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地図を編む


ずっと東京で生きていくと思っていた。


けれどもわたしはその日、灼熱の照り返しで顔を真っ赤にしながら、見渡す限りどこまでも続く田んぼの中を、途方に暮れて歩いていた。

その日の実際の写真。

雪深い地元にもどり、地吹雪を浴びながら歩く人生プランなら、子供どものころに想像したことがあった。
そんな未来もあるかもしれないと。

でも現実は、まったく考えたことがない道を歩んでいる。



1.迫りくる田んぼ、あるいはコガネムシ


「ねえ、ケイちゃんにもう会えないの?」

8畳の和室いっぱいにおもちゃを広げて遊んでいた3歳の娘が、赤い目をして言った。わたしは言葉に詰まった。

「児童館は? 児童館に行けないの?」

わたしは言葉に詰まった。

「ねえ、ママ。とうきょうに帰りたい」

娘はそう言って、しくしく泣いた。

宝石箱みたいな、東京の街

一昨日の夜、羽田空港から最終便に乗って引っ越してきたばかり。娘はようやく「戻れない」ことを察したらしかった。

ケイちゃんは娘のはじめてのお友だち。3年間いっしょに育ってきた。
引越し当日には、空港行きのタクシーに乗り込むわたしたちを見送ってくれた。

わたしたちは義実家で借りぐらしをしている。
期限は、四国のどこに移住するのかが決まり、家を建てるまで。

「ねえ、おさんぽ行こうか」

わたしはそう言って、娘に帽子を被せた。



新しい街を好きになるコツは、たくさん歩くこと

幼少期からこれまで、わたしは何度も引っ越しをしている。

物心がついてからは、離れてみると旧居の良さがわかる現象を何度も経験してきた。帰りたい。その気持ちはよくわかる。わたしもそうやって泣いたから。

だから、外へ連れ出した。

新しい街を好きになるコツは、たくさん歩いてみることだ。
ちょっと隠れ家みたいなカフェがあったり、お気に入りの公園を見つけたりして、自分の居場所を地図のうえに少しずつ広げていくうちに、街にじゅわりと馴染んでいける。

今回も大丈夫だ。
わたしは、そう楽観していた。

写真はAIで加工を加えています

15分後、わたしは田んぼの真ん中で途方に暮れていた。

景色に変化がない。

青々とした田んぼが広がっているばかりだ。
さらに進むと、最初はぽつぽつ見えた家もすっかりなくなり、アスファルト以外、目の前のすべてが青かった。

東京の空の、すこしスモーキーな青じゃなくて、限りなく澄み渡った空だ。

雲一つない快晴が眩しい。
山は青くぼんやりと見えるのではなく、木々のテクスチャがはっきりとわかるくらい近い。

そして、その裾からずっと、田んぼが、迫ってくる。




コガネムシといちごアイス

ぶうんと音がして、目の前に丸っこい虫が飛び出してきた。
病的に虫嫌いのわたしは叫び、後ずさる。

なんとか避けられたけれど、顔に引っ付くかと思った。メタリックな緑色のボディを震わせるようにして、コガネムシは向こうへ飛んでいく。

注意深くあたりを窺い、安心できてから足を進めた。まだ、心臓がばくばくした。



「まま、のど渇いた」

9月も半ばだというのに、その日は、明らかに真夏だった。
東京にいたときは、長時間歩くことなんてなかったし、どうしても困ったら自販機かスーパーかコンビニで買えばよかった。
だから、そのへんに散歩に出るくらいなら水筒を持ち歩くことがなかったのだった。

「ちょっと待ってね」

地図アプリで調べたら、最寄りのコンビニまで15分だった。
家に戻るのも15分……。

娘が熱中症にならないか心配しながら、わたしたちは足を進めた。
ようやくコンビニにたどり着いたときには汗だくで、ペットボトルのお茶をごくごくと喉を鳴らして飲んだ。それから、冷房の効いた店内で、いちご味のアイスを買って食べた。

そしてわたしたちは、家路に着いた。足が重かった。



2.狭き城は23区に。

それまでのわたしたちは、お風呂やトイレ、玄関をのぞくいた居住スペースが13.5畳しかない、東京23区の1DKで暮らしていた。


あの街に帰りたいと思うなんて。

その部屋は、とにかく狭かった。
キッチンの調理台はA4サイズくらいしかないし、クローゼットに収まり切るように服は少なく持つ必要があった。

なにもかもが使いにくいし、収納スペースは足りなかった。
わたしは粘着フックやS字フック、ウォールポケットなどを駆使して、取り出しやすい収納をつくり、生活動線を整えていった。

