第9章(その3)「蘇る力の源泉」
3日の間、下田のホテルに籠っていた徳田が近鉄富田駅のホームに降り立った。
小雪含みの鈴鹿颪が吹き抜ける。その中を徳田はコートの襟を立て、改札を抜けるとタクシーへ乗り込んだ。車は会社とは逆の町外れへ。窓に映る黒土の田と稲積みが続く冬景色を、徳田は黙って見ていた。
下田では酒と女で時間を潰し、先の読めぬ不安を押し流すしかなかった。だがそれも束の間、酔いが覚めれば現実に戻される。
その思いを引きずったまま、団地の入口で車を降りると、周囲を伺い、足早に家へ。
「おかえりなさい」
久しぶりに聞く妻の声、いつもと変わらぬ音色が届く。だが顔を合わせても何も聞かない。徳田も説明しようとしなかった。
「大二郎から連絡は?」
「今朝⋯⋯早くに、お父さんはいるかと」
それだけか、と徳田は舌打ちした。そのまま電話を床へ下ろすと、ダイヤルを回す。
すぐに出た息子は、焦った声を上げる。
「清水の連中が、トラックで正門に――」
「なに、誰がそんなことをしろと――」
「いや、仕事がないと困るって――」
「馬鹿野郎、お前が止めんで――」
そこまで言って徳田は言葉を飲み込んだ。だが次の言葉が徳田の神経を逆撫でした。
「俺、臭い飯は食いたくないですからね」
その言葉が終わらぬ内に、徳田が遮る。
「誰のおかげで今の椅子に座っとる――」
そう怒鳴っても、徳田の胸に冷たい空洞が広がるだけ。自分が倒れれば、すべてが終わる――それだけははっきりしていた。
徳田は受話器を置いたあとも、しばらく動かなかった。
再建――口にすれば容易い。だが、それを実現するための絵図面は、まだ頭の中で靄っている。
かつては船を造れば金が生まれた。漁船を出せば利益がついてきた。それが破綻しようとしている。
これまで金を惜しまず、小野田を通じて政治や海外に流した。それで造船所は拡張し、三重遠洋も三重冷凍も大きくなった。
漁船を造り、それで鮪を取り、冷凍して国内外に売り捌く。それが軌道に乗った。
だがオイルショックで潮目が変わった。
それでも徳田は、賭けを降りる気はない。
――丁か半か、大博打を打ってやる――
その高揚感で、骨の髄まで震えていた。
「この家と土地は、お前の名義にしてある」
徳田は居間に戻り、妻に告げた。
「誰に何を聞かれても、お前は知らぬ存ぜぬで通せ」
「それで、あなたは⋯⋯」
「人のことは心配するな」と、言い切る。
――俺が守るべきものは次の一手で――
再建には時間が要る。その間に誰を味方に引き込み、誰を切るか――そこが勝負になる。副社長は切った。緒形は……使える。
あれほど計算の立つ男はいない。図面、現場、職人、その全てを知り尽くしている。
だがそれは船に限った話⋯⋯この賭けで勝てば、もはや必要な存在ではなくなる。
徳田はほんの一瞬、逡巡した。緒形ほどの男を失うのは惜しい。だが同時に、あの男は危うい。理屈よりも船を選び、利益よりも現場を守る。会社は鮪と同じで、道具としか思っていない徳田とは、根が違う。
それに政治の力学も変わりつつあった。
元首相の影響力はまだ健在だが、周囲は次の旗頭を探して動いている。頭がすげ変わっても、所詮同じ穴のムジナ。金さえ詰めば、必ず船に代わるものはある。
この窮地さえ抜ければ、土地と海は残る。そこに橋を渡せば――。
それには今一度、小野田の力が要る。その前に組合を潰さねば⋯⋯それには設計を矢面に立て⋯⋯と、徳田の頭が急速に回転しはじめていた。
徳田の力の源泉が蘇ってきた。それはなんのためでもない。金を生むためだけに、彼の思いは一つへと収斂していった。
(第10章へつづく)
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