ニセモノドリア ─梓─
▼単体でも読めますが、いろんな仕掛けがあるので最初からがおすすめです。
ドリアが嫌いだった。
23区の端っこに小さな家を買った。
結婚してしばらく経ったころのことだ。旗竿地に建っているその家は、妙に安かった。
不動産会社の人が「……この物件、あまりおすすめしないんですけどねえ」と言ったが、幽霊の話だったから一蹴した。幽霊なんかいるわけがない。夫と彼の友人の山田くんに何度も心霊スポットに連れて行かれたけれど、怖いことなんてなにもなかったのだ。
でも、そんなこととは関係なく、嫌な家だなというのが第一印象だった。
手前にそびえる古い二世帯住宅が、まるで要塞のように視界をふさいでいたのだ。
その陰に押し込まれるように建つ我が家は、三階建てなのに空がやけに遠い。旗竿地の細いアプローチには陽が差し込まず、午後でもうっすら湿気を含み、境界に建てられた塀は苔で覆われている。
三階にベランダがあった。
洗濯物が丸見えになるので外に干すことができずにいたが、崇は前の家の窓しか見えないのにその閉じられた場所で煙草を吸うことを好んでいた。
ある日、家から10分ほど歩いたところにサイゼリヤがあることに気づいた夫は「なつかしい」と笑った。そして帰宅後、洗いものをしていたら、急に後ろから抱きついてきた。
「あれ作ってよ、あれ」
「え?」
「サイゼリヤのミラノ風ドリア。前に再現してくれたじゃん」
崇は、くっきりした二重の目を細めて笑った。この顔に弱かった。でも。私、ドリアなんかつくってない。つくってないのだ。──誰に作ってもらったの?
笑顔の裏から、過去の匂いがじっとりと染み出してくる気がした。目の前にいるのが誰なのか一瞬わからなくなるくらい。皿を拭く手がほんの少し止まる。
「なに怒ってんの」
崇が不機嫌そうに言った。むっとした。でも、言えなかった。
「私、仕事終わりで疲れてるんだけど。むり、そんなの」
「は?」
あの日からだったと思う。かけ違えたボタンみたいに、少しずつ日常が狂っていった。いや違う。はじめからそうだったんだ。ただ私には見えていなかった。それだけのこと。
崇とは大学三年生のときに出会った。
会社の一次面接だ。
説明会がセットになっており、話を聞いたあとにグループワークをさせられる流れ。みんながみんな、同じ服を着て、同じような髪型をしているあの場だからこそ、彼の顔の良さが際立っていた。
爽やかで人当たりがよく、緊張で硬くなっている女子をうまく会話に参加させる気遣いに心惹かれた。
ちょっと妬ましいとも思った。
私はああいう庇護されるようなタイプじゃない。思ったことは全部口に出しちゃうし、目もきゅっと吊り上がってきつめに見えることも知ってる。
男性に守ってもらうことなんてない人生だった。
だから、帰りの電車で彼と一緒になって、連絡先を聞かれたときは舞い上がった。今思えば私は、彼に恋をしていたのではないのかも。ただ、あのとき崇が女子学生にしたみたいに、守ってもらえると勘違いしたのだと思う。
結局、崇も私も内定をもぎ取った。
彼が庇っていた女子は落ちていた。
内定式で再会し、付き合い、結婚した。若いうちは楽しくデートを重ねたが、結婚してみると彼は思っていた人ではなかった。
離婚を決意して実家に戻ったあと。
両親は心底嬉しそうに子育てを手伝ってくれた。
職場までは実家からだと片道1時間半もかかったが、まったく苦にならなかった。帰宅したらできたての温かいごはんが待っている。家は片づいており、清潔で、私はただ、ゆっくり食べて風呂に浸かるだけでよかった。
3歳になったばかりの愛莉にも、笑顔で接することができるようになっていた。ああ、読み聞かせなんてしてあげたの、いつぶりだろう。
実家に戻ってから10日ほど経ったころだろうか。会社から電話があった。
「お母さん……あの人、行方不明だって」
「え?」
母の顔が青ざめた。
「とりあえず、家とか見に行ってくる。愛莉のことお願いしてもいい?」
「うん。もちろん……」
母は歯切れの悪い感じで言った。
わが家にたどり着いたのは昼過ぎだった。
途中で、急に後ろに立った人が奇声を上げたから驚いたが、なんとか無事に来ることができた。
相変わらず前の家はうちを隠すようにそこに建っていて、今日も屋根の上には烏がいる。
鍵を回した。
「うわ……」
玄関には宅配の段ボールが山積みになっていた。
