日本の理学療法士が直面する根源的な問いー何に責任を負う専門職なのかーそして私の感じる危機感
はじめに
近年、日本の理学療法士の役割拡大や地域包括ケアへの参画、さらにはダイレクトアクセスなど、理学療法士の自由度や活動領域の拡大について議論される機会が増えています。しかし、その一方で、より本質的な問いはあまり語られてこなかったように思われます。
それは「理学療法士とは何に責任を負う専門職なのか」という問いです。
現行制度の下で日本の理学療法士が法的に直接負っている責任は、実は非常に限定的であると思われます。そして、この「責任の曖昧さ」こそが、今後の職能の方向性を考える上で重要な問題になっているように思われるのです。
そしてそれが、まずは理学療法士協会会員と非会員との間での「格差」として、顕著になって表れてくるのだと思います。
法律上の責任として「理学療法を行う」
理学療法士及び作業療法士法では、理学療法士は「医師の指示の下に理学療法を行う者」と定義されています。
つまり、理学療法士は、命を守ること、診断を下すこと、治療方針を決定すること、に対して最終責任を負っているわけではありません。
これらの責任は医師に帰属しています。理学療法士が法的に負っている責任は、医師の指示のもとで理学療法を安全かつ適切に実施することであると思われます。
言い換えれば、「患者を治す責任」ではなく、「理学療法という行為を適切に遂行する責任」を負っている専門職なのだと思います。
「身体機能の改善そのもの」にも責任を負っていない
臨床では、筋力の改善、歩行能力の向上、転倒予防などが目標として掲げられます。ところが、それらの結果を必ず実現する責任を負っているわけではありません。
身体機能の変化には、疾患そのもの、加齢、家族環境、社会環境、経済状況など、多くの要因が影響することが知られています。
また、近年のガイドラインを見ても、「効果は弱い」「エビデンスは限定的」といった表現は少なくありません。
つまり、理学療法士は身体機能改善というアウトカムそのものに対して、法的な責任を負っているわけではないのです。
活動や参加、健康や生活も責任対象ではない
ICFの普及によって、近年は「活動と参加」が重視されています。しかし、社会参加の実現には、家族関係、地域資源、就労環境、行政サービス、経済状況など、多くの要素が関与することも知られています。
理学療法士はその一部に関わる存在ではありますが、活動や参加全体の責任主体ではありません。
同様に、健康や生活、さらには地域そのものに対しても、理学療法士が単独で責任を負うことはできません。高血圧や糖尿病、フレイル、転倒予防、介護予防などに関与することはあっても、最終責任を理学療法士一人が負う仕組みにはなっていません。
例え地域包括ケアや地域共生社会が進んだとしても、「地域を維持する責任」「孤立を防ぐ責任」「住民の生活を支える責任」は、行政、介護、看護、家族、住民、企業などを含む社会全体で共有されるべき課題であると思われます。
現実には「結果」ではなく「過程」に責任を負っている
つまり、現行制度の理学療法士が実際に責任を負っているものは、結果よりもプロセスです。例えば、評価を行うこと、リスクを管理すること、運動療法を実施すること、説明を行うこと、記録を残すこと、他職種と連携すること、などです。
これは結果責任というよりも、適切な手続きを遂行する責任、すなわち「プロセス責任」のようなものだと思います。この構造は、医師の指示という制度によって長年支えられてきたとも言えます。
未完成のまま残された「責任の中心」
医師であれば生命と疾病、看護師であれば療養を支えるシステム、薬剤師であれば薬物療法、という比較的明確な責任対象が存在します。
一方で理学療法士は、身体機能なのか、活動と参加なのか、健康なのか、生活なのか、地域なのか、その中心が未だ定まりきっていないのだと思います。
そして、この曖昧さこそが、これまでの日本の理学療法士を支えてきた一方で、今後の発展における最大の課題になるのかもしれないと考えます。
統括調整室以後の時代に問われるもの
