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『殴り殴られ詩人バカラ』ep.54「甘ったるい午後」



よもぎさんに捧ぐ



 夕暮れが、街をゆっくりと煮詰めていた。
 舗道の端で踏まれた桜の葉が、乾いた音を立てる。
「朔ちゃん!」
 振り向くと、大ちゃんが外套をばたつかせて駆けてくる。
 息を切らし、頬を赤くしている。
「……また先に行こうとしてただろ」
「別に」
「嘘つけ。そういう顔してる」
 肘が脇腹に入る。軽いが、遠慮はない。
 俺は肩をすくめた。
「おめェこそ、ずいぶん気合入ってるじゃねえか」
「そ、そんなことねえよ!」
 言いながら襟を直すあたり、図星だ。
 ふたりで店の前に立つ。
 ガラス越しに見える光は、妙に柔らかく、どこか遠い。
「……入るか」
「おう」
 扉が鳴る。小さな鐘の音が、やけに耳に残った。
「いらっしゃいまし」
 声が、やけに甘い。
 それだけで、大ちゃんの背筋が伸びるのがわかった。
 女給が近づいてくる。
 動きはゆっくりで、妙に距離が近い。
「こちらへどうぞ」
 席に案内されるまでの数歩が、やけに長い。
 大ちゃんは明らかに歩き方が変だ。
「……なんだよ、その歩き方」
「うるせえな!」
 小声でやり取りしながら席に着く。
 妙に落ち着かない。
 椅子も机も、すべてが少しずつよそよそしい。
「ご注文は?」
「アイスクリームソーダ水を……」
 大ちゃんが言い切る。
 言い切ったあとで、こちらを見る。
「……じゃあ、俺も同じので」
「かしこまりました」
 女給が微笑む。
 その一瞬、大ちゃんの顔がさらに赤くなる。
「……おめェ、やられてんな」
「やられてねえ!」
 否定が早い。分かりやすい。
 運ばれてきた硝子のグラスは、妙にきらきらしていた。
 緑の中に、白いアイス。
 そのてっぺんに、小さな赤。
「……さくらんぼ」
 大ちゃんがつぶやく。
「当たり前だろ」
 ストローをくわえながらも、視線はちらちらと女給の方へ行く。
「なあ、朔ちゃん」
「あ?」
「さっきの本、あれ……」
 俺は鞄から本を出した。
 紙は少し古びている。
「読むか」
「え?」
「読むって言ってんだよ」
 ぱらりと開く。
 大ちゃんがごくりと喉を鳴らす。
「……いいのか?」
「いいから、声に出せ」
「お、おう……」
 ぎこちない音読が始まる。
 ところどころ詰まりながら、変に真面目な声で。
 それが妙におかしくて、笑いそうになる。
「まあ……」
 気づくと、女給が立っていた。
 大ちゃんが固まる。
 声が止まる。
「お客様……そのようなものは……」
 言葉は柔らかいが、目は笑っていない。
「……すみません」
 俺が本を閉じる。
 女給はしばらくこちらを見ていたが、ふっと肩の力を抜いた。
「ほどほどに、ね」
 そう言って去っていく。
 しばらく沈黙。
 大ちゃんがストローを噛む。
「……やべえな」
「何が」
「全部だよ」
 グラスの中で、白がゆっくり溶けていく。
 そのとき、料理が来た。
「ライスカレーでございます」
「お、おう……」
 頼んだ覚えのないものを前に、大ちゃんが戸惑う。
「食えよ」
「……おう」
 一口。
 その瞬間、顔が少しだけ落ち着く。
 しばらくして、大ちゃんがぽつりと言った。
「なあ……朔ちゃん」
「あ?」
「こういうのよりさ」
「ん?」
「ホントに色っぺえのは……」
 スプーンを止める。
「色気なんか、とっくになくしたイヨさんだっぺ」
 俺は思わず吹きそうになった。
「……なんだそりゃ」
「なんかよ、あっちの方が、安心すんだよ」
 大ちゃんは鼻の下をこすりながら、笑う。
 俺はグラスの中を見る。
 赤い実が、ゆらゆら揺れている。
 さっきまでやけに目立っていたそれが、
 今はただの飾りに見えた。
「……さくらんぼは、もういいから」
「え?」
「帰っぺ」
「は?」
 俺は大ちゃんの首根っこを掴んだ。
「ちょ、ちょっと待て!」
「いいから」
 椅子が鳴る。
 グラスの中で、最後に赤が沈む。
 外に出ると、空気がやけに軽い。
「なんだよ急に!」
「なんでもねえ」
「まだカレー残ってんのに!」
「食い過ぎだ」
「違うだろ!」
 騒ぎながら歩き出す。
 背後で、また鐘の音が鳴った。
 振り返らなかった。

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