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「えらいね」と「ありがとう」のあいだ——言葉より先に、背中が語っていること

先日、子どもの学校選びでオープンスクールに参加したときのこと。

校内を案内してくれたのは在校生の生徒さんでした。その様子を見ていた校長先生が生徒にかけた言葉に、私は小さな違和感を覚えました。

「えらいね」

悪気はまったくないと思います。日本ではごく自然な労いの言葉です。でも私は心の中で思ったのです。

——そこは「ありがとう」「おつかれさま」じゃないかな、と。

「えらいね」は縦の言葉、「ありがとう」は横の言葉

アドラー心理学では、「ほめる」ことを上下関係からの評価だと捉えます。「えらいね」は、上の立場の人が下の人をジャッジする言葉。そこには「本来、子どもには大変なこと・特別なことをした」という前提がにじみます。

一方で「ありがとう」「助かったよ」は、一人の人として相手の貢献に感謝する、横の関係の言葉です。

案内してくれた生徒さんは、学校の役に立った。来校者である私たちの役に立った。だったら、評価ではなく感謝を伝えるほうが自然ではないでしょうか。

評価されるために動く子ではなく、自分の貢献を実感できる子が育つ。子育てでも教育でも、私はそちらを大事にしたいと思っています。

では「ありがとう」と言えば十分なのか

ここからは、会社での話です。

私の会社に、部下が仕事をするたびに「ありがとね」と声をかける女性の管理職がいます。遅くまで残っている部下には「遅くまでありがとね」と。

言葉だけ見れば、まさに横の関係の声かけです。アドラー的にも申し分ない。

でも、その管理職は——部下よりさらに遅くまで残っているのです。
 朝早く、夜は遅い。部下からすると、会社に住んでる状態。

これを見て私は、また別の違和感を覚えました。この光景は、部下にとって本当にいいものだろうか、と。

言葉よりも、行動が発しているメッセージのほうが強い

「遅くまでありがとね」と言いながら、自分はもっと遅くまで働く。

そのとき部下が受け取るのは、感謝の言葉ではなく、「管理職とは、この働き方の先にあるものだ」というメッセージです。

人は言葉より、上の立場の人の背中を見てキャリアを判断します。

これが社長やオーナーなら、まだ分かるのです。自分の事業で、リターンも裁量も自分のもの。
でも雇われの管理職が誰よりも遅くまで残っている姿は、「責任と労働時間だけが増えて、割に合わない役割」の証拠として映ってしまう。

昇進を望まない若手が増えている——いわゆる「管理職の罰ゲーム化」が言われて久しいですが、その一因は制度や待遇だけでなく、こういう日常の小さな姿の積み重ねにあるのだと思います。

労いの言葉と、健全に帰る背中をセットで

ふたつのエピソードをつなげると、こういうことになります。

「えらいね」より「ありがとう」。評価ではなく、感謝を。

ただし「ありがとう」と言うだけでは足りない。言葉と行動が一致していること。

本当に部下のためになるのは、労いの言葉に加えて、管理職自身が健全に働いて帰る姿を見せることです。見せられる環境が必要です。

仕事一辺倒で、朝から晩まで。早く帰る日もなく、休みもとらずに疲弊してたら部下も頼りにしにくいかもしれません。
「この役割は魅力的だ」と行動で示せて初めて、部下への感謝の言葉も生きてくるように思います。
部下にとっては、長く働くかいのある会社にうつるのではないかと思うのです。

子どもも、部下も、上の人の言葉をよく聞いています。でもそれ以上に、その背中をよく見ています。

「ありがとう」と言える人でありたい。そして、「ああなりたい」と思ってもらえる働き方をしていたい。

学校訪問と職場、ふたつの場面から、そんなことを考えました。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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