呼吸するために書いてたのに、はくはくと酸欠になっている。でも。
「今年も、詩かあ……」
配られた文集を開いて、少し落ち込む。
そのときは単に「負けた気がした」からだった。
学校の文集では「文章が上手な子」は作文を、そうではない子は詩を掲載されていた。
国語教師だった父は、文集に限らず、わたしに作文を書かせようとしていた。文章を書くのが大事だからと。
父の指導を受けて、いろいろ書いては応募してみたけれども、全滅。
ああ、わたしって、文才がないんだなあと思った。書くことなんて1行も思いつかなかった。
それから潔く諦めていた。

そんなわたしが自分の意思で文章を書きはじめたのは10歳のとき。金曜ロードショーで映画『耳をすませば』を観たあとのことだ。
当時のわたしには、本を選ぶ自由がなかった。
実家は本の森だった。廊下という廊下はびっしり本棚に覆い尽くされている。
父の書斎の壁も全部本棚。トイレの横のわずかなスペースにも本棚。それでも収まりきらないものは平積みされて、埃をかぶっていた。
家全体の蔵書は数万冊に及ぶと思う。でも、いずれも父が集めたものばかり。
父に「あの本がほしい」と言えば、きっと買ってもらえただろう。けれども、そもそもどんな本があるのかを知らなかった。
父からおすすめの本をよく手渡されたものの、好きなものもあれば、1ページも読みたくないものもあった。
わたしの部屋にも、天井まで届く大きなスチール製の本棚があって、そこにぎっしり本が詰まっていた。
世界の民話や児童文学全集。
すべて、1巻から最終巻までフルセットになったものだ。わたしは虫食い状にタイトルに惹かれるものだけを読んでいった。
行動範囲内に図書館もなければ、学校の図書室には、行きたくない、理由があった。
そのころのわたしは、自分が何を読みたいかも知らなかったのだ。
(その後、成長するにつれて、少しずつ、自分の好きな本が見つかっていくものの、このころは。)
『耳をすませば』を観たあと、すごくドキドキしていた。
「読みたいものを、自分で、書く」
その可能性にはじめて思い至って、感動した。
B5サイズの落書き帳を半分におり、さらにまた折って、切った。
それを重ねてホチキスで綴じる。ひっくり返して、針の部分をホチキスのおしりの部分で押し込み、危なくないようにする。
わたしはそこに、ノープランで物語を綴っていった。絵を描くのも好きだったから挿絵もつけた。
小さな絵本はどんどん、どんどん増えていった。
それからわたしは書くことに夢中になった。
書くことで生きていきたいと、思うようになっていった。
はじめてお金をもらってエッセイを書いたのも10代のときだった。
同い年でも作家デビューしている人はいる。燃えるような嫉妬を、淡々とパソコンに向かうことでなんとか消化していた。
自分の書いたものが紙の本に載って、限定的ではあるものの書店に並んだとき、「ここはまだ、はじまりだ」と思った。
※ここからは、誰にも、家族にも話したことのない、これまで「書く」ことにどう向き合ってきたかの記録です。
やっぱり、自分のことを、(とくに、恥だと思う重めのことを)書くのは勇気がいるし、実際にどうやってきたのかを詳しく書いたので有料にしてみました。
読んでみてほしいきもちと、読まれるのが怖いというきもちが混ざった、複雑な心境です。
ここでは「文章力を磨くためにどんなことをしてきたのか」「書くを仕事にした弊害」「書けないときにどうしていたか」「本を出すまでにどんなことがあったか」「本を出してどうなったか」「10年毎日書いたブログをやめてnoteに向き合う今年感じたこと」といったことを書いています。
事前にお伝えしておきたいのが明るいふわっとした話ではないです…!
書くことの「苦悩」の連続です。ビター9割です。
書いている瞬間は楽しい。でも、書くことで生きていくということに、ゴールのあとに待ち受けていたものに、ずっとずっと、ひたすら悩んでいます。
2025/01/04 追記:
①ふろくを2つ付けました。わたしが実際に作っていたノートを改良し、かんたんに書き込めるようにしたもののPDF版です。こちらはサンプル。

②見直してから出したんですが思ったより重かったので全体的に改稿しています。そして、各章ごとにその出来事からの気づきを追加しました。

10歳から、わたしは「どう書くか」を自分のできる範囲で学び、実践し、振り返った。
今考えるとあれは「文章修行」だったのだと思う。
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