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掌編小説 │ 願わくば、10年後も。 #三題噺

※さらっとですが登場人物が亡くなるシーンがあるので、ご注意ください※
※企画参加作品ですが、苦手な方はスルーしてください※









「正解だったよ、美紗さん」

それが義母の最後の言葉だった。名前を呼ばれたのは、結婚してからはじめてのことだった。

苦しげな呼吸を続けながらも、義母は気丈に笑ってみせた。だから私は言えなかった。違う。この結婚は正解じゃなかったんだ、と──。

救急車を呼んですぐに、夫の和彦に電話をした。義母が倒れたときからもうパニックになっていて支離滅裂だったかもしれない。夫は覚悟の滲む声で「すぐに行く」と答えた。

昼まで元気に台所に立っていた。──それなのに、あっという間だった。82歳。もっともっと長生きしてくれると思っていた。


亡くなった人の顔を布で隠すのは、どうしてなのだろう。

和彦は静かに義母のそばに座っていた。
泣くでもなく、取り乱すでもなく。壊れてしまいそうな硝子の花びらを触るような手つきで、そっと布を外すと、色を失った義母の狭いひたいを、髪をかき上げるように触れている。まるでよくがんばったとでも、言うように。

霊安室の入り口で呆然とその様子を眺めていた。


バタバタと足音が響いた。
私を突き飛ばすようにして入ってきたのは、年上の義妹だった。私とは25歳離れている。

マスカラが落ちて目の下が真っ黒になっていた。義妹は義母にすがりつき、わあわあと泣いていた。

「……夜中に葬儀社が来る予定だから、それまで霊安室に預かってもらえるって。妹もいるし、一旦帰ろう」

和彦はそう言うと、私を守るようにして霊安室から出た。



私たちは、互いになんの言葉も発しないまま家に戻った。

車を運転する和彦の横顔を、ただ眺めていた。頬のあたりにはくっきりと深い皺が刻まれている。フロントミラーに映る私の姿は、この10年で大きく変わったというほどではない。


冷蔵庫を開けると、つんとしみるにおいがした。
くし切りされた玉ねぎが、透明な保存容器に詰まっている。ああ、今日は肉豆腐だったのだ。口の中に甘辛い味が広がっていくようだった。

冷蔵庫の中には、隙間がほとんどないくらいぱんぱんに常備菜が詰まっている。すべての容器に整った文字で中身と日付が記入されていた。私とは違う、几帳面な義母らしい。

きんぴらごぼうに、筑前煮。それからほうれん草のピーナッツ和え……。きっと今晩食べるはずだったものたち。義母の中でも、私たちの中でも、今夜は続いていた。

いつもの当たり前の日だったはずなのだ。



「ミサちゃん……。無理だ、オレ、食べられないよ」

「私だってそうだよ。でもさ……」

──お義母さんが最期に作ったものを残したくない。最後まで言葉が続かなかった。

食欲がないのに、無理やり口に詰め込んだ。いつもと変わらぬおいしさなのに、この味を、もう二度と食べられないのだ。そう思うと、目の前が滲んだ。

「ミサちゃん……」

和彦の目も曇っている。どちらからともなく、ぼろぼろと涙が落ちた。それから二人でわんわん泣いた。

泣きつかれたこと、昼間出かけたときのままだったと気がつく。リビングの掃き出し窓は、夜になって鏡のように私たち夫婦を映し出していた。26歳の私と、56歳の和彦とを──。




誰にも見つかりたくなかったのに、誰かに見つけてほしかった──そんな夜だった。

和彦とはじめて会ったとき、私は夜の公園のブランコに、一人きりで座っていた。

ぬるぬるした空気の中で、耳元ではぶうんという羽音がした。ややあって、右腕に痒みが広がっていく。ぷっくりと腫れた肌を、私は爪でがりがりと掻いた。やがて、鉄のにおいがした。



「──君、親御さんは?」

そう声をかけてきた和彦は、私の親よりもずっと年上だった。パリッとしたスーツを身につけた、細身の男性だった。今思うと当時45歳で、すでに白髪が混じった髪の毛をしていた。

彼がいろいろ動いてくれたようで、大人たちがなにかしていた。親元を離れられた時期もあったけれど、結局、またすぐに戻される。


和彦と結婚したのは16歳のときだった。

身体こそ大人になったとはいえ、それでも一人で生きていけるわけじゃない。この結婚は私を親から守るためだったのだと思っている。──たぶん、あのまま家で暮らしていたら、私は危険だったのだ。

「お金で買うみたいになってしまい、申し訳なかった。それに君の戸籍を汚してしまった」

私を救い出したのに、和彦はそういって頭を床にこすりつけた。
古びたボストンバッグ一つ持たされて家を出ていくとき、親とその恋人がこちらを見てにたにたしていたのは、そういうわけだったのかと気がつく。




