うつりぎなこころは、今日もサンリオに揺れる
好きって、案外いいかげんだ。
どうして好きだったのかなんて、あとから聞かれても、うまく答えられないことが多い。
でも、たしかにそのとき私は夢中で、気づけば身の回りがその子の色に染まっていた。
小学生のころ、私はケロケロケロッピが大好きだった。
なぜあんなに好きだったのか、今ではもう、ちゃんと思い出せない。
緑色が好きだったのかもしれないし、あのまるい目がかわいかったのかもしれない。
名前の響きが楽しかったのかもしれないし、ただ“みんなが好きなもの”とは少し違う感じに惹かれていたのかもしれない。
理由はもうぼんやりしているのに、記憶だけはくっきり残っている。
文房具の箱セットを買ってもらって、うれしくて何度もふたを開けたこと。
筆箱も、鉛筆も、消しゴムも、下敷きも、なにからなにまでケロッピだったこと。
学校へ持っていくたびに、私は少しだけ誇らしかった。
あのころの「好き」は、生活用品をぜんぶ同じキャラクターでそろえたくなるくらい、まっすぐだったのだと思う。
でも、ひとの心はうつりぎだ。
そう、今年30周年のあの子があらわれるまでは。
ポムポムプリン。
なんて可愛いフォルムなんだろう、と思った。
あの、こんがり色のベレー帽。
まるくて、やわらかそうで、急がず、競わず、そこにいる感じ。
見ているだけで、こっちの力まで少し抜ける。
しかも私は、食べるプリンも好きである。
その名前を口にするだけで、もう勝てない。
キャラクターとして好きなのか、スイーツとして好きなのか、自分でもよくわからないまま、気づけば心はすっかりプリン側へ傾いていた。
歳がばれる、と思わなくもない。
けれど、こういう“好きの履歴”には、その人の時代が出る。
だからちょっと恥ずかしくて、でも、ちょっと愛おしい。
振り返ると、私はずっとそんなふうに生きてきた気がする。
その時々で、好きなものが変わる。
心をつかまれるものも、目が留まる色も、かわいいと思う形も、少しずつ移り変わっていく。
昔あんなに夢中だったものを、いまは理由ごと置いてきてしまっていることもある。
でも、それって薄情なんじゃなくて、ちゃんと生きているってことなのかもしれない。
あの頃の私は、ケロッピに似合う年頃の私だった。
それから少し大きくなって、ポムポムプリンのまるさやのんびり感に救われる私になった。
ただそれだけのことなのだ。
そして今、わが家では、娘がサンリオの世界に片足をつっこんでいる。
クロミちゃんが好きなのだと、私は思っていた。
ちょっぴり小悪魔っぽくて、でも可愛くて、たしかに3歳児の「好き」っぽい。
そうかそうか、クロミちゃんなんだねえ、と思っていた。
ところが先日、「いちばん好きなのはだれ?」と聞いたら、娘は言った。
「ポムポムプリン」
あれ、クロミちゃんじゃなかったっけ、と思って聞き返したら、
娘はさらりと言った。
「あーちゃんがクロミちゃんすきだから」
空気を読んでいる。
相手に合わせている。
3歳にして、すでに処世術がある。
すごいな、と思った。
いや、末恐ろしいな、のほうが正しいかもしれない。
好きって、もっと本能のものだと思っていた。
理屈じゃなくて、反射みたいなものだと思っていた。
でも案外、好きと言うことにだって、関係性は混ざる。
誰といるか、どんな空気の中にいるかで、口から出てくる答えが変わることもある。
それは子どもも同じなのだ。
いや、むしろ子どものほうが、場の空気に敏いのかもしれない。
うつりぎなのは、私だけじゃなかった。
ケロッピからポムポムプリンへ。
そしてクロミちゃんから、ひとまずポムポムプリンへ。
親子そろって、心は案外、するすると揺れる。
でも、その揺れ方にこそ、その時期のその人らしさが出るのだと思う。
ずっと同じものを好きでいられることも素敵だけれど、移り変わっていくことにもまた、ちゃんと物語がある。
だから私は、昔の推しを忘れてしまった自分を、少しも責めない。
ケロッピを好きだった私も本物で、
いまポムポムプリンに心がほどける私も本物だ。
好きは、変わってしまうことがある。
でも、好きだった記憶は、ちゃんとその人の中に残る。
そう思うと、子どものころの文房具箱のふたを何度も開けていた私も、
いま娘の返事に「処世術すごいな」と笑っている私も、
ぜんぶ地続きの、同じ私なのだろう。
うつりぎなこころ。
でもそれは、気まぐれというより、ちゃんと今日を生きている証拠なのかもしれない。
喜木 拝
いろはさんの企画に参加します。
「なぜ好きだったのか」はうまく言えないのに、好きだった記憶だけは妙に鮮明です。
#サンリオへの愛を語る
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