家族3人と猫2匹だからとても狭かった。

しかも、引っ越したばかりのときは、その街も、家も、好きじゃなかった。

結婚してから7年かけて家をコツコツ育ててきら、自分の小さな城に愛着がもてて、しかも、とても暮らしやすくなった。
小さな暮らしの魅力を実感していた。

「あ、醤油がない」

気づいたのは、夕飯を作っているときだった。

義実家のキッチンはとても広い。東京の部屋の2倍くらいあるのでは。なんなら、義実家のリビングに、13.5畳の居住空間はかんたんに収まってしまうくらいだ。
とても料理がしやすいけれど、醤油を買いに行くことはできなかった。

東京時代は、マンションのエントランスを出たら、目の前がコンビニだった。
少し割高になるけれど、困ったら最悪24時間いつでも買える。だから、モノを切らすことへの不安はあまりなかった。部屋も狭かったので、ストックは最小限でよかった。

必然的に、ミニマリストに近い生活を目指していた。

いま、スーパーに行くには片道30分歩く必要がある。不安でいつも多めにストックを買い込むようになった。

車なら5分で行けるスーパー。わたしが行くなら、田んぼに囲まれた道を迂回する必要があり、ひどく時間がかかった。

いちばんの近道があるけれど、義母や夫からは「絶対にその道を通らないで」と言われていた。歩道がベビーカーの横幅よりも狭く、車も多い。危険だからと。

当時、生後3ヵ月の息子がいたため、自転車も使えず、バス停や電車も徒歩圏内にない。タクシー会社に電話すると「今いないから行けない」と言われる。
義母や夫の助けなしではどこにも行けなかった。

不便に聞こえるかもしれないが、車があれば状況は一変する。スーパーやドラッグストア、レストラン、小さなショッピングモールまで車で5分ほどの距離。
田んぼの向こう側には便利な施設が広がっている。

それでも、美容院や店で「なぜ運転しないの?」と問われるたび、大人なのに人に頼らざるを得ない自分を責めてしまう。単なる質問とわかっていても、いろんな理由が絡まり苦しくなっていった。

「あーーーーーーーー。スープストックトーキョーに行きたい。アプワイザー・リッシェの服がほしい。本屋さんでゆっくりしたい。100均行きたい……」

東京にいたときは、思い立ったら、たとえ子どもがいっしょでも、大変だけども、行こうと思えばどこにだって行けた。
でも今のわたしには、30分歩いてスーパーに行くことしかできない。

「だれかとしゃべりたい……」

家族以外に話す人がいなかった。

四国で生きていけるのかと、不安になった。
まるで自分が小さな子どもに戻ってしまったかのような無力感があった。



スーパーを楽しみ尽くした

当時の娯楽は、スーパーだけだった。

東京時代は完ぺきな買い物リストをつくり、狭い店内で人の波を縫うようにしていかにすばやく買うかに重点を置いていた。

いまは違う。

とことん楽しみ尽くすのがミッションだった。メモは作らない。それなりに人はいるのに店が広すぎて閑散としたような店内を、ゆっくり、のびのびと回った。
おやつコーナーをじっくり見て、息子とガチャガチャをし、お惣菜を吟味する。初めて見る野菜はとりあえずカゴに入れた。

あまりにもしょっちゅういるので、すっかり店員さんたちに顔を覚えられた。毎回話しかけてくれる人もいて、それだけが、わたしが外で声を発する時間だった。


遠回りになっても、息子が歩ける道を探した。

こちらでは、住宅や田んぼまわりの道路というのは、たいてい両脇が水路になっている。
蓋がなくて剥き出しの急流だ。落ちたら危ないので、ベビーカーの上でむずかる息子を歩かせてあげることはできなかった。

