真夏のお盆怪奇譚『迎え火の向こう側』
第一話 帰郷
八月十三日。
アスファルトから立ち昇る陽炎が、空気そのものを揺らしていた。
昼間は蝉が耳を壊しそうなほど鳴いていたのに、夕暮れになると、その声は不自然なくらい一斉に消えた。
静かだった。
静かすぎた。
「今年も来たか。」
祖母の家は、山に囲まれた小さな集落の一番奥にある。
築百年以上。
黒ずんだ柱。
少し傾いた廊下。
歩くたびに鳴る床。
幼い頃は秘密基地のようで好きだった家なのに、大人になって戻ると、不思議な圧迫感が胸にまとわりつく。
玄関を開けると、線香の香りが鼻をくすぐった。
祖母が笑う。
「おかえり。」
その笑顔を見て安心したはずなのに、背筋だけは冷えたままだった。
仏壇の前には迎え火。
祖母が静かに言う。
「今日は帰ってくる日だからね。」
誰が?
そう聞こうとして、言葉を飲み込んだ。
窓の外。
誰かが立っていた気がした。
白い服。
長い髪。
だが、見直すと誰もいない。
気のせい。
そう思おうとした瞬間。
カタン……
二階から音がした。
祖母は顔色ひとつ変えない。
「あぁ、今年も来たねぇ。」
「……誰が?」
祖母はゆっくり微笑んだ。
「帰ってきた人たちだよ。」
その夜。
眠れなかった。
真夜中。
午前二時四十分。
ギシ……
ギシ……
誰かが二階を歩いている。
一定の速度。
ゆっくり。
こちらの部屋へ向かってくる。
呼吸が浅くなる。
心臓だけが異常なほど大きな音を立てる。
足音は部屋の前で止まった。
コン……
一度だけ。
障子が叩かれた。
開ける勇気はなかった。
朝になるまで、布団の中で目を閉じ続けた。
第二話 見知らぬ家族
朝になると、昨夜の恐怖が嘘だったように蝉が鳴いていた。
「夢だったのか。」
そう思いながら仏壇を見る。
線香が一本だけ折れていた。
祖母は何も言わない。
昼過ぎ。
墓参りへ向かう。
山道は湿気を含み、土の匂いが濃い。
祖父の墓に手を合わせた、その時だった。
風が止まる。
完全な無音。
そして耳元で、
「……ありがとう。」
確かに聞こえた。
男とも女とも分からない、小さな声。
振り返る。
誰もいない。
だが視界の端に、人影が立っていた。
五人。
老人。
女性。
子ども。
知らない顔ばかり。
なのに全員がこちらを見ている。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
次の瞬間には消えていた。
「見えた?」
祖母が聞く。
「……何が?」
「ご先祖さん。」
心臓が止まりそうになった。
その夜。
また足音。
今度は廊下だけではない。
階段を降りる音。
水を飲む音。
笑い声。
話し声。
家の中に十人以上いるような気配。
なのに誰もいない。
怖い。
怖いのに耳を塞げない。
ふと窓を見る。
黒い影が庭に立っていた。
こちらを見ている。
目だけが異様に白い。
その瞬間。
家中の音が止まった。
黒い影が、一歩踏み出した。
同時に仏壇の鈴が、
チーン……
誰も触れていないのに鳴った。
黒い影はゆっくり後ろへ下がり、闇へ溶けていった。
祖母が静かにつぶやく。
「入れなかったね。」
第三話 連鎖
翌日から奇妙なことが続いた。
時計は毎日二時四十分で止まる。
写真には知らない老人が映る。
携帯電話には無言電話。
出ると、ザーッという音だけ。
夜になると必ず廊下を歩く足音。
眠れない日が続いた。
精神が少しずつ削られていく。
「このままじゃ、おかしくなる。」
帰ろう。
そう決めた。
車に乗り込む。
エンジンをかける。
かからない。
何度試しても動かない。
その瞬間だった。
バックミラー。
後部座席。
黒い影が座っていた。
心臓が凍る。
振り向く。
誰もいない。
再びミラーを見る。
今度は目の前まで顔が近づいていた。
叫んだ。
その瞬間。
ドンッ!!
