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神さま、つくります。~雨宿りと囚われの人魚~〈短編小説〉

 令佳は透明になった。
 それは、嫌味なくらいに晴れた朝の、教室でのことだった。

「おはよう」

 いつも通りに声をかけたはずだった。
 ところが、誰とも目が合わない。波が引くように令佳の周りから人がいなくなっていく。


 その不自然さから、誰もが気づかないふりをしているのだとすぐにわかった。うつむいたままの理月、ばつが悪そうな顔をしている葉菜、いい気味だというように口の端を歪めたチハル。

 昨日の失言が原因だったのだろうか。――でも、たった、あれだけのことで?


 幼稚園も、小学校も中学校も、令佳はずっと皆勤賞だった。遅刻も早退もしたことがない。
 絶対に休まないこと。それは、厳格な両親に決められた約束事だった。

 それなのに、気がつくと自転車に飛び乗って、校門を抜け出していた。

――あれは、昼休みが終わる前だっただろうか。とにかく必死だったから、ほとんど記憶がない。


 制服のポケットには財布とスマホ。それ以外のものは何も持っていなかった。

 何かに追い立てられるように、一度も振り返ることなく、ただペダルを漕ぐことだけに集中した。目的地を決めることも、地図を調べることもせずに、どこに向かうのか知らないまま。


 そのとき令佳の中では、爆発が起きていた。
 自分なりに頑張ってきたつもりだった。でも、どうして何もうまくいかないのだろう。いつでも息苦しいのだろう。

 神さまがいるなら、どうか、助けてほしい。

そこまで考えて、令佳は自嘲した。わかっている。神様なんかいないのは。


けれども、怒りや悲しさといった負の感情だけではないのが不思議だ。

 呼吸が深く抜けたときのような、開放感があった。とんでもないことをしでかしたというのに、ほっとしていた。



 どれくらい走ったのだろうか。

 ふと我に返ったのは、鼻先にぴちゃんと雨のしずくが落ちてきたからだった。

 朝は、あんなにも晴れていたのに。
 ソーダ水のように透明な空だったはずが、見上げると空の端のほうから少しずつ黒くなっている。



 どこか雨宿りできる場所を、と辺りを見渡したものの、田んぼの間にぽつりぽつりと民家があるだけだ。
 駅もなければコンビニも見当たらない。

 いくらも経たないうちに、雨脚がだんだん強くなってきた。肩を濡らし、涙のように頬を伝い、前髪がぺたりと額に貼り付いている。


 令佳はだんだん焦りはじめていた。

 どこにいっても雨をしのげそうには見えないし、なにより、体がどんどん冷たくなってきた。日中は暖かいから、すっかり忘れていたけれど、まだ春にはなりきっていないのだ。


 ふと、こんもりと木が繁っている場所が目についた。山の裾野で、右手のほうに「一夜ヶ池ひとよがいけ」という看板が見える。

 聞いたことがある。そこには確か、湖を囲むような深い森があるのだとか。紅葉が綺麗で、その時期に訪れる人が多いけれど、穴場だと。

――もしかしたら、四阿あずまやのような、とりあえず雨だけでもしのげるような場所があるかもしれない。



 まだ夕方でもないというのに、空はすっかり暗くなっていた。

 令佳はこわごわしながら入り口をくぐる。濡れた制服がずっしりと重たく、いやなべたつきがあった。
 とにかく進むしかないと、遊歩道に沿って自転車を進めていく。


 ややあって、園内の案内図を見つけた。食い入るように見つめても、四阿があるのかはわからない。
 これ以上進まずに、戻ったほうが良いのだろうか。

 そう思って立ち去ろうとしたときだった。空が爆発したように一瞬明るくなった。その一瞬の光が、案内図の柱の陰に隠されるように貼り付いている紙を令佳に見つけさせた。



「喫茶、……ロガール?」

 凄まじい破裂音が響いた。きっと遠くで鳴ったであろう雷だったが、令佳は思わず身をすくめた。

 屋外で雷に当たらないためにはどうしたらよかったのだろう。テレビでなにか言っていたような気がするが、正解が思い出せない。令佳は、とりあえず、この店を目指してみることに決めた。


 喫茶ロガールは、ここから反時計回りに進み、湖のそばの石像を森側に進んだところにあるようだ。

 喫茶店なら、暖を取れるかもしれない。歯の根をカチカチと鳴らしながら、令佳は考えた。 そして、雷がいつ来るかと怯えながらも、自転車を奥へ、奥へと進めていった。



 数分後、令佳は森の中で立ち尽くしていた。喫茶ロガールは、木の上・・・にあったのだ。

 森の少し開けた場所に、双子のような二本の太い木が生えている。
 片方の木をぐるりと囲むように建物がついており、もう片方の木へとテラスが伸びていた。そして、テラスと地面をつなぐ、木製のしっかりとした階段があった。