娘が同い年のころは、舗装された公園でいくらでも自由に歩かせていたことを思い出して、また気分が暗くなる。

落ち込んでもしかたがない。どんどん、頭の中の地図を広げていった。

水路のない道を見つけたら、息子を歩かせた。よちよち歩きの息子は、しばらくしたら捕まってベビーカーに戻されるのを知っているから、素早く逃げていく。

興味があるのは植物で、
座り込んだところを後ろから捕獲していた。

「おなかすいたな」

いつもはこの時間、お弁当を持って児童館に行って、気心の知れたママ友とおしゃべりをしていたっけ。娘もたのしそうだった──。

そのころ、わたしたちの移住先が決まった。そして、家を建てるための打ち合わせもはじまった。
わたしはほっとしていた。



3.青い花は、はじまりの合図


ある日、道路の端に青いものを見つけた。
園芸種だ。

道端の青い花

わたしは雑草にはうるさい性質だ。東京時代は、アスファルトの隙間からたくましく伸びてくる野の花を一つひとつ調べ上げて、イラストとともにノートに書き込んだ野の花図鑑をつくっていた。

だからわかる。花の形状が洒落ている。葉っぱも雑草感がない。園芸種だ。きっと、どこからか運ばれてきてこぼれ種で咲いたのだ。

花の写真を撮ってアプリで読み込む。「ヤグルマギク」という花だった。
ネットで花名を検索。毒性はないようだ。

だれかが千切ったのだろう。フェンスに引っ掛けられている一輪を見つけたわたしは、息子に持たせてみた。

口に入れないように注視しながらベビーカーを進めていく。

息子は、茎を持って、青い花をくるくると回しながら機嫌よくしていた。
そうだ、触り終えたら手を拭けるようにウェットシートを出しておかなければ。一度止めてごそごそとシートを取り出す。



庭という新しい楽しみ

ふと顔を上げると、庭が目に入った。低い柵からこぼれ落ちるように花が咲いている。

白、薄桃色、紫、それから青。
息子が持っているのと同じ花が、さまざまな色で密集して咲き乱れていた。花はここからやってきたのだと納得する。

庭といってもかなりの広さがある。
まるで幻想的な花畑のようで、思わず足を止めて見入ってしまった。

東京では、戸建てに住む人が少ない。
公園や施設など人の手が加わった場所以外では、あるいは雑草以外では、花を見かけることはほとんどなかった。

それからというもの、家々の庭を横目で観察するのが趣味になった。

庭には個性がある。

すべてコンクリートで塗り固めているところもあれば、松などの昔ながらの和風の庭もある。
ナチュラルでシャビーシックな庭の家から、大柄で強面のおじさまが出てきたときも楽しくて、奥さんの趣味を大事にしてあげているのか、それともおじさま自身の趣味なのか、考えるだけで微笑ましくなった。
たまにオージープランツで揃えたかっこいいロックガーデンもあった。

当時住んでいたその街では、9割の家に家庭菜園があったのも印象的だ。

それまではただ機械的に水やりと草抜きをしていた義実家の庭にも興味が向いた。
スーパーで季節の花を買ってきて植えたり、剪定がてら庭の花を切って飾ったりした。

庭に目がいくようになると、今度は見慣れない植物が気になった。ふるさとの青森と大きく植生が異なるのはもちろん、東京では見かけない花や草もあり、一つひとつ名前を調べていく。

虫も鳥も、身の回りのあらゆるものが目新しい。
それぞれ名前を知ると、解像度が上がる感じがあって楽しかった。
たとえば「なんか鳥がいる」じゃなくって「モズが来た。庭に”お弁当”をつくられちゃうかも」と思える。


”推し田んぼ”ができた話

スーパー帰り、すっかり背が伸びた娘が、この間水が入ったばかりの田んぼにかけていった。

「ママ、おたまじゃくしがいる! 赤いおたまじゃくしだよ!」

田んぼの中にはたくさんの、赤くて丸い生きもの。おたまじゃくしではなさそうだ。

じっと観察してみると、身体の表側がコーヒーみたいな色で、裏側がオレンジがかった赤。
身体の向きを変えながら泳いでいるのだとわかった。ピコピコとした動きがユーモラスだ。尾はふたつに分かれていて、見たことのない生きものだった。

家に帰って調べると「カブトエビ」だとわかった。

カブトエビは、恐竜が生きていた時代から、ほとんど変わらない姿で生き続けている甲殻類。草を食べてくれるから、田んぼにとっては益虫なのだという。

おもしろいのが、カブトエビはAmazonでも売られていること。生育キットがあるのだ。

田んぼに水が張られている時期は、じつはあまり長くない。一ヶ月ほどだろうか。その間に、カブトエビは卵から孵り、成長して卵を生む。田んぼの水がなくなり、地面がガチガチになってひび割れても、卵は生きたまま次の年を迎える。