リビングに入るともっとひどかった。思わず鼻を覆った。シンクからは嫌な匂いが立ち込めていて、コバエが湧いていた。床のあちこちに裏返しになった靴下が落ちている。棚からは卒業アルバムがはみ出している。ゴミ箱の中身は溢れ出し、その横にはいくつものゴミ袋がぱんぱんに詰まった状態で置かれていた。
「あいつ」
思わず口に出してしまった。
崇が浮気をしているのに気づいたのは、いつだっただろう。
思ったよりショックではなかったことに驚いた。不快感はあった。でも、このころには、私の中でも彼への感情が冷めはじめていたのかもしれない。
だって、私だってフルタイムで働いているのに、家事も育児もすべて私任せ。それでいて文句だけは言ってくる。
マスクをつけて家じゅうの窓を開けた。目の前の大きな家の屋根には、烏が何羽も止まっていた。
まずは大量のゴミ袋を玄関に運ぶ。
それから片手にゴミ袋を持って、レシートや丸めたティッシュなどを詰めていった。特にひどいのはキッチンだった。顔をしかめながら、まだいくらか残っていたおむつ用の防臭袋を出してきて、排水皿の中身を捨てる。
「眼鏡で来ればよかった……」
そうしたら見えないのに。汚いものなんて、見たくない。要らない。
「もう、要らないかも」
気づくとそうこぼしていた。
……わった……
「え?」
なにか聞こえた気がしたが、何も居ない。窓の向こうで、烏が飛び立っていった。ごとり。卒業アルバムが落ちた。崇のページが開いた状態で。
夫が最後に目撃された場所に行ってみることにした。丘の上のサイゼリヤ。思わず顔を顰めた。誰かの面影が残っていることが不快だった。
家を出て、ゆるやかな長い坂道を登っていく。
母からの着信があった。
『──もしもし』
母の声は、これまで聞いたことのないトーンだった。なにかが滲んでいた。嫌な予感がした。
『崇さん、見つからなかったでしょう』
「うん……」
『……やっぱり』
「え?」
そのまま電話は切れてしまった。
突然、ぎゅいいんと嫌な音がした。
そして目の前に車が突っ込んできた。
私のつま先からほんの数十センチのところに。
「だ、大丈夫ですか」
運転席の男性に声をかける。
奇跡的に怪我はなさそうだった。けれども白目をむいて、なにかわけのわからない言葉をぶつぶつと呟いている。
後ろから走ってきたサラリーマン風の男性が救急車を呼んだので、私はそっと、その場を離れた。
心臓がばくばくしていた。昔からこうだ。
私は運が良い。なにかに守られているみたいに。
不気味に思いながらも、そのまま丘を登る。そうして坂の上のサイゼリヤにたどり着いた。
夕方の店内には、家族連れが多かった。
肉が焼けるにおいや、トマトの酸味のあるにおいがふわりと広がっている。私は窓ぎわの席を選んで腰掛けた。これまでを振り返るように、登ってきた坂道をぼんやりと眺める。
ふとスマホの通知が鳴った。崇の友人、山田くんだ。
『突然すみません。崇と連絡つかなくて』
「ミラノ風ドリアで」
ぶすっとした声が出た。
でも、本当に注文したくなかったのだ。だれかの面影が色濃く残ったメニューなんて。味がきらいなわけじゃない。ただ、むなしくなる。
「行方不明なの」
『は?』
「今、サイゼにいるんだけど。ここで目撃されたのを最後に、見つからないのよ」
『崇ん家の近くのですよね? ……ちょっと、行きます』
待っている間、イカ墨の入ったパスタも頼んだ。そういえば、サイゼリヤに来るのはこれがはじめてかもしれない。
隣の席にミラノ風ドリアが運ばれていった。
……本当は、一度だけ、作ったことがあった。ミラノ風ドリア。はじめて崇から作ってほしいと言われたとき、ネットで調べたのだ。過去の女に負けているなんて悔しかった。
スーパーでホワイトソース缶とミートソース缶、ピザ用チーズを買ってきた。グラタン皿に白ごはんを入れて、ホワイトソースをぬり広げ、ピザ用チーズをぱらぱらと撒く。それから中央にミートソース。あとは焼くだけ。
確かにおいしいものができあがったはずだった。それなのに崇は「これじゃない」と言ったのだ。
「不味くはないよ、でも、俺が食べたいのってこれじゃないんだよ」
「梓さん」
はっと顔を上げる。山田がばつの悪そうな顔をして立っていた。
「山田くん、久しぶり」
「……久しぶりっす」
山田は見上げるほど背が高く、元ラグビー部らしくがっしりした体格をしている。
「なに頼む?」
「俺は……」
「頼まないと。……奢りますよ」