 どうしたものかと考えていると、カランカランという音とともに、喫茶店の扉が開いた。
 そして、頭上から、間延びした声が降ってきた。

「ねえ、君。だいじょうぶー?」

 濡れた前髪を、拭うようにしてかき上げると、階段を降りてくる女性が見えた。


 その人は、リラの花の色のぴったりとしたニットに、花の刺繍が施されたクリーム色のエプロンをつけていた。足首ほどまである長いスカートは、彼女が歩くたびにふわりふわりと揺れていた。

 どうしてだか眩しく感じて、薄目を開けて見てみると、年上なのだろうが、可愛らしい印象の女性が、淡い紫色の傘を私の頭に差し出していた。



「おきゃくさんでいいのかな?」

 やや舌足らずな感じで彼女が言う。

 令佳がぼんやりとうなずくと、彼女の顔はぱあっと明るくなり、花がほころぶように笑顔を見せた。


「ずぶ濡れだねえ、ちょっと待ってね、すぐにタオル持ってくるから。――あ、とりあえず入って」

 彼女はそう言うと、令佳の手を引いた。
 令佳はびくりと身体を硬くする。他人に触れられたのが、とても久しぶりだったのだ。


「あ、ごめん。びっくりさせちゃったね。あたし距離感がおかしいってよく怒られるの。でもね、今日は雨だから、この階段はちょっと危ないよ。エスコートさせてください」

 歌うようにそう言うと、彼女はふたたび令佳の手を取り、ゆっくりと、時々こちらを振り返っては笑みを向けながら、カフェの入り口へと誘っていったのだった。

 その手は華奢な女性らしい骨格をしていて、そして、ふんわりと柔らかく、温かかった。


 階段を登り切って、下を覗く。下から見たときの印象よりも、ずいぶんと高いところにあるのだと感じた。

 木から隣の木へと渡る通路では、きちんと足場も柵もあるというのに肝が冷えたが、彼女は気にせず慣れたふうにとんとんと進んでいく。


「ここで靴をぬいでね。すぐにタオルを持ってくるから待ってて」

 そう言うと女性は、ぱたぱたと店の奥に消えていった。

「タオルと、あとね、これあたしの服だけどよかったら使ってね。見ての通り狭い店だから、――申し訳ないんだけど、着替えはお手洗いでお願いします」

 そう言うと彼女は、手触りの良いふわふわのタオルと、とろみのある柔らかな素材のワンピースを令佳に手渡した。



 小さなお手洗いに入ると、グレーや白、淡い紫といった色合いのモロッカンタイルが目を引いた。
 確かに狭いけれど、よく手入れがされた清潔な場所だった。

 手洗いには、リラの花が飾られている。
 グレーにペイントされた木の壁には、シックな額縁があるのだが、そこには、これまで見てきたものとはやや不釣り合いな、大きな灰色の蛇の絵が飾られていた。


 タオルで顔を押さえる。
 思っていた以上に身体が冷えていたらしく、温かく感じられた。お日さまのにおいと、花のような甘いにおいが混ざっていて、ふわふわと柔らかくて、それだけでも泣きそうになった。

 しばらくそうしていたけれど、ややあって、濡れた髪の水けを拭き取り、服を脱いだ。

 疲れのせいか、身体中が重たい。
 手洗い台に一旦置いた制服は、絞れるくらいにじっとりと濡れている。きっと母を怒らせてしまうと、憂うつな気分になった。


 タオルとワンピースの間には、ビニール袋とカイロが挟まっている。
 ふわふわとした見た目からは意外なことに、よく気のつく女性なのだと感心した。

 着替えを終えて、お手洗いを出ると、甘いにおいが漂っていた。



「おかえりなさい」

 女性がほほ笑む。
 令佳はどきりとして、視線を伏せ、それから小さく礼を告げた。

 店の中は、キッチンとその前にあるカウンター、そしてリビングのような空間という、小さな家のようだった。


「よかったらこちらにどうぞー」

 女性が、窓のほうを指し示す。

 先ほどは気がつかなかったけれど、息を飲むほど素敵な空間だった。


 大きく取られた窓からは、森と湖が一望できる。

 まるで窓そのものが絵画のようだ。あいにくの悪天候だけれど、晴れた日だったなら、どれほど美しいだろう。


 天井からは、イルミネーションのようにたくさんの電球が吊り下げられていて、クリスマスの夜のようにわくわくする感じがあった。

 そこには、カフェらしいテーブルがない。かわりに、背もたれのない正方形のマットレスのような、とても大きなソファが空間を埋め尽くしていた。ふつうのソファの座面を二つつなげたような感じだった。