そうして田んぼに水が入ったら、また生まれるのだという。

わたしたちは、この不思議な生きものに夢中になった。カブトエビはあえて生育しているのかもしれない。田んぼによって、たくさんのカブトエビがいるところと、まったくいないところがあることに気づいた。

娘は、カブトエビがいる田んぼを「当たりの田んぼ」と呼び、散歩を楽しむようになった。


わたしたちはわざわざ遠回りをして田んぼを確認した。そして、ここが”推し田んぼ”になった。

この田んぼは、カブトエビだけではなく、さまざまな水生生物が見られた。娘とわたしは、よくここを観察した。田んぼの中に沈む空を見て、わらった。


自然に触れる中で、すこしずつ「ここで生きていけるかも」と思えるようになったころ、香川で工事中だった家が、だんだん形になってきた。





4.「ありがとう」を言える日々


一年が過ぎるころには、頭の中に街の詳細な地図ができあがっていた。

ベビーカーに徒歩という軽装備ながらも、かなり緻密に攻略していた。それと同時に、誰とも会話しない生活から、知らない人に「ありがとう」を言える日々へと変わっていた。


飛び出してくるおにいさん

たとえば、裏道を抜けていけば、コンビニが割と近いことを発見した。
出かける場所がほかにないので、わたしたちはよくそこに足を運んでいた。

息子をベビーカーに乗せて、いつものようにコンビニに着くと、まだ敷地の端についただけだというのに、レジにいたお兄さんが、いつものように飛び出してくる。

「こんにちはー! いらっしゃいませ、どうぞ」

お兄さんはニコニコしながら、ドアを開けて、わたしたちを中に入れてくれた。

お兄さんがお休みの日、自分で扉を開けようとしていたら、目の前に大きな手がぬっと出てきた。

驚いて振り返ると、金髪の怖そうなお兄さんだ。
東京時代、こういう自動ドアではないコンビニで、ベビーカーで入るのに手間取り、知らない人に舌打ちをされたのを思い出して、身を硬くした。

「……ほら」

その人も、扉を開けてくれた。

「あ、ありがとうございます……!」
「ん」

金髪のお兄さんは、店を出たところだったのに、わざわざ開けるためだけに引き返して来てくれたらしい。
車に戻っていった。



野菜、持って行く?

息子といっしょにいつものようにスーパーへ向かっていると、畑作業をしているおばあさんがこちらを見ていた。

「こんにちは」

声をかけられたので、緊張しながら「こんにちは」と返した。

東京では、話しかけてきたおばあさんが、とつぜん自分の指を娘に掴ませて「赤ちゃんが話してくれないよぉー!助けてぇー」と叫びだしたり、電車で素手で大根を掴んだおじいさんから「子どもを静かにさせろ! くそ親が!」と怒鳴りつけられたり。

(※なお、娘は騒いでいない。シールブックをしていた。発した声は、たったひとこと。つぶやくような声の「できた」だけだった)

老若男女問わず、ここに書ききれないくらいの恐怖&傷心エピソードがある。だから、知らない人に話しかけられると、ぴりりと背中に緊張が走るようになっていた。

おばあさんはにこにこして「野菜持ってく?」ときいた。わたしが驚いていると、おばあさんは「たくさんあるのよ。もらって」と、テキパキと畑からたくさんの野菜を収穫しはじめた。

それから「ちょっと待っとってよ」と言い残して、裏の自宅に戻っていくと、ビニール袋をひらひらさせて戻ってきた。

そうして、レジ袋から溢れ出しそうなくらいたくさんの野菜を、わたしたちに持たせてくれたのだった。

「これね、炒めてもおいしいよぉ」
「あ、ありがとうございます……!」
「娘がね、あなたと同じくらいなの。遠くに住んでるのよ」


子連れでも、だいじょうぶですか……?

