午後三時の抱擁
よもぎさんに捧ぐ
自信というやつは、気づけばどこかに落としている。
うまくいかなかった打ち合わせの帰り道、ショーウィンドウに映った自分の顔がやけに弱々しく見えた。誰かに怒鳴られたわけでもないのに、胸の奥で「まだ足りない」と責める声がする。
そんなとき、思い出す午後がある。
冬の光が斜めに差し込む、小学校の体育館。二年生の音楽発表会。午後3時ちょうどに幕が開くと、何度も言われていた日だ。
あの頃の俺は、クラスでいちばんリコーダーが不安定だった。
練習のたびに止められる。
「そこはラ。もう一回」
わかっている。頭では。でも、指が言うことを聞かない。高い音は裏返り、低い音はかすれる。
隣の席のケンタウルス健太が、小声で言った。
「お前さ、ちょっと音、暴れてるぞ」
なぜ“ケンタウルス”なのかは知らない。走るのがやたら速いからか、無駄に自信満々だからか、とにかくそう呼ばれていた。
「ちゃんとやってるし」
思わず強く返す。
「怒ってねえよ。ただ、みんなで合わせたいだけ」
“みんなで”。
その言葉に、胸がざらついた。自分だけが外側にいるような気がした。
家でもうまくいかなかった。
夕方、母が台所で鍋をかき混ぜている横で練習していると、「今電話中だから、ちょっと静かにして」と言われた。責められたわけじゃない。ただタイミングが悪かっただけ。
それでも、リコーダーを持ったまま、急に腹が立った。
どうせ俺の音なんて、うるさいだけなんだろ。
そんな棘が、胸の奥に増えていった。
本番当日。幕の向こうのざわめきが波みたいに揺れている。先生が言う。
「間違えても止まらないこと。最後までやることが大事です」
その言葉に、少し救われた気もする。でも同時に、苛立ちもあった。
どうせ俺は間違える前提かよ。
前奏が鳴る。心臓がやけにうるさい。
最初の音で、案の定、裏返った。
体育館の空気が一瞬ひっかかる。後ろのほうで誰かが動く気配。笑われた気がした。実際は違ったのかもしれない。でも、俺の耳には確かに届いた。
その瞬間、何かがぷつんと切れた。
もういい。
うまくやろうとして縮こまるのは、やめだ。
どうせ外すなら、堂々と外してやる。
俺は大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺の奥まで刺さる。
次の音を、思いきり吹いた。
きれいじゃない。でも、はっきりしている。
ケンタウルス健太が横目で見る。その目は、呆れ半分、少しだけ驚き半分。
音楽は流れていく。クラスの音の列の中で、俺の音だけが少し角ばっている。それでも止まらない。指がずれても、音が濁っても、最後まで。
途中、また派手に外した。顔が熱くなる。でも、もう俯かなかった。
最後の音まで、吹ききった。
拍手が鳴る。
舞台袖に戻ると、ケンタウルス健太がニヤリとした。
「さっきの高いとこ、めちゃくちゃ強気だったな」
「もう、どうでもよくなった」
「はは。まあ、止まらなかったのはすげえよ」
その一言で、胸の奥のざらつきが少し溶けた。
先生にも呼ばれた。
「音はまだ課題。でも、最後までやりきったのは立派だよ」
注意もあった。全体のバランスの話もされた。それでも、“やりきった”という言葉は残った。
午後3時を少し回ったころ、体育館を出た。
冬の光がやわらかい。昇降口で母が待っている。
顔を見た瞬間、何も言わずに抱きしめられた。
「頑張ったね」
それだけだった。
うまくできたかどうかじゃない。完璧だったかどうかでもない。不格好で、もしかしたら少し迷惑もかけた。でも、舞台の上で逃げなかったこと。
その俺ごと、抱きしめられた。
午後3時の光ごと。
あれが、俺の最初の自信だったのかもしれない。
自信ってのは、失敗しないことじゃない。
失敗しても、自分をやめないことだ。
大人になった今でも、うまくいかない日はある。“みんなで”の輪から外れた気がして、また胸がざらつく日もある。
そんなとき、あの午後3時を思い出す。
音を外しながらも、胸を張って吹いた自分。
ニヤリと笑ったケンタウルス健太。
そして、何も言わずに包んでくれた腕のぬくもり。
あの抱擁が、今も背中に残っている。
だから今日も、少しくらい音が外れてもいいと思える。
息を吸い込んで、もう一度、吹いてみようと思えるのだ。