 そして、窓のそばには、背もたれがわりなのだろうか、たくさんのクッションが並べられている。


 座面に膝を乗せると、ぐっと身体が沈み込んでいくのがわかった。

「あの……、メニューはどちらに……」

 令佳が訊くと、女性がキッチンカウンターからひょっこりと顔をのぞかせた。

「今お持ちしますねぇ。でも、今はマスターがちょっと出てるから、サービスであったかいのみものをどうぞ」


 そういうと、彼女は木のトレイに乗せられたマグカップを運んできた。

「あの、――いろいろと本当にありがとうございます」

 令佳は慌てて彼女に向き直った。
 いろいろなことがあって、挨拶だとかお礼だとか、そういう当たり前のことがすこんと頭から抜けていた。


「ううん、気にしないでね。こちらこそ、マスターがいないから待たせちゃってごめんね。これはほうじ茶ミルクです。飲めるかな?」

「――はい」

 ひとくち飲むと、びっくりするくらい熱くて、舌をやけどしそうになった。でも、香ばしくて優しい、とてもいいにおいだった。
 ほうじ茶には、こういう飲み方もあるのか。令佳は感心した。


 食事のあと、ほうじ茶を入れるのは令佳の仕事だった。
 いつからの習慣だったのかは覚えていないけれど、両親はそれを、花嫁修業だと呼んだ。


 食事を終えたら、両親と自分の分の食器をひとりで下げ、すべてを手で洗う。とりわけ冬の冷たい水を使う時期は辛かった。

 幼いころから令佳の手はいつもひび割れて、クラスメートのそれとはまったく違う質感だった。そんな手を見られるのが嫌で、いつも目立たないようにしていた。

 すべてを洗い終えたら、やかんに水を入れて湯を沸かす。
 その間に、食器を一つひとつ、水気の一滴も残さぬように拭き上げ、食器棚に一枚ずつ音を立てぬように片づけていく。


 その間くつろいでいた両親のもとへ、まるで召使いのようにお茶を運んでいく。その後に続く“団らん”の時間が、苦痛だった。

 話題は勉強や生活習慣のこと、それから将来のことばかり。彼らの話は「べき」で締めくくられることが多く、令佳の思考や行動がそれと違うと、凍てついた目を向けられる。

 そのあとで口元だけを微笑みの形にし、両親は言うのだ。これはお前のためなのだ、と。



 いつからか令佳は、とにかく受け身でいるようになっていた。聞かれたこと以外には答えない。なるべく正解に近いものを選ぶ。

 令佳は、令佳のためには生きていない。彼らのために生きている。

 こういうふうに考えてしまうのは悪いことだとわかっていた。
 だって、令佳は恵まれているのだ。必要なものは買ってもらえる、教育も与えてもらえる。――恵まれているのだ。



「おいしかったです」

 令佳は、飲み終えたほうじ茶ミルクをキッチンに運んだ。すると、女性はころころと笑った。

「ここはカフェだから、自分で下げなくてもだいじょうぶだよ」

 言われてみればそうだった。令佳ははずかしくなってうつむいた。




「ねえちゃん、ただいま」

 そのとき、扉が開いて、冷たい風が吹き込んできた。

「おかえりなさい」

 女性の声が弾む。彼女はぱたぱたと子どものように入り口のほうへ走っていく。
 そこには、ランドセルを背負った十歳くらいの少年と、すらりと背の高い男性が立っていた。


 彼らを見て、思った。
 そう、この店の雰囲気は、まるで温かい家のようだったのだ。令佳が思い描く、理想の家庭――。



「今日はお客いるんだ」
「おい、ほたる。失礼な言い方するな」

 ほたると呼ばれた少年は、藍色のレインコートを脱いだ。
 色素の薄い茶色の髪に抜けるような白い肌をした中性的な子で、思わず目を奪われる。


「お待たせしてしまいましたね。野々花、メニューやお冷はお出ししてる?」

 男性が訊いた。
 野々花と呼ばれた彼女は慌ててキッチンに戻っていった。

 すると彼は、やれやれといった様子で笑ったのだけれど、それは呆れたという感じではなかった。優しく下がった目尻が、愛おしいと告げているようだった。


 ほたるはキッチン前のカウンターに腰掛けて、少し濡れたランドセルを丁寧にタオルで拭くと、中から教科書や筆箱を取り出した。
 背の高い椅子で足をぶらぶらさせながら、勉強をはじめている。