車全体が激しく揺れた。
何かがぶつかった。
外へ飛び出す。
そこには誰もいない。
しかし車の後ろには、大きな鹿が倒れていた。
あと数秒早く走り出していたら。
真正面から衝突していた。
祖母が歩いてきた。
「だから帰れなかったんだよ。」
「……え?」
「止めてくれたんだ。」
誰が?
祖母は空を見上げた。
「ご先祖さん。」
最終話 送り火
八月十六日。
送り火の日。
夕焼けが山を赤く染めていた。
祖母は静かに火を灯す。
炎は小さい。
なのに、どこか温かかった。
その時。
また、あの黒い影が現れた。
今度は家の前。
ゆっくり近付いてくる。
空気が重い。
息ができない。
身体が動かない。
影があと数歩というところで、不思議なことが起きた。
家の周囲に、人影が現れ始めた。
一人。
二人。
五人。
十人。
二十人。
老若男女。
誰一人として言葉を発さない。
ただ静かに円を描くように家を囲んでいた。
その姿は半透明で、夕暮れに溶け込むようだった。
その中には、幼い頃に亡くなった祖父の姿もあった。
写真でしか知らない曾祖父もいた。
会ったこともない人たちまで、そこに立っていた。
黒い影は動きを止める。
一歩下がる。
また一歩。
やがて苦しむように身体を歪ませると、煙のように消えていった。
その瞬間。
一陣の風が吹く。
送り火の炎が優しく揺れた。
どこからともなく、たくさんの声が重なった。
「元気で。」
「また来年。」
涙が止まらなかった。
恐怖で震えていた身体が、不思議なくらい温かい。
祖母が隣で笑った。
「怖かったかい?」
頷く。
祖母は優しく肩を叩いた。
「でもね。」
「お盆って怖い日じゃないんだよ。」
「帰ってきた家族が、今年もちゃんと生きているか見に来る日なんだ。」
空を見上げる。
満天の星が広がっていた。
あの日、二階を歩いていた足音。
仏壇の鈴。
誰もいない廊下。
耳元の「ありがとう」。
あれは恐怖ではなかった。
帰ってきた家族の気配だったのだ。
そして最後まで家へ近付こうとしていた”何か”から、自分を守るために、ご先祖たちは見えない場所で立ち続けてくれていた。
人は一人で生きているように見えて、本当はそうではない。
目には映らなくても。
名前を知らなくても。
受け継がれてきた命の数だけ、見えない優しさに囲まれているのかもしれない。
だから今年も私は、迎え火に手を合わせる。
「また帰ってきてください。」
そう呟くと、風鈴が一度だけ、静かに鳴った。
最後に
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
夏になると、不思議と怪談が恋しくなる人も多いですよね。
怖いはずなのに、なぜか読んでしまう。
もしかすると、それは単純に恐怖を求めているのではなく、「目には見えない何か」を心のどこかで信じているからなのかもしれません。
実は、お盆には昔からこんな言い伝えがあります。
「お盆の期間中、家の中で何もない場所を見つめて笑う子どもがいたら、ご先祖さまが遊びに来ている。」
もちろん本当かどうかは分かりません。
でも、小さな子どもや動物が、誰もいない場所をじっと見つめたり、嬉しそうに手を振ったりする姿を見たことがある人は、意外と多いそうです。
科学では説明できないこと。
けれど、すべてを否定することもできないこと。
あなたにも、そんな不思議な体験はありませんか?
もし良ければ、「あれは何だったんだろう…」と思った体験や、お盆にまつわる不思議な出来事をコメントで教えてください。
「子どもが誰もいない場所へ手を振っていた。」
「亡くなった家族の夢を見た。」
「説明できない体験をしたことがある。」
どんな小さな出来事でも大歓迎です。
皆さんの体験談を読ませていただくのを楽しみにしています。
それでは、また次の物語でお会いしましょう。
暑い夏の夜、どうか皆さんのもとにも、ご先祖さまの優しい見守りがありますように。
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