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日記 │ 母は和三盆に似ている


公募に向けて長い小説を書いている。暗くて重くて怖くて、でも、美しい話になるといいなと思いながら。

今年に入ってから、短編長編合わせて15作品ほどの小説を書いた。
たくさん書いてみて気づいたことがある。わたしには書きたいテーマ……のようなものがあるような気がした。

それは「母親」という枠組みのこと。



「母親はこうあるべき」という姿は、だいたい2つに分かれると思っている。

ひとつは聖母のような慈愛に満ちた母親。
どんなときでも子どもを最優先にできる。自分を滅して、フラットに笑顔でいられるお母さん。たとえ病弱だとしてもその慈愛がカバーしてくれる。
イメージでいうと、たくさんいた筈なのにぱっと出てこない……。フラットな優しさだとキティちゃんのお母さんとかトトロのメイとサツキのおかあさん。

もうひとつは肝っ玉母ちゃん。
子どもの扱いが多少雑だとしても、根底には愛情があるから、厳しささえも許される。自分よりも家族を大事にしている。イメージでいうと、ジャイアンのかあちゃん。クレヨンしんちゃんのみさえ。

この2つが「母親像」のスタンダードであり、そこから逸脱すると変な目を向けられる──そういう構造があるような気が、している。


たとえば、『崖の上のポニョ』に出てくる母親「リサ」は、母らしくないという意見をなにかで見た気がする。子どもに名前で呼ばせていること? 友だちみたいな関係?
母ではなく、ひとりの人間として接する姿がいけないのだろうか。




わたしは、どちらにも属さない。
母親だけど、やりたいことが山ほどあるし、頭痛持ちでよく寝込む。怒らなそうって言われるけど、だいたいガミガミ怒っている。




何年も前の話だけれど「夏休みが辛い」と書いたお母さんが批判を受けたのを見たことがある。理由は「そんなふうに思うなんて子どもがかわいそう」というものだった。

わたしも同じこと(辛い)を思っていたから怯えた。



でも「辛い」というのは、子どもといっしょにいたくないというわけじゃない。

休みになることによって増える「作業」が辛いのである。そしてその「作業」によって削られる「ひとりの人間としての時間」を惜しんでいる。

それは子どものせいではないし、そういう意図では言っていないのだけれど「母親」が端的に発言するとそう捉えられてしまうのかもしれない。



たとえば働いている人なら、学童に連れていくためにお弁当が必要になる。普段なら給食だったから要らなかったものが。

わたしのように、家にいる時間が長い人からは、一日中キッチンに立っているような気がするという声をよく聞く。

今は、夏休みの宿題の丸つけもすべて親がしなければいけないし、自由研究や作文など、ふだんと異なる宿題にもサポートが必要になる。兄弟がいるなら、兄弟喧嘩の仲裁に費やす時間が普段よりずっとずっと増える。

ふだんの生活に加えて、たくさんのイレギュラーが加わること。
その都度、手を止めなければいけないこと。
その結果怒ってしまうこと。

わたしの場合は、余裕がなくなって「慈愛に満ちた母親」には到底なれないという理想と現実の乖離も含まれる。

それが辛いのであって、子どもと居たくないわけでは決してないのだ。



もう何年も前の話になるけれど、子どもを連れて出かけた先で、知らないおばあさんから説教をされたことがある。

まずは爪だった。

「母親の手じゃない」

おばあさんは、ぴしゃりとそう言った。
前夜、ようやく息子がねむったあとに自分でマニキュアを塗ったわたしの手を指して。確か、すごく久しぶりに爪がきれいになってうれしかったのを覚えている。

それだけでは終わらなかった。

ちょうどそのとき、夫や娘と別行動をしており、1歳の息子だけを連れていた。

「足りんよ」

なんの話かわからなかった。
おばあさんはとてもにこにこしていて、悪意の欠片も見当たらない。

「子ども」

「え?」

「子どもの数よ。あんた、まだ産めるやろ。あと2人は産まないかんよ。あたしのときは4人も産んだ。あたしの娘もみんな3人産んどるんよ。もっと産まんといい母親とは言えんよ」

わたしは曖昧に口の端を上げてその場を離れた。
心臓が嫌な感じにドキドキしていた。



「母親らしい母親」は、
ネイルをしていてはいけない。
子どもが少ないのはいけない。

──なんだそれ。





この間、娘が和三盆作りの体験をした。
押し型の中に、砂糖の粉を入れて、ぎゅっ、ぎゅっと親指で押し込んでいく。しっかりと固くなるまで押し込むことで、あの美しい和三盆糖はつくられている。

でも、もしかすると、おばあさんもそういう「枠組み」に押し込められて生きてきたのかもしれない。根深い、と、思う。

娘が作った和三盆糖は、持ち帰る途中でざらりと崩れてしまった。




ひとりの人間としては困りものだけれど、わたしは、いろんな人から「なにか」を言われやすい。昔からそうだ。反撃しなさそうな地味な見た目のせいかもしれない。

今まではただ傷ついていたけれど、そのとき飲み込んだことを噛み砕いてみたらどうだろう。物語という形にすることで、同じ思いをした人に届くかもしれない。

気づいたら対策が立てられるかもしれない。

わたしが書きたいのはたぶん、ミステリーやホラーの形をとっていても、そういうものなのだと思う。

抑圧されたなかでも、自分らしく生きてみたいという、そういう気持ちのきらめき──。

母という押し型の中からはみ出てしまった、さらさらの甘い砂糖の部分も、捨てずにいたいよねという、そういう気持ちなのかもしれない。



そんなことを思いながら、残り少ない日数をがんばるつもりである。


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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