無為にムズムズする身体
医療に身を置いていると、
物事を「治るか」「改善するか」という視点で捉える癖が、
どうしても先に立つ。
それは職業として自然で、必要な態度でもある。
治療とは基本的に、
ポジティブな変化を起こすことが期待される営みだからだ。
けれど、
そのレンズを人生そのものにまで当ててしまうと、
生きることはたちまち「評価対象」になる。
意味があったか。
価値を生んだか。
前に進んだか。
何も起きていない時間は、すぐに「無為」と名づけられる。
「意味や価値を感じられなくても、ただ、あればよい」
頭ではそんなふうに考えたとしても、
際にじっとしていると、身体がむずむずしてくる。
落ち着かない。何かをしていないと、不安になる。
これは怠けではない。
価値や成果で自分を測る世界に、
長く適応してきた人間の身体反応なのだと思う。
医療は、治る、良くなる、変化が起きる、
という価値の体系の上に成り立っている。
その中に長く身を置いていると、
何も起きていない時間に、身体のほうが先に耐えられなくなる。
だが人生には、
治らない時間、変わらない日々、
何も起きないが、確かに続いている時間がある。
そうした時間を、
失敗や停滞としてしか捉えられなくなったとき、
生はとても息苦しくなる。
わたしは、
人智を超えた意味というものも、
実はあるのではないかと思うことがある。
それは説明できる意味ではない。
理解した瞬間に回収されてしまうようなものでもない。
むしろ、こちらが意味づけることを拒み続ける何か。
分からないまま、回収されずに残る余白のようなものだ。
意味を感じられない時間も、
価値を実感できない日々も、
あとから振り返って説明しきれない厚みとして、
静かに残っている。
生きるとは、何かを成し遂げること以前に、
「消されずに、あり続けること」
という側面もあるのではないか。
無為であることに、身体がむずむずする。
それは、価値の世界に慣れすぎた人間が、
別の生き方に触れたときの、ごく自然な反応なのだと思う。
だから、意味や価値を感じられない時間が、
即座に否定される必要もないのではないかと感じている。
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