猫の背中 #4 ″秘伝のタレ″
「ちょっとステント入れてくるわ!」
僕の勤めている施設には御歳77歳の施設長がいる。
これは、蚊すら飛ぶのを諦める酷暑真っ只中の時の猫の背中をした施設長と私のホッコリしたお話。
時々胸の痛みを訴えていた猫の背中。
元々心臓が弱い中、スタッフのストレスを流す役割を全うしてきた施設長。
胸の違和感が出てきたのは奥様を失ってからだった。
「工藤くんよお、この前の採血で塩分引っかかっちゃったよ」
塩味とは程遠い目尻をした施設長。
「施設長、ちゃんと塩分制限してるんですか?」
「奥さんが書いてた料理ノートがあるんだよ。俺、元々心臓が悪かったろ?だから、奥さんもそこら辺は気をつけて料理してくれてたんだよな。だから、俺もその通りに作ってるんだけどなぁ。結局、時間かけられないだろ?どんなにそのノートを見て作っても味が足りないんだよ。」
どんなに仕事が忙しくても、奥さんの料理を家で食べていた施設長。
そんな猫の背中が自炊をする。
奥さんはそんな未来が予測できていたのだろう、、、。自分が先に空の国へ単身赴任をする事も。
「ところで施設長は奥さんの料理で何が一番好きだったんですか?」
ずっと聞いてみたかった。
料理の話をすると照れ臭そうに飲食店の話をして逃げる施設長に、奥さんの事を。
「そうだなあ…。って言われるとなあ、なかなか出てこないもんだなあ。」
やっぱりか…
「そんな事を言うとまた…」
「いやな、焼肉のタレかな?」
奥さんにまた怒られますよ?と言いかけた時、施設長から出てきたのは意外な料理だった。
「俺、何でもかんでもそれをかけて食べるくらい好きだったんだよ。でも、あいつさぁ…ノートに肝心なタレの事は書いてないんだよ。」
検食で出ていた煮物を突っつきながら、また丸くなった背中で施設長は続ける。
「たぶん、酒と醤油とみりんと砂糖、あとごま油とかにんにくとかが入ってると思うんだけど、それっぽくなっても何かが足りないんだよ。」
当たり前に食べていた物、当たり前に聞こえていた声に、見ていた笑顔や仕草。
…人の脳は時に残酷な処理をする時がある。
「一緒にこのタレを作った事もあるんだよ。あれは子供たちが帰ってくる日だったかな。奥さんが急に一緒に作ろうって言うもんだから、言われるがままに作ってみたんだよ。」
「その時はちゃんと奥さんの味になったんですか?」
「そりゃあな、隣からああじゃない、こうじゃないって言われてたから、ちゃんとあいつの味になったよ。…ん?そうだなあ、言われてみたら、あいつ途中で隣で煮てたスープをタレに入れてたっけ。」
スープとは、お酒が弱い施設長が飲み会の後でも食べられる様に煮込んでいたコンソメ風味のスープの事。そして、施設長の開けそうで開かなかった記憶の扉が少しずつ開いていく。
「そうそう、ほうれん草とか小松菜とかにんじんとか入っててさぁ。」
職員のストレスとかかけ離れたひと時。
完全に下がった目尻、頷くだけでも会話が成立する気がして、私は言葉を挟むのをいつの間にかやめていた。
「あとは鶏肉と、あっ玉ねぎと生姜も入ってたなぁ。」
毎日、毎日食べても平気な様に塩分や血圧に効果がある物を奥さんなりに調べて煮込んでいたスープ。
帰宅時間が遅い施設長に合わせて煮込んでいたのだから、食材からの優しい出汁が溶け出し、きっと加わっていたであろう深み。
そしてその深みを包み込む、最も大事な調味料である″愛″。
思い出の人は思い出す事で救われる。
「施設長、明日お休みですね!」
きっとチャレンジするであろう、奥さんが思い出として書き込んだ″焼き肉のタレ″。
「あっ醤油、入れすぎないように!…奥さんの為にも…」
