日本人はなぜ行動しないのか―フランスで見た市民の姿から考える
渡仏前、私がフランスについて思い描いていたのは、観光地としての華やかなパリではなかった。むしろ社会の矛盾に抗い、声を上げる市民の姿だった。たとえば、1999年に南仏で建設中のマクドナルドをトラクターで破壊し、グローバリズムへの抗議を象徴したジョゼ・ボヴェの行動である。彼はその後、欧州議会議員に選出され、2024年には政治ドラマ映画『Une affaire de principe』の主人公としてスクリーンに登場した。渡仏する前から、フランスには「闘う市民」の伝統が息づいていると知っていた。
実際に現地で目にした「黄色いベスト運動」や「交通ストライキ」は、その延長線上にある出来事だった。しかし、ここで問題にしたいのはフランスの姿ではない。むしろ同じ先進国である日本が、なぜこれほどまでに沈黙を守り続けているのか、という点である。

日本の現状
日本では長年にわたり賃金がほとんど上がっていない。むしろ、物価上昇の影響で実質的な手取りは減少傾向にある。OECDの統計によれば、2021年から2025年初期にかけて日本の実質賃金は累積でおよそ2%下落しており、主要な先進国の中でも際立った停滞ぶりだ。2025年に入っても状況は改善せず、同年6月の実質賃金は前年同月比で1.3%減少し、6か月連続のマイナスとなった。
この停滞は人々の生活に直結している。相対的貧困率はおよそ16%に達し、国民の6人に1人が社会の中で相対的に厳しい生活を強いられている計算になる。とりわけ深刻なのはひとり親世帯で、約44.5%が貧困状態にあり、これはOECD諸国の中でも最悪の水準だ。フルタイムで働いても生活が苦しい、いわゆる「ワーキングプア」も少なくない。
こうした数字が示しているのは、日本社会において生活苦を抱える人が確実に増えているという現実である。にもかかわらず、その不満が社会的な行動に結びつくことはきわめてまれだ。この「沈黙」と「忍耐」こそが、次に考えなければならないテーマである。
📌 コラム:相対的貧困率とは?
「貧困」というと、衣食住が満足に得られない「絶対的貧困」を思い浮かべがちだ。しかし先進国でより重要なのは「相対的貧困」である。これは、その国の所得中央値の半分に満たない水準で暮らしている人々の割合を示す指標だ。
相対的貧困は、生活そのものが不可能という意味ではない。しかし教育機会や社会参加に大きな制約をもたらし、世代を超えて格差が固定化する危険をはらんでいる。だからこそ、社会全体の健全性を測る重要な指標とされている。
行動しない日本人
賃金が停滞し、生活苦を抱える人が増えているにもかかわらず、日本では抗議行動やストライキはほとんど起こらない。OECD諸国と比べても、日本のストライキ件数は極端に少なく、国際的に見ても異例の静けさである。
この背景にはいくつかの要因がある。まず、文化的に「和を乱さない」ことが重んじられてきた点が大きい。不満を表明することは「迷惑をかけること」と見なされやすく、沈黙や我慢が社会生活の潤滑油とされてきた。
次に、戦後の高度経済成長期の記憶が影響している。あの時代には「我慢して働けば生活は向上する」という経験が国民全体で共有されていた。その成功体験が、現在の苦境にあっても「そのうちよくなるだろう」と考えてしまう心性につながっている。
さらに、労働組合の弱体化も見逃せない。組織率はおよそ15%程度まで低下し、産業全体での交渉力は著しく低下している。組合の影響力が弱まれば、労働者個人が職場や社会に対して声を上げることはますます難しくなる。
こうした文化的・歴史的・制度的要因が重なり合い、日本社会では不満が「沈黙」と「忍耐」に吸収されてしまう。ここにこそ、日本人がなぜ行動に出ないのか、その理由がある。
フランス人の行動力
2018年11月、渡仏して間もなく「黄色いベスト運動」が始まった。私はデモ隊と警官隊が衝突している通りから一ブロック離れて歩いていた。直接現場を見たわけではないのに、鼻を突くような強烈な刺激臭が漂ってきた。それが催涙ガスだと知った。