田んぼの真ん中に、喫茶店があるのを見つけた。そこは、感じのよい、小柄なおばあさんがご夫婦で切り盛りしている店だった。

子連れだと嫌な顔をされたり、断られたりすることもある。店に入る前に尋ねた。

おばあさんはきょとんとした。なぜそんな質問をするのだろうといった感じだった。にこにこしてわたしたちを招き入れてくれた。

入ってみると、明らかに子ども向けの店内ではない。おしゃれな、けれどもどことなく昭和の香りがする喫茶店だ。

おじいさんが、やはり笑顔で子ども用の椅子を運んできてくれる。使い込まれたその椅子を、不思議な気持ちで眺めた。

ケーキを食べて、コーヒーを飲み、ひさしぶりに誰かの手作りの甘いものを食べたな、と思った。

店の外には、イングリッシュガーデン風の庭が広がっていて、毛糸のポンポンみたいなアリウムの花にアゲハチョウがとまっている。
まるで、絵本の中みたいだ。

帰り際、「これ、おまけね」と言って、人数分のスコーンを持たされた。

「ありがとうございます……!」

* * * * *

それから少しずつ、習い事や幼稚園でママ友ができた。娘が近所の子どもたちと仲良くなり、そのお母さんと話す機会もできた。


だんだん街に溶け込んでいったころ、移住先の香川に、家が完成した──。

義実家での借りぐらしは、家の資金を貯められるようにという、お義母さんからの配慮だった。
わたしたちは、今度は飛行機ではなくて、車に荷物を積んで、何ヶ月もかけて少しずつ引越しを進めていった。



5.今日もわたしは地図を編む


二度目の引っ越しに、娘はナーバスになっていた。

新居に住んでしばらくは、やっぱりつらそうにしていた。東京から来たときと同じように「前のおうちに戻りたい」と何度も言った。

わたしも、新居が完成したことはうれしかったけれど、仲良くなれた気の良い人たちと離れたことをさみしく思った。


だから、やっぱり、外に連れ出した。

0歳だった息子も2歳になり、目は離せないけれど、危なげなく自分で歩けるようになった。子どもたちとわたしは、いろいろなところへ歩いた。
自転車も買った。

今度はバス停まで歩ける距離なのでバスに乗る日もある。バスや電車を乗り継げば、隣の市にだって行ける。

少しずつ街の中に、居場所をつくっていった。そしてそれをどんどん広げていった。

* * * * *

いまの家に住みはじめてから3年。
飛行機が羽田空港を飛び立つときの悲しかった気持ちを、今でも鮮明に覚えている。なのに東京を離れてから5年も経つのだと気づいて、驚いている。


3歳だった娘は小学生になり、わたしの首元あたりまで身長が伸びた。通学路が田んぼに囲まれているので、水生生物や水鳥に興味がある。
0歳だった息子も今では5歳。相変わらず植物が好きで、幼稚園から落ち葉や木の実、落ちていた花びらなどを持ち帰っては、ノートにちまちま貼って採集している。

変化したのは、子どもたちだけではない。

子どもたちもわたしも、たくさん友だちができた。いろんな人を誘ったり、誘ってもらったりして、予定のない週末を探すのがむずかしいくらいだ。

毎日が、ほんとうにたのしい。


新しくはじめたこともある。
家を建てると決めたとき、極度の虫嫌いであるわたしたち夫婦は、庭をすべてコンクリートで埋めると決めていた。それ以外の選択肢などないと、本気で思っていた。

けれども、日々の庭探訪でうずうずしてしまって、たくさん木を植えた。庭の一角には、イングリッシュガーデンみたいなコーナーまで作ってしまった。

ベランダまで、この通り。



「ちょっと、そこで待っとってな」

近ごろ、生まれてからずっと標準語だった子どもたちの言葉が、少しずつ変わってきた。

津軽弁ネイティブで標準語装備のわたしはというと、語尾に「けん」がつくことも、使う単語が変わることもなかった。
でも、讃岐のニュアンスが少しずつしみ込んできていて、なにもかもがごちゃ混ぜの謎弁になってしまい、久しぶりに帰省したらずいぶん驚かれた。



ずっと東京で生きていくと思っていた。

今でも東京の街が好きだ。
ビルのすきまから覗く少しスモーキーな空も。手軽にどこにでも行けて、実物を見ながらなんでも手に入る環境も。もう会えなくなってしまった人たちにも会って、話がしたい。

でも、わたしは、この街で楽しく生きていくと決めた。いや、決めなくても、勝手に楽しくなった。

だから、きょうも歩いて、わたしの地図を広げていく。
この街に居場所をつくっていく。










【了】

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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡

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