2026年に設置されたリハビリテーション統括調整室は、医療、介護、障害福祉、予防を横断的に調整する司令塔として位置付けられています。
今後、裁量の拡大、地域包括ケア、健康増進、地域共生社会、ダイレクトアクセスなどの議論が進めば、自由度の拡大とともに、専門職としての責任の所在も確実に問われることになると思われます。
そのとき社会や行政が求めるのは、「どこまで業務を拡大できるか」ではなく、「理学療法士とは何に責任を負う専門職なのか?」という問いに対する説明なのだと思います。
現時点で最も正確に表現するなら、日本の理学療法士とは、「医師の指示の下で、安全かつ適切に理学療法というプロセスを遂行することに責任を負う専門職」であり、身体機能、活動、参加、健康、生活、地域といったアウトカムそのものに対して、単独で責任を負う専門職にはなっていません。だからこそ、2040年に向けて本当に問われるのは、「どこまで自由になるか」ではなく、「私たちは何に責任を負う専門職になろうとするのか」という問いなのだと考えています。
そして、この問いこそが、半田一登元会長らが長年目指してきた国際水準の理学療法士像と、日本の制度の中で育ってきた理学療法士との間に存在する最も深い溝なのかもしれません。
なぜなら、世界基準の理学療法とは、単に業務範囲を広げることではなく、「何に対して専門職として責任を引き受けるのか」を自ら定義し、その責任に対して社会から信任を得ることだからです。
そして日本の理学療法は今まさに、その入口に立っているように思われるのです。
私の思う危機感
さらに私が危機感を抱いているのは、この問いに対する答えが、理学療法士内部において必ずしも共有されていないと思われることです。
理学療法士の中には、学術研究やエビデンス、国際的な専門職像を重視しながら制度や職域の発展を目指す層が存在する一方で、多くの臨床現場では、目の前の患者の変化や身体機能への介入、経験に裏打ちされた技術を重視する価値観が存在しています。
もちろん、両者は本来対立するものではなく、相互に補完し合う関係にあるはずです。しかし、もし互いの立場を理解できず、それぞれが異なる未来像を描いたまま進むならば、専門職全体として「理学療法士とは何者なのか」という共通の物語を失っていく可能性があります。
特に、2026年に設置されたリハビリテーション統括調整室のように、医療・介護・障害福祉・予防を横断してリハビリテーション全体を再設計しようとする動きが進む中では、行政が求めるものは、個々の専門職内部の理論や価値観ではなく、社会に対して説明可能な一つの価値であるように思われます。
もし理学療法士自身が、「私たちは何に責任を負う専門職なのか」という問いに対して共通の方向性を示すことができなければ、理学療法士固有の複雑な専門性を丁寧に守るよりも、より管理しやすく、より説明しやすく、他職種との境界も曖昧な形へと再編されていく可能性は否定できません。
つまり、人口減少やAI、医療財政の制約といった外部環境だけが危機なのではなく、専門職内部が共通の物語を失い、それぞれが異なる理想像を語るようになることこそが、理学療法士という専門職の存在意義そのものを揺るがす最も本質的な危機なのではないかと感じています。
だからこそ今後必要なのは、研究か臨床か、学術か技術か、身体機能か地域か、といった二項対立ではなく、それぞれの立場の違いを認めながらも、「理学療法士とは何に責任を負い、どのような価値を社会に提供する専門職なのか」という共通の物語を、専門職自身の手で再び描いていくことなのかもしれません。
そして、はじめに現れてくるのが「リハビリテーション統括調整室」による推進が、主に理学療法士協会会員に向けての方向性であり、非会員に関しては影響力を持たない※)、という状況だと思います。
そして、これらの物語を共有できるかどうかこそが、2040年に向けた日本の理学療法の未来を左右する大きな分岐点になるように思われるのです。
※)会員と非会員でどのような格差になるかは、その時の勢いや状態で変わると思われます。非会員の場合、個人の影響力によって保険外での立場を獲得する可能性があります。会員の場合、働き方の選択肢が今より増えるかもしれませんが、給与はどの程度かは不明です。
