「考える」と「思う」のバランスから、自分の創作を見直す
これまで私は、なぜブログを書き続けていても途中で面倒になったり、ノートに直接書く方が心地よく感じたりするのか、その理由をうまく解釈できませんでした。
悩みや違和感に向き合うことはできます。
しかし「なぜそのような状態になるのか」という自分自身の仕組みまでは、はっきり理解できていませんでした。
今回、NOTEの記事を整理(表紙絵を作成して分類)していて、一つの特徴に気付きました。
それは、自分の中には大きく分けて「考える」と「思う」という二つの方向性があるということです。
「考える」にあたるものは、歌詞から読み解くアーティストの哲学、理学療法士の未来、ファトラジー、ZINEなどです。
これらは、目の前の出来事から構造や原理を見つけ出し、自分なりの考えとして整理していく活動です。
一方、「思う」にあたるものは、散歩道の記事です。
散歩をしながら感じたこと、昔の事、家族の変化、自分の変化、写真を撮った時の小さな発見、自分の身の回りのこと。
そこには明確な答えや結論はありません。ただ世界に触れ、その時感じたことを残しています。
そして、その中間にあるのが写真館や保土ヶ谷公園の記事です。
それは写真を通して感じたものを残しながら、そこから少しだけ意味を見つけていく。つまり「思う」と「考える」の橋渡しをしている場所です。
この分類をして気付いたことがあります。
最近のNOTEには、「考える」側の記事が大きな割合を占めています。おそらく感覚的には8割程度が「考える」、2割程度が「思う」に近い状態だと思います。
もちろん、現在この状態が問題になっているわけではありません。
考えるテーマはまだ多く、書きたいことも尽きていません。むしろ、自分の中で考えを整理し、形にしていく時期なのだと思います。しかし、一つの可能性として自分自身に注意しておきたいことがあります。
もし何らかの理由で「考える」記事への反応が少なくなった場合、自分の中で「なぜ自分の考えは受け入れられないのだろう」という悩みに変化する可能性があります。なぜなら、「考える」という活動は、どうしても他者からの評価と結びつきやすいからです。
一方で、「思う」という活動は、評価とは少し違う場所にあります。
それは単純に自分が感じたことだからです。
そして、散歩で見つけた風景や、何気なく感じた季節の変化は、誰かに評価されなくても、自分自身の経験として残りますし、批判の対象としては影響力は低いと思えます。
つまり「考える」ことは、世界を自分の中に取り込み、整理する作業です。そして「思う」ことは、自分が世界に触れ続けるための作業です。
おそらく、どちらか一方が大切なのではなく、両方が循環することで、自分らしい創作が続いていくのだと思います。
今回の発見は、「自分は考えすぎる人間なのではないか」という反省ではありません。むしろ、自分には「考える力」が強くあるからこそ、「思う時間」も意識して持つ必要がある、という自己理解でした。
考えることで世界を整理し
思うことで世界とつながる
この二つの動きを大切にしながら、これからのNOTEを作っていきたいと思います。
2026年8月4日
追加)現在の私の「思う」と「考える」の違い

「思 う」→世界との関係の中で意味が立ち上がる
「考える」→立ち上がった意味を構造化する
私の思考の根本には「時実利彦」先生の思想があるのかもしれません。
脳科学者でありながら、人間を単なる神経活動の集合としてではなく、「人間として生きる存在」として捉えていました。つまり、
脳があるから人間なのではなく、
人間として生きることによって脳という存在も意味を持つ
という方向性なのかもしれません。
