【お笑い考察】豆鉄砲―正気とズレの境界線
漫才を見て笑っている自分を、ふと客観的に見ると、
いったい何に笑っているのか、わからなくなることがある。
笑いの仕組みは奥が深い。
笑いは「ズレ」だと言われる
よく、笑いとは「ズレ」だと言われる。
こちらが思い描いていた予想と、目の前で起きることが少しずれたとき、人は笑う。
たしかに、そういう説明にはかなり納得できる。
だが、そうだとすると、気になってくることがある。
ズレと、ズレではないもののあいだには、いったい何があるのか。
常識と非常識。
本当と嘘。
わかる話と、ついていけない話。
その線をどこで引くかで、笑いになるか、ただの違和感になるかが決まるのかもしれない。
そしてもし、そのズレが正気と狂気のあいだにあるのだとしたら、
それは本当に笑いとして成立するのだろうか、とも思う。
正気と狂気の境界をぼかす
豆鉄砲の漫才には、その境目があいまいになっていくような感覚がある。
正気と狂気のあいだを、行ったり来たりする。
しかも、その危うさを、熱量と勢いだけで押し切るのではなく、きちんと笑いとして着地させる。
そこに、このコンビの強さがあるように思う。
正統的なしゃべくり漫才の形は、たしかに残っている。
心地よいリズムがあり、役割も見える。
それなのに、見ている感覚はどこか普通ではない。
ちゃんと漫才の形をしているのに、気づくと、
いままで体験したことのない場所に連れて行かれている。
豆鉄砲の面白さは、たぶん正気と狂気の境界線のあいまいさにある。
ツッコミまで妄想世界に入る
本来、ツッコミという役割には、ひとつの安心感がある。
ボケが少し現実から外れたことを言っても、ツッコミがそれを訂正する。
その「必ず戻してくれる人」がいるから、観客は安心してずれを楽しめる。
ところが、豆鉄砲では、その安全装置が少し変わっている。
ツッコミが、相方の妄想や飛躍を止めるのではなく、半分いっしょにその世界へ入っていく。
振り回されているのに、その世界の内部ではちゃんとツッコミとしても機能している。
ここが面白いところだ。
訂正する人まで中に入ってしまったら、誰が現実との境目を守るのか。
外から見れば、もうその時点おかしい。
そこに笑いが生まれているのかもしれない。
ただ常識が壊れているのではなく、壊れかけた論理の中で、ぎりぎり会話が成立している。
なんなら説得力があり、感動もしてしまう。
その危うさが、豆鉄砲の漫才に独特の緊張感をつくっている気がする。
落語に近い妄想
ちょっと飛躍すると、豆鉄砲の笑いは落語に近いのかもしれない。
与太郎やご隠居の話に、周りが少しずつ巻き込まれていく。
最初は明らかに変な話だったはずなのに、聞いているうちに、
その世界の中ではそれなりに筋が通っているように思えてくる。
たとえば「千早振」のように、もっともらしい嘘が勢いで本当らしくなって、
ついつい引き込まれていく感じ。
あるいは「粗忽長屋」のように、強すぎる思い込みが、
そのまま世界の見え方を変えてしまう感じ。
豆鉄砲の漫才にも、ある種の倒錯がある。
現実のほうを基準にして「変だ」と笑うだけではなく、
話している本人の世界の見え方に、こちらが少しずつ引っぱられていく。
そこに、ただの奇抜さではない説得力がある。
「祖父が面白いと思うか」
ネタ作りについて、Wikipediaには「自身の祖父が面白いと思うかを基準にしている」という趣旨の記述がある。
事実としてどこまで厳密にそうなのかは別として、少なくとも印象としては、とてもよくわかる。
ぶっ飛んでいるのに、どこか懐かしい。
奇妙なのに、共感してしまう。
妄想のはずなのに、ちょっと信じたくなってしまう。
ズレても置き去りにしない技術
「笑い」が生まれるためには単にズレればいいのではない。
笑いが生まれるには、どこまでズレていっても、
観客を置き去りにしない技術が必要。
豆鉄砲の漫才には、
見るものを別の世界に連れて行ってくれる力量がある。
豆鉄砲の漫才を見ながら、自分の感覚って本当にズレていないのか、
ちょっと心配になった。
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