「催涙ガス」という言葉は以前から知っていた。しかし、この時初めて、それが単なる言葉ではなく身体の感覚として実感に変わった。怒号やサイレンの音は記憶に残っていない。それほどに、匂いの感覚が鮮烈だった。
翌年末から翌々年初めにかけては、長期にわたる交通ストライキに直面した。メトロはほとんど完全に止まり、わずかに動くバスは常に満員で、乗車を諦めざるを得なかった。私はアパートからパリ中心までの片道40分を徒歩で移動した。冬の冷たい空気の中、同じように徒歩で通勤・通学する人々の列に加わる日々が続いた。
時々トラムを利用したが、停留所に着くたびに乗り降りで押し合いになり、口論が起こることは珍しくなかった。ときには手を挙げる人の姿さえ見かけた。それでも、市民の多くはストを支持していた。多少の不便を受け入れてでも、労働者の権利を尊重するべきだという考えが共有されていたからだ。
この経験は、権利を守るために不便を甘受するという姿勢が、社会全体に根づいていることを強く印象づけた。日本で同じ光景を想像するのは難しい。
両者の比較
日本とフランスを比べると、まず制度の違いが目に入る。フランスでは労働組合が依然として強い影響力を持ち、政府の改革に対して全国規模でストライキを組織できる力を残している。大統領制の下で政策が一気に進められるため、市民が街頭に出て抗議する場面も少なくない。それに対して日本の労働組合は企業ごとに分断され、組織率もおよそ15%にまで低下している。結果として、労働者が横の連帯を築きにくく、抗議行動は広がらない。
しかし、むしろ決定的な違いは「心性」にある。日本人は幼いころから「暴力は良くないこと」と教えられ、衝突や実力行使は避けるべきものと刷り込まれている。そのため、不満があっても「投票」で意思を示す以外の手段は想像しにくく、かえってその枠に縛られてしまう。
フランス人の感覚はそれとは異なる。実力行使も政治的権利の一つとして認められており、ストライキやデモは正当な手段とみなされる。衝突や混乱を避けることよりも、権利を守ることが優先されるのである。多少の不便や社会的摩擦を伴っても、それは「民主主義が機能している証拠」と理解されている。
制度の違いも確かに存在する。だが、むしろ決定的なのは「暴力を回避することを第一とする日本人の心性」と「実力行使をも権利の延長として認めるフランス人の心性」の違いである。
私たち日本人に求められること
フランスで見た光景は、私にとって忘れがたいものとなった。催涙ガスの匂いに包まれたあの日、私は「権利を守るために実際に行動する」人々の姿を初めて実感した。交通ストライキの日々には、不便を甘受してまで労働者を支持する市民の姿を目の当たりにした。そこには「争いを避ける」ことよりも「権利を守る」ことを優先する価値観が根づいていた。
一方の日本では、生活苦を抱える人が多いにもかかわらず、抗議やストライキに発展することはほとんどない。「暴力は良くない」と教えられ、不満を行動に変えることを避けてきた結果、市民の政治参加は「投票」に限られ、それに縛られてきた。しかし、投票だけでは変化を生み出せないことは、すでに多くの人が感じているのではないだろうか。
もちろん、フランスのように実力行使を伴う必要はない。だが、声を上げる方法は多様に存在する。署名や市民運動への参加、SNSでの発信、地域での小さな集まりもまた「権利の行使」である。大切なのは、沈黙と忍耐に閉じこもるのではなく、自らの不満や不安を可視化し、共有することだ。
最近になって「財務省解体デモ」のような新しい市民の動きが芽生えているのは、その兆しかもしれない。日本社会が本当に変わるためには、沈黙の伝統を超え、声を上げる文化を育てていく必要がある。民主主義を生かすのは、他ならぬ市民一人ひとりの行動にかかっている。
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