「慌ただしくてごめんなさい。あの子、あたしの弟なの。学校のあとはいつもお店で宿題をして、お店が終わったら一緒に帰るのよ。――といっても、この先の私有地だから、すぐ近くなのだけれど」

 野々花がおっとりとそう言いながら、令佳の前にメニューとケーキを置いた。



「はい、これ。チョコシフォンケーキです。マスターからのサービスだよ。お待たせしちゃったからって」
「……! で、でも、さっきもサービスしてもらったので、大丈夫です」
「ふふ、いいよぉ。よかったらまた今度遊びに来て。そのときに注文してくれたらいいから」

 令佳がおろおろしていると、カウンターのほうから「もらえるもんはもらっときなよ」と声が聞こえた。


「平日はどうせ客なんて来ないんだから、食べ切れる分しか作ってないんだ。趣味の店だしね」

 ほたる少年は、令佳のほうへ目線を寄越すことなく、ノートにシャープペンシルを走らせながら淡々と言った。

「ほたる、お前はまた……」

 マスターが呆れたように言った。



 それからどれくらい経っただろう。
 勉強をするでもなく、スマホに目をやるでもなく、ただ何もしないで過ごす時間は、いったいいつぶりだろうか。ほう、と息を漏らす。

 シフォンケーキは、ココア風味のほろ苦いふわふわのケーキに、甘さ控えめのクリームがたっぷりと塗られていて、ゆっくり食べたいのにあっという間になくなってしまった。


 そういえば、令佳は、甘いものを食べたことがあまりない。

 母が出すおやつは、ドライフルーツかナッツ、あるいは煮干し。この三種類だけなのだ。体型を維持するために。健康のために。

 母はいつもそう言っていたけれど、本当は、スーパーのお菓子コーナーにも、ファストフード店にもとても興味があった。街のベーカリーのいいにおいについ足を止めてしまうし、ケーキ屋さんに並ぶケーキを買うのが夢だった。


「ほたるちゃん、口の周りにクリームがついてるよ」

 野々花はそう言って、白いタオルでほたるの口元を拭った。すると彼は顔を真っ赤にして「子ども扱いすんなよ!」と言い、タオルをひったくって、ごしごしと強く口を拭いた。

 その様子をにこにこと見守る彼女の姿を見ていると、令佳は胸のあたりに、ちくりと棘が刺さったような違和感を覚えずにはいられなかった。


 メニューをぱらぱらとめくる。
 少し黄味のあるざらざらした紙に、黒いペン一本で書かれたメニュー。文字も枠もイラストも、すべてが精緻に描き込まれている。

 そろそろ夕方だろう。ここまで来たら、もう晩ごはんも食べてしまおうか――。そう思いながら見ていくと、一番最後のページに、不思議な言葉が書かれている。



「かみさま、作ります……?」

 思わず口に出していた。すると、野々花がぱたぱたと駆けてきて「あ、気になる? 作ってみる?」とにこにこしながら言った。

 ふいに不安になってきて身を硬くしていると、キッチンカウンターの中にいたマスターが、眉を下げてくつくつと笑った。



「野々花、そうやってがっつくと怪しまれるよ」
「えぇ、だって――」
「おまじないみたいなものです。自分だけの神さまをデザインしてみようっていう遊びみたいなメニュー。ワンコインですよ」

 マスターは、おどけた表情で指をコインの形にしてみせた。

「ワンコインの神様」


 未だ訝しく思いながら令佳がつぶやくと、マスターは苦笑した。

「だから俺は反対だって言ったんだよ。神様とか怪しいし」

 ほたるがつんと口を尖らせて言った。


「まあ、ネーミングがね……」
「なによう。いいじゃない、神様。なんでもできそうな感じが」

 野々花が頬を膨らませる。マスターは彼女に愛おしげに目をやると、令佳のほうに向き直って微笑を浮かべた。

「――そう。人間みんな、大小さまざまの悩みがあるでしょう。でも、そのすべてを誰かに相談するってことはきっとしないと思うんだ。ただ、我慢を重ねていくと、ある日突然爆発したり、ぷつんと糸が切れたみたいにやる気が無くなったりしてしまうものだよね。だから、そうなる前に、自分の心と向き合える仕組みを作ろうと思ったんです、――野々花がね」

「そうなのー!それでね、神様をつくろうって思ったんだよ。
 泉ちゃんも言ってるけど、本当の神様じゃないよ。絵本を作るように、物語を考えるように、自分だけの小さな神様をつくるの! 禁止事項は神頼み。他力本願になるためにつくるんじゃないよ。心の相談役になってもらうの。自分ひとりでただ悩むよりも、だれかに話すつもりで言葉を考えてみたほうが、解決しやすいと思うんだ」



