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桜餅はまだやわらかい

よもぎさんに捧ぐ



 

夫はサクラが嫌いだった。

理由を聞くと、いつも同じ答えが返ってくる。

「だって嫌いなんだもん」

子どもみたいな言い方をして、少しだけ笑う。けれどその笑いの奥には、なにか触れてはいけないものがあるようで、私はそれ以上追及しないことにしていた。

ついでに言えば、夫はオットットも嫌いだった。

「口の中で暴れる感じがする」

そう言って、あのお菓子を指先でつまんでは遠ざける。その仕草が妙に真剣で、私は何度も吹き出しそうになった。

 

夫は詩を書く人だった。

書斎にこもっては、難しい顔でノートに向かい、時に机を叩き、時に笑い、そして疲れ果てたように眠る。紙の上には、私にはよくわからない言葉が並んでいた。

ある日、ちらりと見えた一行。

──満開のものほど、信じてはいけない。

それが桜のことだと、すぐにわかった。

 

夫が寝込んだのは、春のはじめだった。

季節が変わるたびに体調を崩す人だったけれど、その年は少し長引いた。近所の人が見舞いに来てくれて、狭い部屋が少しにぎやかになる。

「嫌いなものって、誰にでもあるよねぇ」

そんな話題になったとき、夫は迷わず言った。

「サクラ」

間を置かず、きっぱりと。

その場にいた一人が、ふっと笑った。昔から仲の良くない友人だった。

「へえ、じゃあいいもの持ってきてやるよ」

その笑い方が、私はどうにも気に入らなかった。

 

翌日、その友人は本当にやってきた。

手にしていたのは、淡い桃色の包み。

「お見舞いだよ」

開けるまでもなくわかる。桜餅だった。

部屋の空気が少しだけ固まる。

夫は無言でそれを見つめ、それからゆっくりと手に取った。

一瞬、何かを考えるように指先が止まる。

次の瞬間。

ぽい、と。

まるで子どものいたずらみたいに、夫はそれを投げた。

 

けれど、その友人もただではなかった。

軽く身をひねってそれを受け止めると、にやりと笑って、すぐに投げ返した。

「おっと」

その声を聞いたとき、私は嫌な予感がした。

 

桜餅は、きれいな放物線を描いて。

そのまま、夫の口元にぶつかった。

 

「……」

 

言葉にならない音。

そして、夫はそのまま後ろに倒れ込んだ。

 

あまりにあっけない出来事だった。

オットット、と叫ぶ間もなかった。

 

それからのことは、あまりはっきりとは覚えていない。

気がつけば夫は言葉を失っていた。

医者は難しい名前を口にしたけれど、要するに、もう以前のようには話せないということだった。

 

書斎の机には、書きかけの詩が残っていた。

──春はやわらかすぎて、僕の輪郭を溶かす。

 

夫は、ほとんど一日中眠って過ごすようになった。

起きているときも、どこか遠くを見ている。声をかけても、返事はない。ただ、わずかにまぶたが揺れるだけ。

 

息子は、それでも毎日話しかけた。

「お父ちゃん、きょうね」

学校であったこと、転んだこと、先生にほめられたこと。

そして、帰り道で見つけた花を、そっと枕元に置く。

たんぽぽ、すみれ、名も知らない小さな花。

 

ある日、息子が困った顔で言った。

「もう、お花、これしかなかったよ」

手にしていたのは、淡い桃色。

 

私は思わず息をのんだ。

 

「サクラのお菓子じゃないよ、花だよ」

息子はそう言って、ためらいながらそれを置いた。

 

そのときだった。

 

掛布の下で、夫の足が、ほんの少しだけ動いた。

 

私は、思わず笑ってしまった。

「あなたという人は」

 

息子は気づいていない。

ただ、いつもより少しだけ嬉しそうに、父の手を握っていた。

 

それから数日後。

 

夫は、静かに息を引き取った。

ちょうど、街のあちこちで桜が咲き始めた頃だった。

 

けれど不思議なことに、この家のまわりには一本も桜がなかった。

最初からなかったのか、誰かが避けたのか、もうわからない。

 

ただひとつ確かなのは。

 

三人でおやつを囲む時間が、とうとう訪れなかったということだ。

 

春になるたびに、私は思い出す。

あのやわらかいものが、あまりにもやわらかすぎた午後を。

 

そして、つい口に出してしまうのだ。

 

「桜餅の、ばかやろう」


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