『殴り殴られ詩人バラバラ』ep.49「旋回する名、踊る老人」
よもぎさんに捧ぐ
最初に聞こえたのは、床を擦る靴音ではなく、羽音だった。
ぶぶ、と低く、しつこく、部屋の中心をなぞるように巡回している。視線を上げると、黒い点が円を描いていた。ひとつではない。ふたつ、みっつ、いや、数えようとすると増える。
その円の中心に、男がいた。
「鳴海……清一……先生……」
上原朔也は、喉の奥に引っかかった音をどうにか押し出した。乾いた声だった。呼んだはずなのに、自分の声として手応えがない。名前だけが空中に置き去りにされる。
男は振り向かない。
代わりに、足が動いた。
擦る、ではない。滑る。沈み、反発し、回る。腰が落ち、肩が遅れ、腕が遅れて追いつく。床と体の間に、見えない軸があるようだった。
──回っている。
しかも、ただの回転ではない。軌道がある。意図がある。蝿の軌跡と重なるように、男の身体が円をなぞる。
「鳴海清一先生!」
今度は少し強く言った。
その瞬間、男の足が止まる。
止まった、と思ったら、次の瞬間には反対方向に回転していた。まるで名前に反発したかのように。
「……なんだ。」
遅れて声が来る。背中から。息の合わない応答。
朔也は一歩踏み出す。床板が鳴る。だが男は距離を保つ。円の半径がわずかに広がる。
「先生、あの……」
言葉が続かない。
続ける理由が見つからない。
それでも呼ばなければならないという焦燥だけが残る。
「鳴海清一先生。」
繰り返す。音を整える。舌の上で転がす。喉の奥で鳴らす。そうしてようやく、自分の位置が定まる。
ここにいる、と。
男の肩がわずかに揺れる。笑ったのか、息が乱れただけなのか判別がつかない。
「……ひどい呼び方だな。」
軽く、しかし確かに届く声。
その瞬間、蝿の軌道が変わる。円が歪む。ひとつが朔也の顔の前を横切り、もうひとつが男の耳元にまとわりつく。
耳朶が赤い。
帽子はない。髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。だが動きは鈍らない。むしろ滑らかさを増す。
「鳴海……」
「違う。」
遮られる。
初めて正面を向いた。
眼は、やけに澄んでいた。
「鳴門清二、だ。」
言い切る。
朔也は一瞬だけ理解を拒否する。言葉がずれる。名が滑る。固定していたものが外れる。
「……鳴海清一先生。」
あえて、戻す。
男の口元が歪む。
「呼びたい方で呼べ。」
そう言って、再び回る。今度は低い。床に近い。手がつき、体重が移り、脚が弧を描く。ブレイクダンス。そんな単語が遅れて頭に浮かぶ。
──嘘だろ。
朔也は思う。
この男は、ただの教授崩れの老いぼれではなかったのか。埃をかぶった本棚と、乾いたインクと、噛み合わない講義だけの存在ではなかったのか。
どこにこんな体力がある。
どこにこんな熱がある。
「鳴門清二!」
今度はあえて、その名で呼ぶ。
男の動きが一瞬だけ鋭くなる。回転のキレが増す。床を打つ音が変わる。
反応している。
つまり、どちらの名でも、呼べば動く。
──装置だ。
朔也の中で言葉が固まる。
呼べば、応じる。応じるから、関係が生まれる。関係があるから、自分の立つ位置が決まる。
ならば、どの名でもいい。
いや、違う。
どの名で呼ぶかによって、相手の動きが変わる。
「鳴海清一先生。」
ゆっくり、丁寧に。
男の回転が緩む。上体が起きる。視線が合う。
「鳴門清二。」
短く、強く。
再び沈む。速度が上がる。蝿の軌道がぴたりと重なる。
──面白い。
朔也は笑いそうになるのを抑える。
試す。
「鳴海。」
半分だけ。
男が止まる。
完全に。
蝿だけが回る。
沈黙。
空気が薄くなる。
次の瞬間、男が崩れるように床に手をつく。肩が上下する。息が浅い。
トランス。
言葉が浮かぶ。
呼称で状態が切り替わる。動きと名が結びついている。意識が名に引きずられている。
ならば。
朔也は一歩踏み出す。
円の内側に入る。
蝿が二人を囲う。線が閉じる。
「鳴海清一先生。」
近い距離で呼ぶ。
男の顔が上がる。
近い。
汗の匂い。インクの匂い。埃の匂い。
「……なんだ。」
低い。
遅い。
しかし、確かに向けられている。
朔也は息を吸う。
言うことは、ない。
それでも言わなければならない。
「俺も、やっていいですか。」
男の眉がわずかに動く。
返事はない。
だが、拒否もない。
朔也は足を滑らせる。見よう見まねで腰を落とす。手をつく。回ろうとする。
回らない。
軸がない。
体がついてこない。
膝が軋む。肩がぶれる。視界が揺れる。
──できるかよ。
内心で毒づく。
だが、やめない。
「鳴門清二!」
叫ぶ。
男が動く。
その動きに合わせて、朔也の身体が引っ張られる。遅れて回る。歪んだ円。だが確かに回転している。
蝿の軌道が二重になる。
重なり、外れ、また重なる。
部屋が歪む。
時間が伸びる。
音が遅れる。
「鳴海清一先生!」
「鳴門清二!」
交互に呼ぶ。
男の動きが変わる。
朔也の動きが引きずられる。
境界が曖昧になる。
どちらが先に動いているのかわからない。
どちらが呼んでいるのかもわからない。
ふと、手首を掴まれる。
強い。
止まる。
床が戻る。
視界が定まる。
蝿だけがまだ回っている。
「……その格好で、ここまで来たのか。」
息の混じった声。
近い。
顔が近い。
朔也は笑う。
「ええ、まあ。」
それしか言えない。
男が目を逸らす。
耳が赤い。
さっきよりも、はっきりと。
「……いや、いい。」
手が離れる。
距離が戻る。
蝿の軌道がほどける。
円が消える。
だが、何かは残る。
朔也は立ち上がる。膝がわずかに震える。だが、さっきよりも軽い。
振り返る。
男はもう動いていない。だが、静止しているわけでもない。次に動くための余白がある。
──現役だ。
言葉が自然に浮かぶ。
隠居にしておくには惜しい。
あの動き。あの熱。
あれはまだ、終わっていない人間のものだ。
「鳴海清一先生。」
最後に呼ぶ。
今度は確認のためではない。
ただの呼びかけ。
男は応じない。
それでいい。
朔也はドアに手をかける。
外に出たら、大ちゃんとイヨさんに話そう。
あの爺さんは、ただの爺さんじゃない。
名前ひとつで世界を回す。
蝿と踊る、現役だ。
ドアを開ける直前、もう一度だけ振り返る。
男の指先が、わずかに動く。
回転の予兆。
朔也は笑う。
十分だ。
外の空気は、やけに明るかった。
