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本に愛される人になりたい(107) 伊藤直「戦後フランス思想」と岡本裕一郎「フランス現代思想史」

 高校二年生ごろに哲学書にハマったのですが、当時はやたらと読み散らかしていて、理解できているのかいないのか、かなり適当に哲学書を散読していました。哲学入門的な本を頼りにしつつも、今から思うに翻訳が酷くてまともな日本語になっていないものが多かったような気がします。何故ハマったのか?自分の「自我」とは何だろう的なあやふやな疑問があったのが大きな理由だと思いますが、生真面目な小説家が描くような緻密で精緻な言葉など持ち合わせているわけがなく、とても漠然としたものでした。今でも思うに、生きている人間が緻密で精緻な言葉を重ねて生きているわけがありませんけれど、「精緻な心理描写!」として小説や映画などで褒め称える大きな流れがあり、個人的には「ホンマか?」と首を傾げています。
 話がズレましたが、なんだかんだと哲学書の散読大会を引きずり大学に入学してから出会ったのがフランスの哲学でした。ちょうどポスト構造主義が流行っていたのもあり、月刊誌の「現代思想」や「ユリイカ」や「思想」などを読み荒らしつつ、戦前・戦後からのサルトル、ボーヴォワール、メルロ=ポンティ、バタイユなどの哲学を紹介する論文や書籍を読み始めました。半世紀近く経っての遅ればせながらの読書ですね。
 この戦後からのフランス哲学の流れを追いつつも、その原点の一つだった現象学者フッサールや言語学者ソシュールについての論文や書籍も読み始めているうちに、知らず知らずのうちに私の知の世界観はかなり広がっていました。簡単に言えば「人間とは◯◯だ」ということを、様々な哲学者がとらえようとする物差しがいくつもあり、その一つ一つの物差しを信じてみて彼/彼女なりの「人間とは◯◯だ」というのに触れているうちに、私の知の世界観が広がっていたわけですね。
 やがて、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロース、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガダリやジャック・デリダへと、まるでフランス哲学史を後追いするように哲学書の読書は進んで行きました。
 誰がどの本で何を語ったかを精緻に記憶などしておらず、私の足らない知へ漠然としたインパクトを与えてくれたフレーズとかを感覚的に記憶しているだけですが、おそらく私の知の世界観の土壌となり肥やしになったのだろうなぁと思います。
 このフランスの哲学史が一本の幹となり、古くはアリストテレスへとさらに遡ったり、言語学から美学や芸術学へと広がったり、ドイツ哲学からアメリカの社会心理学やメディア論へと広がったり、さらに仏教哲学や民俗学などに広がったり、数珠繋ぎ読書のお陰で私の知の世界観という大木は枝葉が広がり、今でも広がっているような気がしています。
 長々となりましたが、上述したような私の個人的な知の世界観の太い幹となったのが戦前・戦後から続くフランスの哲学史で、たまに過去学んだことをトレースしたくなることがあり、タイトルに挙げた伊藤直「戦後フランス思想」と岡本裕一朗「フランス現代思想史」を読んでは、「そうだったよなぁ」とか「あ、忘れてた」などと楽しんでいます。
 さて、最後になりますが、哲学とか思想というと頭がガチガチの生真面目な学問だと捉えがちですが、思想を英語で捉えればThought。つまり考えることでしかないとある日気づくや肩肘硬らすことを忘れてしまいました。
 しかし、フランスだけでなく欧米の哲学書を読むに、彼ら/彼女らの多くがキリスト教の「神」と「私」の関係性が考え方のベースに根強くあって、ある種のクリスチャニティ・コンプレックスに陥っているよなぁと思うことしばしば。意外と、日本の禅宗や浄土宗などの仏教的な考え方の方が先進的ではないかとも思ったりもします。中嶋雷太

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