【短編小説】羊が一匹、夜が明ける。
いつからか、眠り方を忘れてしまった。
布団に入り、目を瞑っても、世界が閉じない。
寝返りをうつ。
アロマオイルを焚く。
お酒を飲む。
焦るほどに頭が冴え、目を瞑っていることが
苦痛になる。
眠りの精は、わたしを見放したみたいだ。
だから、この夜を抜け出し、
静寂をひとり散歩する。
◆
フード付きのパーカーを羽織って、
ひんやりとした空気の中へ足を踏み入れた。
忙しなく通る車や、行き交う人々。
自転車のベルの音が気忙しい昼間。
そんな昼間の喧騒から遮断された街は、
ひっそりと別世界を作っている。
コンビニの明かりだけが、
ぼうっと道標のように光っていた。
夜露をお供に、わたしは歩く。
「羊が一匹、羊が二匹〜♫」
歌うように口ずさみながら歩く夜道は、
ふわふわした夢の中みたいだ。
◆
公園に着いて、
コンビニで買った缶チューハイをプシュリ。
プルトップの内側から弾けるレモンチューハイが
わたしの顔に飛び込んでくる。
「仲間ですね」
顔を向けると、一人の男性が立っていた。
コンビニの袋から缶ビールを取り出して、
わたしに向けて見せた。
「隣、いいですか?」
「あ、どーぞ」
ベンチの少し右にお尻をずらして、左側を空けた。
彼は左隣に座って、ビールを空けた。
「眠れないんですよね〜」
そんなに困っていなさそうな声で言う。
「あ、お仲間ですね〜」
わたしも、同じトーンで返す。
小さな虫の声が、
静かなメロディーを奏でている。
「家に着くと、
玄関の上にリングピローが置いてあるんです」
と、彼は言った。
「ふたつあったはずの場所が、
ひとつだけ凹んで、だんだん埃を被っていく」
彼は缶ビールをひと口飲んで、遠い目をした。
「それを見ていたら、
なんだか眠れなくなってきてしまったんです」
わたしは、ただ頷いた。
夜の静寂に、ふたつの缶が乾いた音を立てる。
まるで夜の共犯者みたいだ。
◆
「こんばんは〜」
「やぁ、今日も」
今日もこの公園で。
あれからたまに会う。
名前も知らない。年齢も、素性も。
ただ、ベンチに座ってお酒を飲むだけ。
「最近、全く眠れなくなってしまって」
缶ビールの本数は、日に日に増えていく。
わたしはチータラをつまみながら、頷いた。
「羊を数えるって言いますよね?
数えながら、わたし、そんなおまじない効くもんかって思うんです。
くだらない、くだらないって思いながら、
ひたすら数える。
そのうちに、
いつの間にか外が白み始めているんです」
彼は穏やかに微笑んで耳を傾けていた。
目の下のクマが、最初より濃い。
「でもね。そんな風にくだらなくても、
夜が明けたことにホッとしたりするんです」
◆
ポツ、ポツと顔に水滴が当たった。
「あ、雨……。降ってきました」
ざぁっと雨足が強くなる。
走って軒下へ移動した。
酸性雨とか、最近ニュースにならないけれど、
地球が良くなってる訳ないし、
どこかで何かが傷ついているんだろう。
夕立のように強い雨は、やがて止み、
同時に空が白み始めていた。
「じゃあ、帰りましょうか」
そう言って帰ろうとする彼の背中を、
ふと、引き止めた。
「羊、数えてください。
何かあっても、くだらないって思えますから。
そんなくだらなさが、ちょっと暖かかったりしますから」
言いながら、なんでこんなに必死なんだろう、
と思った。
でも今伝えないと、きっとわたしは後悔する。
それは、流れ星のようなスピードで、
わたしを突き動かしたのだった。
とにかく今目の前で震えている人に、
何か届けばいいと思った。
彼は静かに微笑んだ。
雨粒に、流されてしまいそうな笑顔だった。
◆
あれから彼は現れなかった。
入れ替わるように、わたしは少しずつ
眠れるようになってきた。
わたしもこの静寂から、卒業が近い。
夢を見た。
羊が一匹ずつ現れて、
だんだんと上へ積み上がっていく。
わたしはそれを数えている。
やがて積み上がった羊がほどけて、
一枚のセーターになった。
「わ!ふっかふか!」
思わずそう言うと、
『確かに、くだらない』
どこからか、微笑むような声が聞こえた。
羊毛のセーターが、いつかどこかで
彼を包んでいればいいと思う。
東の空に残る明けの明星を、
わたしは祈るように見つめた。
羊が一匹、夜の静寂に溶けるように跳ねた。
了

■セリフ
「わ!ふっかふか!」
■三題
・酸性
・夕立
・リングピロー
