすじはこんな感じ。ローマ皇帝カリギュラが、妹であり愛人でもあったドルシラの死をきっかけに「世界は不条理である」と悟り、絶対的な自由を追求していく。その果てに冷酷な暴君へと変貌していく——という、なかなかヘヴィな話である。
特徴は回替わりキャスト。日によって演者がまるごと入れ替わる。
僕はNERVのマークが書かれたグッズはこの世から全て買い占めたいぐらい新世紀エヴァンゲリオンが大好きでして、(初恋はアスカでした)
そこから声優さんを遠目に追いかけるようになり、いつかいろんな人の演技を生で見てみたいと思っていた。今回は半分緒方恵美さん目当てでチケットを取ったクチである。
なのに申し込んでから気づいた。同じ回に出るのが知ってる人ばかりで一気に緊張した。緒方恵美さんといえば僕にとっては碇シンジかスパロボのマオで、井上和彦さんは……と、にわかの分際で急に居住まいを正してしまった。シャニマスを箱推ししているので幸村恵理さんも一度拝見したかったのもある。
演者が"消える"、というか"化ける"
いやもう改めてなんすけど、緒方恵美さんがバケモンだった。
語彙を失った感想で申し訳ないが、これ以上正確な言葉が見つからない。
冒頭のカリギュラは、どこか幼い青年だった。妹の死に打ちのめされ、世界の輪郭が掴めずにさまよっている、頼りない男。それが物語の章が切り替わるタイミングで、まるで別人に変わる。少し幼かったカリギュラから、ガンギマってしまったカリギュラへ(語彙力) 同じ人が同じ台本を読んでいるのに、そこにいる人間が入れ替わっている。
特にすごかったのが、雄弁に人を諭す場面の演技。狂気に落ちたはずのカリギュラが、理路整然と、むしろ誰よりも澄んだ声で自分の理屈を語る。狂ってるのに正しく聞こえてしまう。この「正しく聞こえてしまう」がいちばん怖かった。あとで効いてくるので覚えておいてほしい。
井上和彦さんは、また別種のすごさだった。ひとことで言うと、声優臭くない。
アニメを見ていると「あ、あの声優だ」とキャラの後ろに演者が透けて見えることがある。でも井上和彦さんの演技は、声優の顔がまったく浮かんでこない。ただ、その役の人間がそこで喋っている。声優が前に出るのではなく、役の後ろに引く演技。プロってこういうことか、と唸った。
もう一人、幸村恵理さん。この方はナレーションを担当していたのだが、最初、状況を説明する声が始まったとき「あれ、これ誰だ、ほかに演者いたっけ?」と本気で戸惑った。役として喋る声と、ナレーションの声が、同じ人なのにきちんと別人として分かれている。地続きにならず、ちゃんと切れている。声だけでここまで人格を出し入れできるのか、と素直に驚いた。シャニマスのあの感じとは全然違う。声優さんってちゃんと役者なんだな。
朗読劇なのに、情景が見える
演出でいちばん引っかかったのは、状況やト書きの描写を、その場面に出ていない演者が声に出して読むところ。
たとえば冒頭、幸村恵理さんが「第一章、〇〇」とナレーションのように読み上げる(うろ覚えなので正確ではない)。場面の途中でも、「カリギュラは立ち上がって踊り出す」といった、本来なら舞台上の動きで見せるはずのト書きを、演者がそのまま口にする。鈴原希実さんもそうだった。
これ、朗読劇「紫苑のもみじ」を観たときとは、明確に違う感覚だった。
紫苑のもみじでは、場面が自然に切り替わっていった。声と演出のユニゾンで、気づいたら次のシーンに入っている、あの没入。実写版ノベルゲーをやっているようだと当時書いた。
でもカリギュラは逆で、「今からこういう場面ですよ」「彼は今こう動いていますよ」と、わざと枠組みを見せてくる。観客を物語に沈めるのではなく、「これは作り物です」と一歩引かせる。没入とは反対のベクトルに感じた。
原作が戯曲だから、その雰囲気を大事にしているのかな、と思ったりもした。カミュの「カリギュラ」はそもそも上演される前提で書かれたテキストで、テーマは「世界は不条理」。だとすれば、ト書きをあえて肉声で晒して「これは虚構だ」と突きつけてくる作りは、作品のテーマと地続きなのかもしれない。世界なんて所詮こういう不条理な作り物だ、と、上演の形式そのものが言っているような。まあ、これは僕が勝手にそう受け取っただけで、真意は分からないが…
で、結局「自由とは何か」
ここからは、観ながら考えたことを記してみたい。一回観ただけの人間が頭に浮かべたことを並べているだけで、作品をちゃんと読み解けている自信はまったくない。外しているかもしれない。そういう前提で読んでほしい。