 野々花はひと息でそう話した。やや気圧されながら「勧誘とかっていうことは……?」と念のため尋ねると、二人揃って「無い!」と答えた。それから私たちは思わず笑ってしまった。

 レモンの輪切りが入った、香りの良い水をごくごくと飲み干す。
 そして、大きく息を吸って、静かに吐き出した。

「あの、私、神様作ってみたいです」

 令佳は、少し震える声で告げた。





「――アンタさ、別に無理しなくていいんだよ? ごちそうしたのはこいつらの善意だからね?」

 ほたるくんが、またノートから顔を上げずに言う。令佳は首を振って「私がやってみたいんです」と答えた。それは本心だった。


 学校は絶対に休まないこと。
 寄り道をしないこと。
 甘いものを食べないこと。

 約束事をどんどん破った日だった。正直、このまま家に帰るのは怖い。考えたくないくらいには。――だから、自分の心を守るすべがほしかった。どんなものでもいいから、すがってみたかったのだ。



「わかりました! じゃあ、ちょっとだけ待っててね」

 野々花がにこにこしながらカウンターへ戻り、クリップボードを抱えて戻ってきた。

「そしたら、まずは、この神様カルテに書き込んでください」
「かみさまかるて……?」

 予想外の言葉に困惑していると、野々花が隣に座った。ふわりと甘いにおいがした。



「そう。どんな神様を作りたいかまとめた質問だよ。これをじっくり考えておくとね、素敵な神様が作れるよ。ふふ、ちなみに、わたしの神様はね、お手洗いにある絵の、蛇の神様なんだよー」

 目の前の女性と蛇の印象が結びつかず、不思議に思った。

 神様カルテと呼ばれたシートには、まず自分の名前を書く欄があり、7つの質問が続いていた。名前はニックネームでもいいとのことだったので、下の名前だけを記した。



 1つ目の質問は、神様の種類についてだという。「人・動物・精霊・自然物・無機物」という選択肢がある。令佳は「精霊」を選んでみた。

 次は性別だ。「女性・男性・無性別」という項目から「女性」に丸をつける。


 それからメインカラー。色のカテゴリの選択肢があるのだが、令佳は、思い切って普段は絶対に選ばないであろう「ピンク」に決めた。それは、子どものころに着てみたかった服の色だった。

 次はテクスチャ―という設問がある。これは選択肢が多かった。
「ふわふわ・さらさら・きらきら・しゃらしゃら・ふかふか・くしゃくしゃ・すべすべ・つやつや・ごつごつ」と、いわゆるオノマトペで表記されたものの中から「きらきら」を選んだ。



 それから続くのはキーアイテム。思い出の品を1~3個書くのだという。これが一番の難題だった。頭を捻っても出てこない。

「思い出に残っている場所とかはどうかな?」

 ふと気がつくと野々花が隣にいて、レモン水を注いでくれているところだった。そうして令佳が最後に書き出したのは「貝殻・星・硝子」の3つの言葉だった。


 ここまで書き進めてくると、なんだか楽しくなっていた。

 次の質問は文字だった。神様の名前に入れたい文字があれば書いてほしいというものだ。これにも頭を悩まされた。最後に選んだのは「海」という言葉だった。



 両親は、厳格なだけではなかった。それは第三者が一緒のときに限られたけれど――。

 令佳がこれまで生きてきた中で一番に幸せだったのは、小学生のころ、海に行ったときのことだ。

 父の会社関係の人たちと、家族ぐるみでキャンプに行ったことがある。そこでは、令佳たちも普通の家族のように過ごせた。
 両親がずっと自分を見てほほ笑みかけてくれていた、その事実に胸がいっぱいになったあの夜を、令佳は時折思い出さずにはいられなかった。


 夕暮れの砂浜で、年の近い子どもたちと貝殻を探した。令佳が気に入ったのはシーグラスだった。波に削られて丸くなった硝子は宝石のようで、見つけるとすごく得をしたような気分になった。

 夜には、星を見ながらバーベキューをした。珍しく母が手をつないでくれていた。それがうれしくて、令佳はずっと母にしがみついていた。焼いたマシュマロを母が手ずから食べさせてくれた。向けられる笑顔が優しくて、明日からもずっとそうだと思っていたのだ。

 でも、キャンプを終えて家に帰ってみたら、いつも通りの厳格な両親に戻ってしまった。


 そして、最後の設問は「宝石または花」というものだった。令佳は、自分の誕生石であるガーネットと、好きな花であるパンジーを選んだ。



「おつかれさまー!」

 書き終えた紙を渡すと、野々花はにこにこしながらそれをマスターに手渡した。

「あとはマスターの作業になるから、出来上がるまで少し待っててね。それと、ごめんね、最初に聞かなかったんだけど時間はだいじょうぶ? 30分くらいかかると思うの」


 令佳はうなずく。帰るのが怖い。少しでも遅いほうがいいと思っていた。――ややあって、令佳は大事なことを忘れていたことに気がついた。それは、学校を飛び出すきっかけとなった出来事だ。

