天上天下寿限無独尊
よもぎさんに捧ぐ
廊下は午後の光で白く伸びていた。
窓際に置かれた古い木のベンチ。そこに恭平は腰を下ろしている。
手の中で、カスタネットが二枚、静かに重なっている。
誰もいない。
体育館の向こうから、吹奏楽部の音がうっすら流れてくる。
金属の光みたいなトランペット。
少し遅れて、太鼓。
恭平はその方向を見ない。
カスタネットを指に通す。
音は出さない。
ただ、指の腹で木の面を撫でる。
廊下の奥で、誰かが笑った。
すぐ遠ざかる。
昼休みはもう終わる。
恭平は、ゆっくり立ち上がる。
音楽室の前まで歩く。
ドアは少しだけ開いている。
中では三人が楽器を片づけていた。
譜面台の影が床に伸びている。
恭平は覗かない。
ただ、壁にもたれて立つ。
そのとき。
カスタネットの音がした。
小さい。
乾いた、短い音。
……タ。
たぶん誰かが落とした。
その一音で、廊下の空気が止まる。
恭平の手が止まる。
指の中のカスタネットが、ほんのわずかに揺れる。
……タ。
もう一度。
恭平の喉の奥で、なにかが動く。
けれどそれは、言葉にならない。
音楽室の中で、誰かが笑った。
「落とすなよ」
「違う、鳴っただけ」
また、音。
……タ。
その瞬間。
恭平の頭の中に、突然、声が響く。
寿限無寿限無
五劫のすりきれ
海砂利水魚の水行末雲来末
恭平は瞬きをする。
廊下は静かだ。
なのに、声は止まらない。
風来末食う寝るところに住むところ
やぶらこうじのぶらこうじ
パイポパイポパイポのシューリンガン
恭平は壁から離れる。
歩く。
階段を降りる。
声は続く。
グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの
どこかでカスタネットが鳴る。
……タ。
恭平は足を止める。
声が大きくなる。
長久命の長助
終わらない。
終わる気配がない。
恭平は、校庭の端まで歩く。
フェンスの向こうで風が草を揺らしている。
手の中のカスタネットを見下ろす。
昔。
まだ一年の頃。
音楽室で、先生が言った。
「カスタネットは、簡単そうで難しい」
そのとき、恭平は笑った。
簡単だと思った。
ただ鳴らすだけ。
でも、先生は言った。
「間がすべて」
そして、先生が一度だけ鳴らした。
……タ。
教室が静かになった。
恭平はその音を、まだ覚えている。
いま。
頭の中では、寿限無が続いている。
寿限無寿限無
五劫のすりきれ
終わらない。
恭平はフェンスにもたれる。
カスタネットを指にはめる。
鳴らすつもりはない。
でも指が閉じる。
木が触れる。
……。
鳴らない。
恭平はもう一度閉じる。
……タ。
小さい。
乾いた音。
その瞬間。
寿限無が止まる。
頭の中が真っ白になる。
風だけが動いている。
恭平はもう一度鳴らす。
……タ。
また。
……タ。
同じ音にならない。
わずかに違う。
木の重さ。
指の力。
空気。
恭平は何度も鳴らす。
……タ。
……タ。
……タ。
遠くでチャイムが鳴る。
恭平は鳴らすのをやめる。
カスタネットを外す。
ポケットに入れる。
校舎の窓に空が映っている。
雲がゆっくり動く。
恭平はそのまま立っている。
しばらくして、あくびが出た。
長いあくび。
目の端に涙がにじむ。
教室に戻る気もしない。
フェンスの影が少し伸びる。
風が吹く。
恭平は空を見る。
寿限無はもう聞こえない。
代わりに、どこかでまたカスタネットが鳴った気がした。
……タ。
たぶん気のせいだ。
恭平はベンチに座る。
ポケットの中の木が指に当たる。
目を閉じる。
空の光がまぶたを通る。
そのまま、少しだけ眠る。
夢の中で。
誰かが、遠くで名前を呼んでいる。
寿限無寿限無五劫のすりきれ海砂利水魚の──
恭平は振り向かない。
ただ、指だけが動く。
……タ。
