見出し画像

第14章「面舵十度、転進せよ」(その2)

その頃、1番ホールドでは現業の三名が駆けつけ、水に入った有田を救助していた。

水深2メートルほどに達した漏水は、二重底バラストタンクの水であり、トリム調整のためにポンプを作動させた結果、ホールド内に溢れ出していた。

だが、マンホールを開けたまま排水ポンプを回しても即効性はない。
それを察知した有田が、身を呈して流入を防いだのだった。

その結果、水位は急速に下がっていった。

そこへ応援メンバーが駆けつけ、有田を救い出すと同時に、マンホールを完全に締めた。

1番ホールドの漏水は止まった。Free waterは荒天の洋上において船の安定を奪い、重心を狂わせ、最悪の場合は転覆すら招く。

助け出された有田は、息も絶え絶えだった。
あとを託された村田は、ブリッジの緒形へ電話を入れる。

「部長、有田さんが重篤です。このままでは……一刻も早く病院へ運ばないと――」

船は回航中である。
1番ホールドの水は捌け、転舵とともに船首は確実に追随する。
だが、下村の操船は困難を極めていた。

「分かった……。とにかくこの嵐から離脱してからだ。面舵……五度、転舵――」

緒形には、そう言うしかなかった。

緒形は下村とともにジャイロとレーダーを注視し、同時に風向・風速、船体傾斜を確認する。自らも激しい横揺れに耐えながら、指示を飛ばし続けていた。

「舵は当てるだけでいい、戻し遅れるな」
「速度落とせ、波に乗せろ」
「真後ろは取るな、少し角度をつけろ」

緒形は繰り返し指示を出しながら、全神経を船の挙動に集中していた。不安定な船体が強い追波を受ければ、ブローチング――横倒しに近い危険状態に陥る。それを避けるために、両者とも必死だった。

「もう台風は陸にかかった、あと少しだ――」
「Aye aye, sir――」

言葉を交わさずとも、二人は同じものを見ていた。緒形は下村に全幅の信頼を置き、下村はその手足として修羅場を潜っていた。

一方、有田は設計と現業の手によって居住区へ運び込まれていた。だが船内に医務室はあっても医者はいない。しかも最寄りの港へ入ることも不可能であることを、誰もが理解していた。

それは弘明も同じだった。
だが蒼白な有田の顔を前にすると、何とかしたい――
その思いだけが先に立つ。

志垣とともにタオルと毛布をかき集め、必死に処置を施した。

「有田さん、この服……脱ぎましょう」

シャツを脱がせ、タオルで体を拭く。
下半身を毛布で包み、その上から強く摩擦を与えて体温を戻そうとする。

祈るような思いで体をさすり続けた。

そのとき、
「フ――」
と、有田が微かに吐息をついた。

「有田さん、しっかりして下さい――」
その声に反応し、有田は薄く目を開けた。

「水は……止まったか……」
「はい、止まりました」

有田はわずかに頷いた。
それで十分だと言うように――。

そのまま視線はどこにも結ばれず、ゆっくりと力が抜けていった。

「有田さん、有田さん――」

悲痛な声が響く中、有田はもう一度息を吐き、やがて静かになった。
濡れた体は冷たく、いくら拭いても温もりは戻らない。
それでも誰も手を止めなかった。

操舵室の緒形にも、その嘆きは届いていた。
だが、何もできない。

下村は血走った目で舵を握っている。
伊勢湾を出てからどれほどの時間が経ったのか――。
尽きることのない風雨の中で船は翻弄され、乗員は疲弊しきっていた。

Ocean Lionは紀伊半島先端、串本沖から西進し、四国沖で反転。
小刻みに舵を当てながら北東へ針路を取り続けていた。

その先に紀伊水道がある。

だが波は高く、時に一五〇メートルの船体が谷底へ落ち込む。
そこから波を斜めに切り、プロペラの空転を避けながら前進する。

機関室は主機を騙し宥め、
ブリッジは荒れ狂う海と対峙する。

互いに先の見えぬ恐怖を押し殺しながら、
ただ一心に船を操っていた。

(つづく)
 
・・・・・
 
[note|著者ページ]
https://note.com/right_canna2847
 
[AMCO知見Lab|公式サイト]
https://qs07n.hp.peraichi.com/
 
・・・・・
 

いいなと思ったら応援しよう!