 明日からも、あの調子なのだろうか。考え出すと胃がきりきりとする。



 きっかけだと推測しているのは、テストのあとの、チハルへの失言だった。

 チハルは高校になってからできた友人だった。いや、友人というのには少し抵抗がある。

 中学時代から仲のよかった令佳、理月、葉菜の三人組に遅れて加わったのが彼女だ。
 理月は大人しくて冷静。葉菜はおっとりとして物腰が柔らかい。性質が似ているからかすぐに打ち解けた。


 対してチハルは違った。どこか苛烈なところのある彼女が、令佳はもともと苦手だった。
 チハルが令佳への対抗心を隠さなかったのも理由の一つだ。

 彼女の内面が浮き彫りになるのが、テストのときだった。答案が返されると、チハルはそれを持って必ず令佳の元へとやってくる。そうして、成果を聞くのだ。



 子どものころから、とにかく何でも完ぺきにやるように言われてきた。勉強もその一つだ。

 中高一貫校に通い、ずっとトップを守り続けてきた。そのためにひたすら机にかじりついていた。


「令佳は帝国大学に進むべきだ」

 国で一番の大学を指定するのは、そこのOBである父だ。

「いいわね。それからアナウンサーを目指しなさい」

 そう続けるのは、自分がそうなりたいと願っていた母だ。

 令佳には、自分の進路を自分で決めることも許されなかった。簡単に言うけれど、どちらもおいそれと進める道ではなかった。


 かといって勉強だけに打ち込めばいいわけではなく、家の雑務もたくさん割り振られていたし、学校でも先生などに頼まれごとをされやすいたちだった。

 その日行われたテストは、令佳にとって散々な結果だった。
 勉強時間が足りなかった。もっと努力しなければいけなかったのだ。


 ただ、物理的に時間がなかった。風邪で寝込んだ母の代わりに、掃除や片づけ、ご飯したくに洗濯と、家事のすべてが令佳の担当になったのだった。

 普段と比べて勉強する時間が取れなかった。
 一日にたったの二時間ほどだ。それも、ぐったりとして途中で眠ってしまうことが多かった。

 早めに登校して朝に勉強時間をつくったり、授業中に先生が雑談をはじめたタイミングでこっそりとその科目の復習をしたりと、できる範囲では頑張ってみた。
 でも、点数もいつもと比べると著しく良くなかったし、ケアレスミスも連発してしまった。



 そうした自分の感覚を、つい馬鹿正直に述べてしまったのが失敗だった。「今回は点数がよくなかった」と。「ぜんぜん勉強していなかった」と。

「ぜんぜん勉強してないのに90点も取れてすごいね、――なんて言ってほしいの?」

 チハルは顔を歪めて笑いながらそう言った。そんなつもりはなかった。――でも、失言だった。



 マスターが戻ってきたとき、あんなにも激しく降っていた雨はいつの間にか止んでいた。

 外はすっかり暗くなっていて、森の輪郭がぼんやりと見えるだけだ。一体どうやって帰ろうかと苦笑しつつ、いっそのこと、このままどこかへ逃げてしまおうかと、昏い考えがよぎった。



「重ね重ね待たせてしまって申し訳ない。できたよ。これが、君のためにつくった神さまだ」

 そう言ってマスターが差し出したのは、一枚の絵だった。まるで古いお伽噺の挿絵のような美しい絵にはっと息を飲む。


 囚われの人魚。
 ――その絵を見たとき、最初に感じたことは、不思議なことに、希望だった。


 壜がある。そして、その中には小さな海の世界が広がっている。中央にはごつごつした岩の台座があり、人魚が星を仰ぐように腰かけている。

 パンジーの花のような柔らかい薄紫色の胸当てをしていて、尾びれは同色からミントグリーンへと不思議なグラデーションを描いている。
 額に垂れるようにかかっているティアラは星をモチーフにした繊細な作りで、その華奢な身体によく似合っていた。


 彼女は壜の中に囚われているのだとひと目でわかった。

 それでいて、悲痛な様子は見えない。腰まである巻き毛の髪はやわらかい花の色をしているのに、硝子のような質感の赤い瞳は凛としていて曇りがない。なにかと戦っているような、決意しているような、そんなまっすぐな目だ。



