【夜明け前、弔花を摘む】 │ ヤンデレ猫の使命 #4 day0
薄目を開けて天井を見ていた。
夜と空、そうして壁の色とが混ざりあって、ブルーグレーに染まっている。
ただぼうっとしていたら、光の感じから少しずつ夜が抜けていくのに気がついた。
北の窓に映る空が、少しずつ、色を薄めていた。
そういえば、寝室の扉は開けっ放しにしていたのだ。
猫が自由に寝室へ出入りできるように、家じゅうの扉はいつも開け放たれていた。
これからはそんなことに、意味はないのかも。
扉が閉まっていると、猫のフカは暴れる。
以前、わたしが寝室に閉じこもっていると勘違いしたフカが、暴れているのを目撃したことがある。
にゃあにゃあ大きな声で鳴きながら二本足で立ち上がったフカは、寝室の扉を何度も何度も叩いていた。
そのときわたしは洗面所にいて、これが猫の大運動会なのかと思い、洗濯干しを続けた。
そのうち「にゃおん」「にゃおん?」と叫びながら、廊下を走り回った。
そのときは奇行だと思ったけれど、わたしが「なにしてるの?」と声をかけたら一瞬固まり、ぱああっと走ってきて、しゃがんだわたしのてのひらに、何度も頭をこすりつけてきた。
わたしを探していたのだと知り、愛しさでいっぱいになった。
そして、フカの「にゃおん?」が聞こえたら、「ここだよ」とすぐに伝えるようになった。
でもその声は、二度と聞くことができない──。
フカは昨夜、亡くなった。
▼この話は、このシリーズの4話目。猫との別れの話です。重たいお話ですが、それでも大丈夫な方は1話目へ。
完結話まで書き終えています。
夜明け前、弔花を摘む (1日目・金曜日)
5時にはしっかりと覚醒していた。
でも、アラームが鳴るまでは身体を横たえておくことにした。
寝不足のとき特有の、身体が痺れるような、上から強く押さえつけられるような重だるい感じに包まれている。
如雨露を思いきり傾けたみたい。相変わらず涙が止まらない。
呼吸するような当たり前さで涙がつ、つ、と落ちることに、半日も経たないうちにすっかり慣れきっていた。
ごろりと身体を夫のほうへ向ける。
夫が昨夜、車をおりる前に"父親の顔"に戻って、子どもたちに、冷静に、穏やかに、言葉を選びながらフカの死を告げていたことを思い出す。
そんな夫を見て、子どもたちは「パパはのんきだなぁ」と呆れたように笑っていた。
「ママは泣いてるのに、パパは泣かないじゃん」
それは、夫が、如雨露の底の穴に、上手に栓をしたからだ。
夫は大きないびきをかいていた。
疲れている証拠だ。
けれども、時折寝返りを打ち、苦しそうでもあった。わたしは夫の髪の毛を撫でた。
昨夜、身体が強張っていたわたしに、彼がそうしてくれたように。
アラームが鳴った。──5時半だ。
ゆっくりと身体を起こし、顔を洗う。
黒のトップスと黒のプリーツスカートをクローゼットから出した。
のろのろと袖を通し、庭へ向かう。
つい先週くらいまで半袖を着ていたのに、早朝だとこんなに寒いのか。
両腕をさするようにして、庭へ続く扉を開ける。弔花を摘むために。
少しずつ明るくなってきた青い空から、月が見下ろしていた。
ずんぐりむっくりした親指の、少し伸びた爪の先のような三日月だ。まだ淡い光を残している。

実際、写真がない部分の記憶は薄れてきたので
忘れたくない人にはおすすめ。
庭は荒れ放題だった。
"やけど虫"が田んぼからやってくるのが怖くて、夏の間じゅうガーデニングを休んでいたせいだ。
あちこちからイネ科の雑草の穂が顔をだしていた。ダウカス・ダーラの特徴的なシードヘッドもそのまま枯れて、ところどころからすでに芽を出している。
アメジストセージは爆発するように縦横に広がり、北側花壇の半分以上を占めて、その下に隠れた花が朽ちている。
この1ヵ月は、家族全員が代わる代わる高熱で寝込んだ。
そのあと、フカの入院、介護があった。忙しさを言い訳に、庭をすっかり放置していた。
例年、10月にガーデニングを再開して新しい花を植えるのだけれど、サボったツケで、庭には白い秋明菊と、ユーパトリウム・セレスチナムの白花と、目が覚めるように鮮やかなアメジストセージしか、見当たらなかった。

