猫の背中
これは僕と御年77歳の施設長との何とも緩い時間の話である。
朝の全体朝礼が終わった後の事務所。
僕は施設長の席の隣にちょこんとする。
「施設長、例の車椅子修理完了の報告書です。決済印お願いします。」
「工藤くんなぁ、リクライニングのヘッドサポートって何で穴が開くんだろうなぁ。」
「多分、介助中に頭の後ろに手を突っ込み過ぎて…の消耗だと思うんですよねぇ。」
「消耗なぁ…。」
「奥さんとなぁ、大学病院に俺の母親のお見舞いに行った時の話なんだけどな。」
結婚相手を”奥さん”と呼ぶ家庭は円満になるという噂は本当なんだと思う。
僕の施設長夫妻は僕が聞く限り、実に仲が良い。
「母親の面会を終えて、入院費の会計をしてる時な、看護師さんの会話が耳に入ったんだよ。」
”磯村さん、娘さん連れて来られてたんですね。真由美さん、凄い喜ばれてて、見てて幸せな気持ちになりました。”
……娘さん……?
「俺の奥さんは大喜びだったよ。そりゃ子供になったんだから。問題は帰りでよ。雨の中、タクシーで帰る所、歩いて帰るって言い始めたんだよ。」
「わっ、どれくらい歩いて帰ったんですか?」
「ざっと3kmって所か?」
ビシャ雨か気になったが、まずは労いから…。
「雨の中、3km!?」
ここから枝がひろがる
「そうだよ。しかも家に帰るや否や、良い椅子捨てるって言い始めてさぁ。」
「奥様、思いっきりが良いですねぇ。」
「次の日から、俺はベンチでご飯食べる事になったんだよ。」
「タバコは捨てられ、お酒も処分。おまけに背もたれ付きのくつろげる椅子も…、みんな無くなっちまった。」
「それでどうなったんですか?」
「次の日から、近くの河川敷まで2人で散歩だよ。それこそ雨の日も雪の日も…。」
「デートじゃないですか!ちなみにそういう時はどんな話するんですか?」
「どうって事ない話だよ。夕飯どうするとか、休みの日どうするかとか。」
「でも、そういう話が一番良いんですよね。夫婦って感じがします。」
「俺の背中は丸いんだってさ。だから、ベンチの椅子で姿勢良くさせて、歩いてる時も”ほら、曲がってる”って言われてさぁ。あんな話されてる時に職員に会ったら威厳なくなっちゃうよな。」
施設長のニタニタは止まらない(笑)
「ちなみに、僕に会ってたとしてら100%弄られますね。」
「そうだなぁ。工藤くんには絶対に会わせられないなぁ。」
「職員に会ったら大変だから、奥さんのちょっと後ろを歩くんだよ。」
「そうすると、”離れない!”って叱られるんだよ。本当、あれじゃ犬と一緒だよなぁ。」
施設長の首に首輪が見えてしまった(笑)
…ちなみに何の犬種風で歩いていたんですか?…と聞きたいのをぐっと我慢して、、、
「体も真っ直ぐ!って言われたんじゃないですか?」
と聞いてみる僕。
「そうだったなぁ、奥さんが買った猫背予防の健康器具もいっぱいあるんだよ。」
「って事はお見舞いの時も施設長の体がすっごい丸まってたって事ですね。」
「…胸張らないとだなぁ。」
施設長は奥さんを2年前に亡くしている。
僕が施設に入職する1年前の話だ。
入職してから施設長の猫背を治そうと、ちょこちょこ背中の筋トレを促している。
…でも、何かが足りないんだ。
施設長の体も消耗してる。
そして、背中は悲しみの引力に負けていた。
事務員のお姉様達は口を揃えていう僕と施設長の軒先トーク。
その日の帰路は台風10号の影響で土砂降りだった。
雨に殴られながら駅へ向かう僕。
傘に当たる雨音は缶のプルタブを開け、コップに注いでいるサイダーの泡が弾ける音に聞こえた。
”あっ!施設長、サイダー好きだっけ。”
今度、美味しいどら焼きにサイダーでも貢ぐとしよ。
足元を気にする様に、僕も背中を丸める。
※ここで出てくる名前は全て仮名です。