「彼女の名前はメル。フランス語で海のことをメールというそうだ。それをもう少し愛称っぽくしてみた。――どうだろうか?」

 令佳は言葉を失っていた。絵に魅入られていたのだ。不思議な感動が身のうちにあった。


 ややあって「ありがとうございます」と、それだけ絞り出した。

 マスターは少し不安そうにしていたが、野々花には伝わっているのか優しげな眼差しを令佳に向けているのがわかり、令佳もまたくしゃりと顔を歪めるようにして笑った。



「よし、それじゃあ晩ごはんにしましょう」

 野々花が手を叩くと、マスターがカウンターの中に戻る。

「今日はナポリタンです。喫茶店っぽいでしょう?」
「あの、私……」
「よし、先にお会計済ませちゃおう。夕飯はまかないだから要らないよ。神様作りワークショップ500円……」
「――私、帰ります!」



令佳は、千円札を一枚出して言った。

「え! ごはんは?」

 野々花が弾かれたように顔を上げる。その表情は心底残念だと言ってくれているようで、申し訳なさと、嬉しさが芽生えた。けれども、令佳は首を振った。



「もう暗いですし、家はここから遠いんです。自転車で数時間はかかると思います。それにこれ以上ごちそうになるわけには……」

「――あのね、レイちゃん。私たちもね、誰にでもこうするわけじゃないんだよ。あなたはすごく傷ついてるよね? このまま一人にしたら危うい感じがするよ」

 野々花は、これまでのふわふわとした雰囲気からは信じられないくらい、強い視線で令佳を見据えていた。



「ごはんのお金は気にしなくてもいいし、おうちまで私たちが車で送ってあげる。絶対に悪いようにはしないから。初対面だけど、知らない相手だからこそできることもあると思うんだ。――だからね、少しだけ待っててくれる? 温かいものでお腹を満たして、お話しして、それからゆっくり帰ろう?」

 それから彼女はふわりと令佳を抱きしめた。そうして背中をさすってくれた。
 知らない人に抱きしめられているというのに、いつの間にか、瞳がうるうると熱くなって、後からあとから涙が溢れた。



 ひとしきり泣いたあと、野々花は「私もマスターを手伝ってくるね」と言ってカウンターの中へ入っていった。

「あ、レイちゃん、スマホを見ないようにしてたでしょう? 帰りは遅くなると思うから、ご両親にメールだけでも送っておくのよ」

 野々花の言葉に、渋々頷いた。ほたるは何も言わず、こちらに背を向けて、作業を続けている。



 令佳は、マスターが描いてくれた絵を手に取った。囚われの人魚・メル。――わたしだけの神さま。

 彼女はどんなふうに話すだろう? きっと、凛とした気高い性格だ。お嬢様のような喋り方だろうか。声は高すぎず低すぎない、硬質で、でも、きっと耳障りの良い声だと思った。



(メル様、――ううん、ちがうな。メル。)

 令佳は、心の中で云った。

(家に帰るのが怖いです。両親にどう言われるのかを考えると不安で、胸がぎゅっと締め付けられるみたい。あと、学校にも行きたくない。無視されるのは悲しい。人が不快に思うような発言をしてしまった自分が、恥ずかしい)


 紙の中のメルは微動だにしない。もちろん、声なんてない。そんな魔法みたいなことは起きなかった。

 でも、彼女に語りかけてみて初めて、令佳は、自分の中にさまざまな感情があったことを知った。
 怖くて、不安で、悲しくて、恥ずかしかったのだと。



 不思議なもので、自分の抱えていた感情の輪郭が見えてきたら、どう動けばいいのか、そのヒントがわかってきた。

 不安だけれど、両親にぶつかってみるチャンスかもしれない。
 これまで辛かった。心の内を伝えて、それでもどうしても無理だったら、両親から離れる方法を探してみよう。留学だとか、今は無理でも、遠くの街へ進学するとか。


 学校のことも考えた。不快な言動だったことは謝ろう。
 でも、友だちだから、できれば事情は知ってもらいたい。わかってもらえないかもしれない。でも、まずは伝えてみるべきだ。