「穢らわしい! うちの子と同い年じゃないの。兄さんがそんな人間だったなんて思わなかった!」

事情を説明しようとする私を抑えたのは、和彦だった。
私たちは、戸籍上の夫婦でしかない。それなのに、和彦は周りから非難され、あるいは奇異の目で見られた。

「あんたもあんただよ。どうせ、保険金目当てなんだろう。この毒婦!」

義妹はそう言って私に手を上げようとした。ひゅっと記憶が蘇って、私が反射的に身を守るように縮こまると、義妹は「な、なんだよ」と言って、帰っていった。


義母の表情からは、なにもわからなかった。

「まあ、答えがわかるのは、10年後……だろうねえ」



和彦と私は、別々の部屋でねむっていたが、夜には毎日会話する時間をとっていた。小学校以来、私は人と話すということをしていなかったが、たまたまその日は、テレビで怪談や都市伝説を特集していた。

「テケテケだ」

私が言うと「テケテケってなに?」と和彦が聞いた。学校では知らない人がいなかったから、驚いた。

「口裂け女なら知ってるよ」

和彦は得意げに言った。

「出会ったら、こう言うんだ。ポマード! ポマード!……10回ね」

「ポマードってなに?」

和彦は絶句した。




和彦が仕事へ行っている間、私は高卒認定の資格を取るために勉強しており、義母とふたりきりだった。

義母は優しくもなければ怖くもなかった。とてもフラットな立ち位置で私に接していた。彼女は、昼ごはんになると私を呼んだ。

ほうれん草は遠い昔に給食で食べたことがある気がするが、好きではない。でも食べられるならなんでもいいので、特になにも考えずに口もとに運ぶ。

「あまい……?」

私が言うと、義母の目元が少しだけゆるんだような気がした。

「ピーナッツが入ってるの。砕いてね。すり鉢ですってもいい。そこに、砂糖と、おしょうゆと、水」




ある日の昼食は、卵焼きだった。きつね色の焦げ目がついた固めに焼かれた卵を端で割ると、とろりと中身が出てきた。昨夜の肉豆腐の残りなのだと気がつく。

「牛肉とね、玉ねぎ。あと、糸こんにゃくが入るとおいしいのよ。豆腐は入れたことない。売り切れるから」

義母は素っ気無い感じで言った。肉豆腐の豆腐は、和彦の好物なのだ。一方の私は糸こんにゃくばかり。義母はいつからか、肉豆腐に3パックもの糸こんにゃくを入れるようになっていた。



その日は義妹が来ており、食べ終えた私がぼうっと窓の向こうを眺めていたら「嫁のくせに動かないの?」と睨んだ。ああ、動かなければいけないのか。義妹がごろごろしているから、そうだとは知らなかった。
私はそれから義母の手伝いをするようになった。


ぽつりぽつりと義母と会話をするようになった。
部屋にこもる時間が減った。義母も無口なたちだったので、二人でぼうっとダイニングテーブルに座ったまま、お昼のワイドショーを見ている時間も多かったと思う。





あっという間の10年だった。

テレビを見て少しずつ言葉が増えた。10年前の自分からすると考えられないくらい、人間っぽい感情が、知識が、今の私の中にはある。義母とずっと家で過ごしていた日々はもう遠く、気がつくと、外に出て働いていた。ますます言葉を、感情を吸収した。

私はきっと、和彦と結婚した瞬間に生まれたのだ。




死の間際、義母は言った。この結婚が正解だったと。
でも、違う。私と和彦は友だちだが、夫婦では、ないのだ。義妹のように孫の顔を見せてあげることもできなかった。
もっと早くに私は、この家を出ていくべきだったのだ。

離婚届に判を押して、荷造りをしていると、和彦がバタバタと階段を駆け上がってきた。
それからひどく息を切らしている。

「ミサちゃん、これ……」

紙切れを私のほうに向けた和彦は、呆然とした顔をしていたが、それから笑みを見せた。

「……よかった」

「え?」

「君を守ってくれる男が、見つかったんだね。きっと、ちゃんと、年相応な」

私は驚いた。そんなことを考えていたなんて。

「……ちがう、ちがうよ」

「え?」

「今の私なら、もうわかる。和彦……さんは、私を守るために結婚してくれたんでしょう。これ以上縛りつけたくないんだ」

「縛りつけられるだなんて!」

和彦は大きな声を出した。そんなことはこの10年ではじめてで、私は驚いて荷造りをする手を止めた。

見ないようにした彼と目が合ってしまった。



和彦はこの春に定年退職した。
彼の髪の毛は、定期的に黒く染めないとほとんどが白髪になってしまう。眉毛はグレーになり、肌からは少しずつ水分が失われているのに気づいていた。

「本当はもっと早くに解放しなきゃいけなかったんだ。それなのに、オレが君と居る時間が楽しくて、縛り付けてしまった。──すまない」

私は、どうするのが正解かわからなかった。



パタン、と乾いた音がしてそちらを見ると、ダイニングの上の写真立てが倒れていた。義母の写真が入ったものだ。

氷のように落ち着いていた彼女が、まるでコントみたいに転んでみせたような気がして、口もとがゆるんだ。



子どものころとはちがう。私はもう言葉をたくさん知っている。──行き違いがあるのなら対話をしてみようと、思った。


そして願わくば、どんな形であれ、10年後もこの家で暮らせますように。









▼ヤスさんの「三題噺」に参加します。


1.ピーナッツ
2.都市伝説
3.正解は10年後

#木曜日は3ースデイ
#なんのはなしですか




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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡

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