一輪ずつ丁寧に切り、水洗いして、そのまま庭で水きりをした。
昨夜調べておいた情報によると、花言葉を意識したいとか、濃い色の花はだめだとかあったけれど、選択肢がなかった。
切り取った花を軽く束ねていると、ふたたび喉の奥から悲しさがせりあがってきた。しゃがみこんで、声を出さないように気をつけてひとしきり泣いたわたしは、部屋に戻った。

アメジストセージは少量しか摘まなかった。
最初で最後の手紙
保温したままだったごはんに、鮭フレークとわかめと胡麻を混ぜて、子どもたちの朝ごはんを握っておく。
視界の端に、小部屋が目に入って。
吸い寄せられるようにまたフカを撫でにいく。
「この時期なら、保冷剤を入れておけば2、3日はいっしょに過ごせますよ」
先生はそう教えてくれたけれど、夫はすでに寒いのに冷房までつけて、フカの亡骸を冷やそうとしていた。
「フカ」
喉の奥がぐわっと熱くなる。
保冷剤に包まれているけれど、フカの体は思ったより冷たくなかった。ふわふわの毛並みは、昨日たくさん拭いたけれど、ところどころ汚れて束になって固まっていた。
寝不足特有のだるさにやられたわたしは、ソファにごろりと横になった。
起きてから1時間が経過したことに気がつく。
スマホを開いた。
すこし前から、朝起きて1時間はスマホに触らないというデジタルデトックスに挑戦している。
でもその日は、ルーティンのためというよりも、単に、スマホを開こうという気になれなかっただけだった。
フカを寝かせたキャリーバッグのある部屋を、先住猫のバロがのぞきこんで、にゃあにゃあと鳴いている。
キャリーバッグは、上部がメッシュの蓋になっている。見ようと思えばフカの姿は見えたと思うけれど、覗き込むことも、近づくこともせずに、バロは鳴いたり、様子をうかがったりしていた。
やがて、わたしが寝ころんでいるソファにやってきた。
バロは生まれてからずっと家の中にいる猫だから、”死”を知らない。
ただただ混乱していたのかもしれない。
子どもたちが起きてくる時間まで、まだ1時間以上もある。
早く起きすぎてしまった。
何をしていいのかわからなくなってたわたしは、ぼんやりとKindleのアプリを開く。
予約注文していた電子書籍の漫画が配信されていた。現実逃避できそうだとほっとして、開く。
ところが、文字も絵も、すべてが滑るように、まったく頭に入ってこない。
はじめての現象だ。
──なにも、読めない。
動悸が激しくなって、スマホを閉じ、目もつむった。
「ママ、おはよう」
息子と娘が、めずらしく一緒に階段を降りてきたのは7時前のことだった。
そろそろ準備しなければ、娘を送り出すのに間に合わない。
わたしは子どもたちにおにぎりを食べるように言い、重だるい身体を起こして、水筒の準備をはじめた。
「ねえ、フカちゃん、かそう、するんでしょ?」
娘が言い、どきりとした。
「パパが言ってたよ。燃やしちゃうんでしょ?」
息子が首をかしげる。
「もえたらどうなるの?」
「骨になるんだよ。パパが言ってた」
娘が答えた。
息子はよくわからないといった顔をした。
わたしは、どうするか迷っていた話を告げることにした。
「あんまり時間ないんだけど、みんな、フカちゃんにおてがみか、絵を描く?」
火葬のときに入れられるものが紙類だけだと知ったのは昨夜遅くのことで、子どもたちの準備は間に合わないかと思っていた。
ふたりは頷いた。
娘は、パンをかじりながらフカとバロの絵を描き、ハートで囲んだ。
パンくずが、制服のスカートに、床に、ボロボロ落ちていく。行儀が悪いけれど、時間が無いので仕方がない。
息子はフカの顔を描いた。
彼の猫はいつも同じ顔をしている。
にっこり笑った三日月形の目。そうして太めのバナナみたいな身体。