山田は渋々メニューを開くと、カルボナーラを注文した。
「この間、首刈峠まで行ったんだけどさあ」
衝立の向こう側から、若い女の子の声が聞こえてきた。舌っ足らずな感じの喋り方だった。
「出たんだよ。幽霊」
「え?」
「噂は本当だった。おばーちゃんの霊がね、出たの。真っ白な髪を後ろでひとつ、お団子にしてて。小さい人。薄茶色のシャツとズボンで、小豆色の……なんていうんだっけ。ちゃんちゃんこ? ジレみたいな感じのやつを着てたんだよ」
まるで私の祖母みたいだ、と思った。
「……首刈峠、昔3人で行きましたね」
山田が言った。
「うん。なにも出なかったね」
「それは……」
彼はなにか口ごもった。
カルボナーラが運ばれてきた。
ふと思い立って、店員の男性に崇の写真を見せてみる。
「あの、この人知りませんか。夫なんですけど、帰ってこなくて」
男性はぎょっとした表情になり、それから眉を下げた。
「……覚えています。まさに、今みなさんが座っている席にいらっしゃって」
「あ……」
「ラストオーダーの少し前でした。ずぶ濡れの若い女性が、なぜかそちらの方に数珠をはめたんです。それからしばらくして様子がおかしくなって、お渡ししたドリアにも手をつけず、お会計を済ませると、青ざめた顔で震えながら北のほうへ走っていかれました」
「北……」
店員は気の毒そうに頭を下げると、厨房のほうへ戻っていった。
「……お客さま」
先ほどの男性が戻ってきた。そして、メモを差し出す。
そこには『おとなりにいらっしゃる女性、ご主人に数珠をはめていた方です』と書かれていた。
山田と私は顔を見合わせ、頷いた。
「あの、すみません」
衝立の向こう側にいたのは、大学生くらいの二人の女の子だった。
一人はピンクの髪の毛に長いまつ毛が目立つ綺麗な子だ。そしてもうひとりは、茶髪で服装も気を遣っている感じがあるのに、妙に地味に見えた。たぶん元の造作はいいのに。
「行方不明になった家族を探してるんです」
ピンク髪のほうが、面白そうに目を輝かせた。崇の写真を見せる。
「……うーん、知らないですね」
彼女はつまらなそうに言った。
もう一人は怯えたように黙りこくっている。
「あの、最後に話したのってあなた……ですよね」
もう一人の方に目線を向けた。彼女は目をまんまるに見開き、ガタガタと震え、そして走り去っていった。
「ちょ、楓……?」
ピンク髪のほうも追いかけていく。
昔からたまにああいう反応をする人がいる。確かに私はきつめの顔立ちかもしれないけれど、失礼だと思わないのだろうか。
母からの着信があった。
「お母さん? さっきなんだったの」
『ごめんね……心の準備をしたくて』
「なんのはなし?」
『覚えてる……? あんた昔、誘拐されたことがあるの。……おばあちゃん、私の母に』
そうして母は話しだした。祖母にさらわれるように連れて行かれ、山の中にある集落で1ヵ月ほど暮らしていたということを。首刈り峠のすぐそばだったらしい。
どうして忘れていたんだろう。
「峠には神さまがおる」
祖母はそう言って私を神社に押し込めた。鏡が……
すっかり日が沈み、世界は濃い紫色に染まっていた。遠くに見える夕日を眺めながら坂道を降りていく。烏がまた鳴く。
女子大生の言葉が蘇る。
真っ白な髪を後ろでひとつ、お団子にしてて。小さい人。薄茶色のシャツとズボンで、小豆色の……なんていうんだっけ。ちゃんちゃんこ? ジレみたいな感じのやつを着てたんだよ……
祖母は今も、首刈峠にいるのだ。
すれ違った人の口元が、わずかに動いた気がした。
——「邪魔者は取り除いた」。
(5,000字)─「山田」編に続く
あとがき
ヤスさんの企画に参加し、「幽霊」「卒業アルバム」「サイゼリヤのミラノ風ドリア」の3つをお題にして書いた作品のふたつめです。
コニシ木の子さんから「何万字とかの本気のホラーが読みたい」と言ってもらえたので喜んで勝手に続きを書いています。
回収期間中は毎回、 #どうかしているとしか 思えない行動をしています。前回は1週間でマンガをひとつ書きました。その前は1週間で5万字の小説を完成させて……。今回の目標は、このシリーズ「ニセドリ」を2万~2.5万字で完成させることです。終わるかな。
#なんのはなしですか
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最後までお読みいただき、ありがとうございます♡