カリギュラは、妹の死をきっかけに「世界は不条理だ」と気づいてしまう。何をしても無意味で、正義も愛も、しょせん人間が勝手に作った幻。だったら皇帝の権力で、誰にも縛られない絶対的な自由を行使してやる——そう言って、彼は人を殺し、あげく「月が欲しい」と言い出す。
月。手に入らないものの象徴。不可能そのもの。
彼が本当に欲しかったのは月そのものじゃない気がする。「この不条理な世界のルールを、自分の手でねじ曲げられる証拠」が欲しかったんじゃないか。手に入らないものが手に入れば、世界は不条理じゃなくなる。まあ、これも僕が勝手にそう思っただけだけど。
だから終盤、「カリギュラは月を投げつける」「大きな月を手に入れた」といったト書きが読み上げられる場面が、妙に引っかかった。カリギュラ本人が勝ち誇って叫ぶのではなく、ナレーションが淡々と「手に入れた」と告げる。手に入れたと報告されているのに、それが不可能の成就=作り物だと観客には分かってしまう。勝利の形をした敗北、みたいに見えた。あそこは、ゾッとする良さがあった。
で、ここからがいちばん言語化に苦労しているところで
観ながら、井上和彦さん演じるケレアと、緒方恵美さん演じるカリギュラが、「あなたと私は同じだ」とシンパシーを持った瞬間があった。(セリフもあった)たぶん二人とも、世界が不条理だということを分かってしまっている人間なんじゃないか。そう思うと、演者パートで書いた緒方さんの「狂ってるのに正しく聞こえる」が腑に落ちる。カリギュラの理屈は狂気なのに、論理としては筋が通っている。もし本当に世界が不条理なら、彼の結論は間違っていない。
頭がいい人ほど、世界をまっすぐ見つめた先で、この不条理という底に突き当たってしまうのかもしれない。——と、ここまで書いて、これも完全に僕の想像だなと思う。頭のいい人の気持ちは、頭のいい人にしか分からない。
世界が理不尽で、頑張りが報われるとは限らなくて、正しさなんて立場でいくらでも変わる。見ないふりをして生きるより、それを直視したカリギュラの方が誠実ですらある気がした。何となくわかる気がする。この「気がする」が、我ながら情けないんだけど。
でも、肯定はできない。
彼は、その「分かってしまった」を、他人を巻き込んで壊す方向に使ったから。不条理を言い訳にして、自由を暴走させた。そこだけは頷けない。分かる、でも頷けない。この二つが同時にある。
前に朗読劇「紫苑のもみじ」を観たとき、「自分のマウンドに立つ=自分らしく生きる」という自由について書いた。自分で見つけた火を、外圧から守って大きくしていく、前向きな自由。あれもカリギュラも、抽象度を上げると同じ「自由」の一語で括られる。でも中身はまるで違う。片方は自分の火を灯す自由で、もう片方は世界に火をつける自由。同じ言葉が、救いにも破滅にもなるらしい。
じゃあ、不条理を見てしまった人間は、自由をどっちに使えばいいのか。カリギュラのようにではなく、もみじのように——ときれいにまとめたくなるけど、たぶんそんな単純じゃない。そもそも僕は、カリギュラという作品を、その問いに答えられるほど分かっていない。
だから、答えは出ていない。
まとめ
総じて、観劇して良かった。
僕は今回、「朗読劇が観たい」という動機で行った。声優さんの演技を生で浴びたかった。その目的は完全に達成された。緒方恵美さんが化ける瞬間を浴びられただけで、もう元は取れている。
でも「カリギュラ」という作品そのものは、たぶん掴みきれていない。浴びた ってのが近いかな。
いろいろ書いたけど、あれは観ながら頭をよぎったことを並べただけで、カミュがこの戯曲に何を込めたのか、その真髄には、まだ入り口にも立てていない感覚がある。分かった気になって書くと嘘になる。実際、劇場を出たあとに「あれはどういう意味だったんだ」と引っかかっている場面がいくつもある。
だから今回のことは、終わりというより宿題をもらった感じに近い。原作の戯曲を読んでみたいし、他の演出の「カリギュラ」も観てみたい。そのうえでもう一度、あの月の話を考え直したい。分からないことが増えて劇場を出る、というのは、けっこう良い観劇体験なんだと思う。
神聖朗読劇「カリギュラ」は、8月16日まで東京建物ぴあシアターで上演されています。回替わりキャストなので、日によって出演者はまるごと変わります。お盆に東京にいるなら、観に行く価値はあると思う。前提知識はいらない。少なくとも僕は、何も分からないまま行って、分からないものを持ち帰った。それで十分だった。もし良ければまだ間に合うので是非。
月に手を伸ばすかどうかは、原作を読んでから決めることにする。
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