わたしはその絵が好きで、愛おしい。
息子が描いた猫を見ると、イライラが爆発しているようなときでも、くすりと笑みが漏れる。
それから、息子が数日前につくっていた、折り紙の”ステッキ”もいっしょに入れることにした。
このころ、息子はステッキ作りに凝っていた。
折り紙を斜めにくるくると巻いてテープで止めた棒に、好きなモチーフを貼り付けるもの。

マリオのスターや、花や、キノコのほか、2匹のねこたちをかたどったものもあった。
その中から、フカをイメージして作ったものを選んだ。金色がバロで、銀色がフカ。
「ねえ、フカちゃん見てもいい?」
身じたくを終えた娘が、強いまなざしを向けてきた。怖がりの娘の目に、決意が宿っている。
わたしは渋った。
子どもたち、とくに繊細な娘を、あまり死に触れさせたくない。
「だいじょうぶ。絶対に、こわがらないから」
娘はきっぱりと言った。
わたしはフカを寝かせた猫部屋に娘をつれていき、メッシュの蓋をめくった。
「フカちゃん……」
娘は言葉を失った。
フカの亡骸は、昨夜は、決して見せなかった。
子どもたちが眠るまで、毛布で隠れるようにして、わたしが腕に抱いていた。
「生きてるみたい」と、ぽつりとこぼれた。
「……っ。ばいばい」
娘の声が潤んだ。
ぽたぽた落ちてくる涙をぬぐい、娘は上を向いた。
「あーもう」
娘は足をどんどんと踏み鳴らした。
「どうしよう。学校で泣いちゃうかも。バレたらいやだなぁ、ママ、先生に言っておいてよ」
連絡帳の隅に昨夜猫が亡くなったことと、本人がそれで学校で泣くかもしれないのを気にしているので、泣いていたらそっとしておいてほしいと書いておいた。
「帰ってきたらさ、フカちゃん、いないんだよね? 骨だよね?」
改めて突きつけられた事実に、涙がぶわりと盛り上がって、堰を切ったように流れ出した。
「 ……わ、やだなあ、ママまで泣かないでよ。ママ大人でしょ」
娘は、最後に泣きながら笑ったけれど「行ってきます」と静かに言って、学校に向かった。
トムジェリが見られない
玄関先で娘を見送ってリビングに戻ると、トムとジェリーが流れていた。
息子が勝手にテレビをつけるのはいつものことだ。
生まれたときからスマホがあるデジタルネイティブは、2歳からリモコンを巧みに操っていた。
手の届くところに置いておくと、勝手にテレビをつける。
しかも、わたしに取り上げられないよう、リモコンを隠してしまうのだ。
かなり前にアンパンマンを卒業した息子は、その日はプライムビデオを開き、トムとジェリーをかけたらしい。
しばらくぼうっとテレビに目をやっていたわたしは、ぎゅっと目を閉じた。
トムの首が飛んだように見えるシーンだ。
バロはジェリー、そしてフカはトムの色を纏っている。

トムの様子が、昨夜の記憶をフラッシュバックさせて、呼吸が苦しくなった。
息子にテレビを消してとも言えず、ぼんやりしながらどう過ごしたのかはあまり覚えていない。
火葬で渡すお金を用意したり、たまにフカに触れたりしていたのだと思う。
まさか、トムジェリを見られない日がくるなんて、思わなかった。
涙は絶えず流れていたので、もう、化粧はしないことにした。
この家に越してきてからはじめて、わたしは、顔を"加工"せずに家を出た。
昨日あんなことがあったというのに、恐ろしいほど淡々としたいつも通りの日常だ。
空が綺麗で苦しい。

