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『殴り殴られ詩人ダバダ』ep.39「硝子天井とカッコウの抵抗」


よもぎさんに捧ぐ


夕餉の匂いがまだ部屋に残っていた。

向かいの親父は、いつものように湯呑みを傾けながら新聞をめくっている。紙の擦れる音が、妙に大きく響いた。あの音が止まった瞬間に顔を上げられたら終わりだ、と直感する。

俺は息を殺した。

障子の隙間から、親父の肩の動きを盗み見る。規則的だ。まだこちらを気にしてはいない。

今だ。

草履を持ったまま、音を立てないように廊下へ出る。床板の軋みを避けて、足裏で探るように進む。玄関の引き戸に手をかけた瞬間、背後で紙が止まる気配がした。

心臓が跳ねる。

振り返らない。振り返ったら、そこで終わる。

そのまま外へ滑り出た。

冷たい空気が喉に刺さる。肺が勝手に大きく息を吸い込み、さっきまで抑えていた鼓動が一気に暴れ出した。

——気づかれていない、はずだ。

そう思いながらも、背中に視線が張り付いている気がしてならない。

俺は路地の影に身を寄せた。

向かいの親父は、少ししてから外へ出てくるはずだ。いつもそうだ。決まった時間に、決まった動きで。

だから、追う。

理由はうまく説明できない。ただ、あの親父の動きには何かある。そんな気がしてならないのだ。

しばらくして、戸の開く音がした。

来た。

親父はゆっくりと歩き出す。足取りは重くも軽くもない、ただ一定の速度。振り返ることもなく、真っ直ぐに進んでいく。

俺は距離を取って後を追った。

曲がり角で一度、見失いかける。焦って飛び出した瞬間、視界がぶれる。どちらへ行ったのか分からなくなる。

——どっちだ。

右か、左か。

迷った。

胸の奥がざわつく。選べない。どちらも同じに見える。いや、そもそも本当に分かれ道だったのか?

その時だった。

「おい、朔ちゃん。」

声が降ってきた。

振り向くと、大ちゃんがいた。いつもの顔で、いつもの調子で、まるで最初からそこに立っていたみたいに。

「なにしてんだ、こんなとこで。」

「……追ってた。」

「誰を。」

「向かいの親父を。」

大ちゃんは一瞬だけ眉をひそめて、それから肩をすくめた。

「やめとけって。ああいうのはろくなことにならねえ。」

「でも——」

言いかけて、言葉が続かない。何を言おうとしていたのか、自分でも分からなくなる。

大ちゃんはため息をついた。

「いいから、来い。学校、行くんだろ。」

「……ああ。」

そうだ。学校だ。なぜか分からないが、行かなければならない気がする。

俺は親父のことを諦めて、大ちゃんの後をついていった。

道はいつもと同じはずなのに、妙に長く感じた。足音が二重に響く。自分のものと、大ちゃんのもの。それだけのはずなのに、なぜかそれ以上に聞こえる気がする。

「なあ。」

思わず口を開いた。

「なんだ。」

「さっきの分かれ道、あれ……どっちだった?」

「は?」

大ちゃんは振り返って、怪訝な顔をした。

「分かれ道なんかねえよ。一本道だろ。」

その言葉に、足が止まりかける。

だが、大ちゃんは気にせず歩いていく。俺は慌てて追いかけた。

——一本道。

そうだ。一本道だったはずだ。

だった、はずだ。

学校が見えてきた。

門をくぐると、空気が変わる。妙に澄んでいる。音が遠くなる。代わりに、何か別のものが耳の奥で鳴り始める。

「研究棟、行くぞ。」

大ちゃんが言った。

俺はうなずいた。

歩きながら、無意識に口が動く。

「かっこう……かっこう……」

自分でも気づかないうちに、歌っていた。

「なんだそれ。」

「……分からない。」

でも、止められない。

「かっこう、かっこう——」

喉が乾く。声が擦れる。それでも続ける。

なぜかは分からない。

ただ、これをやめたらいけない気がする。

研究棟が見えた。

——違う。

思わず足を止める。

こんな建物だったか?

もっと、暗くて、重くて、息苦しい場所だったはずだ。なのに今は、光が差し込んで、妙に整っていて、どこか——

軽い。

「おい、どうした。」

「……変だ。」

「何が。」

「全部。」

大ちゃんは肩をすくめた。

「おめえが変なんだよ。」

その言葉が、やけに遠くで響いた。

俺は再び歩き出す。

「かっこう、かっこう——」

歌を続ける。

建物の中に入ると、さらに違和感が強くなる。天井が高い。形が歪んで見える。いや、歪んでいるのは俺の方かもしれない。

八つの角を持つ天井が、上から見下ろしている。

吸い込まれそうだ。

「やべえ、隠れろ。」

突然、大ちゃんが腕を引いた。

壁の隙間に押し込まれる。息を止める。

「静かにしろ。」

大ちゃんの声が低くなる。

足音が近づいてくる。

冷たい音だ。硬い靴底が床を打つ音。

「かっこう……」

思わず漏れそうになるのを、歯を食いしばって止める。

来る。

視界の端に、青緑の影が映る。

——アオミドロ。

名前が浮かぶ。

同時に、胸の奥がざわつく。

何をされたわけでもない。なのに、嫌だ。見てはいけない気がする。

歌わなければ。

「かっこう……かっこう……」

今度は小さく、しかし確かに音にする。

自分をつなぎ止めるために。

何に操られているのか分からない。でも、抗わなければならない。

アオミドロの足音が、ゆっくりと通り過ぎていく。

大ちゃんの手が震えているのが分かる。

やがて、音が遠ざかる。

静寂が戻る。

「……行ったか。」

大ちゃんが息を吐く。

俺は壁から身体を引きはがした。

膝が震えている。

それでも、天井を見上げる。

八角形の硝子が、光を散らしている。

綺麗だ。

だからこそ、怖い。

「行くぞ、朔ちゃん。」

大ちゃんの声がする。

俺はうなずいた。

「かっこう……」

小さく、もう一度だけ歌う。

それが、まだ自分である証拠のような気がした。

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