 ここまで思い至ったときには、ずいぶんと心が凪いでいた。



「レイちゃん、こっちにおいで!」

 そのとき、野々花に呼ばれた。
 ほたるの隣に腰かけると、目の前に湯気を立てる鉄板が置かれた。

 一番下にオムレツがあるのが新鮮だった。
 その上に、ケチャップがたっぷりかかってつやつやとしたナポリタンが乗っている。具はウインナーと、玉ねぎと、ピーマンだ。

 甘酸っぱいにおいに食欲を刺激されて、お腹が盛大に鳴った。


 隣から笑い声がして見てみると、ほたるが年相応の顔をして笑っていた。
 4人で他愛もない話をして食卓を囲んだ。そして、家まで車で送ってもらった。

 令佳はほたるの隣で小さくなっていた。

 決意はしたものの、やはり不安な気持ちがむくむくとよみがえってきて、息苦しさを覚えていた。
 すると、ほたるが令佳の膝に何かを乗せた。



「やるよ」

 それは、金色のビーズで作られた、小さなティアラだった。マスターの描いてくれた絵で、メルがつけていたのと同じデザインだ。

「お守り」
「――いつの間に?」
「どうでもいいだろ。俺は手先が器用なんだ。次に来たとき、気が向いたらもっとすごいのを作ってやってもいいよ」



 ぷいっと横を向いて言うほたるが可愛くて、令佳は思わずほほえんでしまった。

「小さいのに偉いね、ありがとう」

 令佳がそう言うとほたるはかっと目を見開いて「4月になったら俺は中学生だ!」と怒鳴った。



「おチビなのを気にしてるのよねぇ」
「男子は中学から伸びることもあるから大丈夫だ」

 ふたりのフォローは、かえってほたるを不機嫌にした。



 あんなにも長い距離だったのに、車だと半分以下の時間で着いてしまった。令佳はくっと浅く息を吸って、車から降りた。

 ほたるは先ほどまでぷりぷりと怒っていたものの、今は気遣わしげにこちらを見ている。そんな彼にひらひらと手を振って、インターホンを鳴らした。鍵を持っていなかったからだ。



 家の庭には珍しく灯りがともっていて、第三者がいるときの顔を貼りつけた両親が大仰に心配して出迎え、野々花やマスターに何度もお礼を言っていた。

 でも、視線の端では令佳を冷たく捉えていることにも気づいてしまい、向き合おうという決意が少しゆらぎそうになった。


「そういえば、八木沢さんは、会社を経営されているとか。お名前を聞いて、もしかして取引先ではないかと思ったのですが――」

 ふとマスターが切り出す。
 父の会社は喫茶店と関係しているだろうか? と思っていると、父もまた怪訝な顔をしている。

「あ、失礼しました。私は黄金崎泉と申します」
「――まさか、黄金崎グループの……?」


 父はみるみる顔を青ざめさせていった。

 令佳でさえ、その名前は聞いたことがある。マスターの家は、県下有数の名家だったのだ。この家に睨まれたらこの土地ではやっていけないというくらいには。

 そういえば、この店は趣味でやっているのだと、ほたるが言っていなかったか。



「ご息女が妻に大変よくしてくれましてね。もしよかったら、これからも定期的に遊びに来てほしいのです。妻も喜びますし。妻はこちらの出身ではないから、年若い友人ができて喜んでいるのですよ」

 自分よりもずっと年若いマスターに、父は媚びへつらっている。
 母もまた愛想笑いを浮かべている。――その背中を見て、この人たちは、こんなに小さかっただろうか、とふと思った。



 呆然としている令佳に、野々花が片目をつむってみせる。

 そうして気がついた。この人たちは、令佳が「壜」の中から出られる時間を増やそうとしてくれているのだ、と。

 初対面の令佳にこんなに心を砕いてくれた人は初めてで、春の夜気が刺すように冷たいのに、胸のうちには温かさが広がっていくのを感じた。







 ――あれから十年が経ち、令佳は26歳になった。

 悲しいことも、憤ることも、もちろんたくさんあった。そのたびに令佳を救ってくれたのは、自分のためだけにある小さな信仰だった。




「何をぼうっとしてるんだ」
「ほたるくん」

 令佳は、隣に立つ青年を見上げた。
 4つ年下の男の子は、今ではぐんと背が伸びて、精悍な青年になっていた。



「綺麗だね」

 二人は、令佳があのとき思い浮かべた海に来ていた。砂浜に腰を下ろして、水平線に溶けていく夕日に目をやる。
 空の色は、メルの髪の毛のような美しい色をしていた。



「――やるよ」

 ほたるは、やや上ずった声で言うと、令佳の膝になにかを乗せた。それは美しい硝子の小箱だった。

 開けてみると中に指輪が入っている。
 メルのティアラを模した、星飾りのついた繊細な指輪が。


「け」
「――け?」
「結婚してやってもいいよ」

 あの頃と変わらず素直じゃないところのあるほたるが可愛くて、令佳は、思わず彼にしがみついた。



 もう神頼みはしない。

 でも、自分の中にあるちょっとしたわだかまりを、メルという名の、動かずしゃべらない神さまにこっそり伝えてみる。
 そして、この愛おしい人のとなりで、生きていく。





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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡

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