「リンカちゃーん、おはようございます」
ママ友がぶんぶん手を振っている。
わたしはすうっと息を吸い込んだ。
「おはようございまーす! 今日暑くないですかもう11月になるのにびっくりですね」
気を遣わせたくなかったのと、泣いてしまいそうだったことで、変なテンションで、早口で、妙ににこにこして話した。
いつもより大げさな身ぶり手ぶりになっていた自覚もある。
付き合いの長いママは、怪訝な顔をしていた。
涙を見せないように(この人には見せても大丈夫という信頼感があったけれど)、飛ぶように家に帰る。
火葬車がくるまで、あと、15分しかなかった。
あとがき ─ バスの涙と恥と、優しさと。
この話を書いたのは、フカが亡くなってから10日ほど経ったころだっただろうか。
習い事中の子どもを迎えに行く、バスの中だった。
絶対に書き切ると決めたのに、筆が乗らなかった。
やっぱり、思い出すことが苦しくて。一番苦しい山場である3.5話を乗り越えたら、脱力してしまっていたのだ。
書きたいのに書けない。
はじめての感覚に悩んでいたその日の朝「通勤電車でnoteを書いている」という記事を見かけた。
「これだ!」とすぐに飛びついたのだった。
けれども、書く記事を間違えた。
バスでこれを、──フカの話を書いてはいけなかった。
バスの一番前、少し高くなっている席に座ったわたしは、書きながら目が潤んでくるのに気がついてはっとした。鼻の奥も痛かった。
ちょうど終点に着いたので、noteのエディターを、下書き保存して、閉じた。
運転手さんのミラー越しに、泣いているのが見えていなかっただろうか。
降りようとしたとき、大惨事になった。
慌てて立ち上がったのがいかなかった。
バスの手すりにスマホのショルダーストラップが引っかかったのだ。パールビーズを繋げたつくりのそれは「ぷつっ」といういやな音を、はっきりと立てた。
あれ、と思ったときには遅かった。
「ああっ」
あちこちから声が上がった。
このときわたしは、すごい、時間って止まるんだ、と思った。
後ろにならぶたくさんの乗客の呆気に取られた顔。
大量のパールがスローモーションのように弾けて、車内のあちこちに飛び散る様子。
それがはっきりと、画像のように切り取られて見えた。
バラバラバラバラ……。
パールがバスの床にどんどん広がっていく。そこで正気に戻った。
さっきとは違った意味の涙が出そうになり、すみません、ごめんなさい、先にどうぞと、端に寄った。
しゃがみこみ、パールを拾う。何十個ものパールが散らばっていたので、手のひらいっぱいになってぼろぼろと落ちていく。
「大丈夫ですか。手伝いますよ」
声をかけてくれたのは、明るい髪色の、とても若い男性だった。
「すみません、ありがとうございます……」
わたしはもうそれしか言えなくて、誰もいなくなった車内で、おにいさんと二人でビーズを拾い集めた。
「……よし、これで全部です」
おにいさんからパールを受け取る。
パールはあまりにも多すぎて、受け取ったそばから、わたしのてのひらから10粒ほど溢れ、こぼれ落ちていって、もう一度拾うはめになってしまった。
いれる場所がなくて、とりあえず、上着のポケットに突っ込んでいく。
恥ずかしくて、頬がひどく熱かった。
「これ、外に落ちてたの、お客さんが拾ってくれましたよ」
運転手さんからも、パールを受け取る。
てのひらにこんもりと山ができる。
「これで全部ですね」
「あの、すみません。本当に、本当にありがとうございました」
「いえいえ、気にしないでください」
男性はそういうとバスを降りていった。バスの前に女性がひとり立っていて、連れ立って歩いていく。
そうか、外に落ちたのを拾ってくれたのは、きっとあの人なのだ。
友だち同士なのか、恋人同士なのかわからない。けれども、確かに心をすくってもらった。
バスの運転手さんに最後にもう一度謝って、わたしは息子のお迎えに向かったのだった。
優しさが沁みて、さらに違った意味の涙が出そうになった。
この時期は、もともとうっかりだけど、さらに脳がバグっている感じがあって、いろいろなことでミスをしていた。
けれども同時に、人の優しさにも触れることができて、そのたびに、少しずつ救われ、回復していったように思う。
▼次の話はこちら。▼
『#5 酔芙蓉は、燃ゆる』
フカの身体が世界から消えてしまった日。わたしは何事もなく美しい世界を見て泣いていた。
家族が皆出かけ、一人になったわたしは、耐え難い喪失感から逃れるために、あるページを開いた──。
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