ハートパイの隠し味はふたつ。
ショーケースは宝石箱みたいだった。
シャインマスカットがぎゅうぎゅうに詰まったタルトや、つやつやのチョコが美しいケーキなど、あちらこちらに目移りする。
その日、学校が早く終わった娘とデートした。
自転車で「さむぅい」とはしゃぎながら向かったのは、ケーキ屋さんのカフェスペース。
宝石箱の中から、わたしが選んだのは地味な色のパイ。
今度こそは。
そう思いながら口に運ぶ。
おいしい!
おいしいのだけれど、……あの味じゃない。
くったりしたりんごのフィリングは、がつんと甘い。シナモンの香りがふわりと立ち昇る。
娘がお芋のケーキを食べる様子に目をやった。
かつては、逆の位置に座っていたことを思い出す──。
確かあれは、20歳の誕生日を迎える少し前。
夏休みに帰省していたときのことだ。
「きちんとしたジュエリーを持っておいたほうがいいよ」
そう言って母は、わたしを街に連れ出した。
デパートで真珠のネックレスとイヤリングを買ってもらい、さあ、どこで休もうかとなった。
母の中で候補はたぶん複数あった。
エキゾチックな雰囲気のステンドグラスが美しい喫茶店、クラシックな雰囲気のケーキ店など。
どのお店もおいしくて大好き。
でも。
「アップルパイを食べたい」
「ちょっと歩くよ?」
母はすこし、面倒そうだった。
「いいよ!」
・ ・ 🍎 ・ ・
生クリームもスポンジも苦手かも。
そう気づいたのはいつだったのだろう。
いつからか、わたしの誕生日ケーキは、アップルパイに変わっていた。
注文したあと、わたしは店に置かれている本を手に取った。
アメリカの106歳と108歳の姉妹が書いた本で『今日はもっと素敵な日』というタイトルだった。
活字嫌いの母は、微笑みを浮かべ、窓の向こうに視線を落としていた。
ケーキが来てからは、わたしばかりしゃべっていた気がする。
なにを話したのかはさっぱり覚えていなくて、楽しいことから嫌なことまで、思いつく限りすべて言葉にしていた。
ハート型のパイが来た。1cmほどの厚さにカットされたりんごは甘酸っぱくしゃきしゃきで、優しい味のクリームが入っていた、気がする。
というのは、この日を最後に、この店のアップルパイを食べていないからだ。この3年後には結婚しており、そのうち子どもも生まれ、静かな店には行けなくなった。
だから、記憶の正確性には自信がない。
・ ・ 🍎 ・ ・
娘がずっと囀っている。
イケメンで人気の先生の話から、男子にからかわれる話、クラスの女子の髪型がおしゃれで可愛かったことなど。次から次へと話題はうつろう。
そう、いいね、など、淡々としたわたしのあいづちは気にならないようで、娘はどんどんしゃべる。
「そろそろ食べな」
話を遮ると口をへの字に曲げた。わたしもそれ、母にしてた。内心苦笑する。
あの日からずっと、あの店のアップルパイが食べたくって悩んでいる。
ふと思いついた。作ってみたらどうだろう、と。
玄関のダンボールに、母から届いたりんごが、まだ4個も残っていた。
自転車に乗った。
急にばらばらと雨が降ってきて怯む。でも、そのまま進んだ。
濡れながらもなんとか買ってきたのは冷凍パイシートと、レモン汁と、卵とそれから焼き芋。
調べたら、あの店のアップルパイの隠し味はさつまいもらしい。優しい甘さの正体に納得した。
帰宅後。
夫が入れ違いに出ていく。
部屋は悲惨だった。
床にはあちこちにベイブレードやそのパーツ。ポケモンカードも混ざった状態で広がっている。
昼食の洗いものもまだ終わっていない。
でも、玄関から赤いりんごを持ってきた。
つやつやした大きなりんご。

4分の3は子どもたちに出した。
残りは1cmほどのいちょう切りにして、レモン汁にひたひたに漬けておく。
冷凍パイシートはハート型に。……いびつだ。
周りに細長くねじったのを置いて、フォークでことりの足跡のような模様をつけた。
焼き芋は皮をむいてつぶして、砂糖と牛乳を混ぜる。とろりとするまでしっかり混ぜ、パイ生地に塗った。
それから生のりんごを乗せて、念のため少しだけ砂糖をぱらり。
200度に余熱したオーブンで15分ほど焼いて、できあがり。
ちなみにひとつ忘れた工程がある。
それは、焼く前に卵黄を塗っておくこと。
光沢がないだけで、パイのおいしそうな感じが少しだけ薄れてしまった。
・ ・ 🍎 ・ ・
片づけやそうじを終えた。部屋がずいぶんと明るい。あんなに降っていたのに晴れている。
濡れて損した気分。
パイをとっておきのお皿にのせる。

ドキドキしながらフォークを入れる。
サクッとした食感。次に、甘酸っぱさがくる。お芋のクリームのとろりとした優しい甘さ。
ああ、これだ。この味。この酸味。
西窓から落ちてくる光が、スポットライトみたいに手元を照らしていた。
あの店には、飛行機に乗らないと行けない。
だからもう、ケーキ屋さんでアップルパイを頼むことはないだろう。
これからは、食べたいときに、自分で焼く。
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