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『殴り殴られ詩人酒場』ep.40「鈍光の階」

よもぎさんに捧ぐ


実家に残してきたオヤジやお袋を泣かせてきたし、今さら顔を合わせる度胸もない。

いやはや、落第続きでなにものにもなれない自分に、そろそろ終止符を打たなきゃならん時期だと思っている。

理由は簡単だ。

どうしても会わなきゃいけない奴がいる。

そいつが、おれに妙なものを残していった。

呪い、と言ってしまえばそれまでだが、もっと質が悪い。

思考の芯が濁る。言葉が途中で腐る。比喩が勝手に増殖して、意味が骨抜きになる。

まるで脳みそが蟹味噌になったみたいに、どろりと崩れていくのだ。

おかげでそれ以来、まともな文章が一行も書けなくなった。

書こうとすると、文が途中で自分の足を食い始める。

笑えない話だ。

だから来た。

あいつのいる研究棟へ。

夜は都合がいい。人間の気配が薄くなるし、言い訳もしやすい。

門は閉まっていたが、閉まっているだけだった。

鍵はかかっていない。

いや、かかっているのに、かかっていないような感触だった。

押せば開く。

そういう種類の拒絶だ。

門柱の陰に、見張りらしき男が腰を落としていた。首が前に垂れている。寝ているのか、起きているのか分からない。

顔を覗き込むと、呼吸だけが律儀に続いていた。

おれはそいつの肩に触れかけて、やめた。

起こす理由がないし、起こさない理由もない。

ただ、どちらも選ばなかっただけだ。

門をくぐると、空気の粘度が変わる。

さっきまで夜だったはずなのに、ここでは夜が沈殿している。

踏み込むたびに、足の裏に遅れてくる感触。

研究棟はすぐ見えた。

昼間に見た時は、ただの古い建物だったはずだが、今は妙に低く見える。

押しつぶされているような、逆にこちらが持ち上げられているような、どちらともつかない歪み方をしていた。

正面の扉は立派だった。

立派すぎて、用がない人間を拒むというより、用のある人間すら疑うような顔をしている。

だから裏へ回った。

正面から入る気にはなれない。

そういう場所は、大抵正面から入ると痛い目を見る。

裏手には、小さな扉があった。

取っ手は冷たい。だが、嫌な冷たさじゃない。

むしろ、こちらの熱を期待しているような温度だ。

押すと、拍子抜けするほど軽く開いた。

その瞬間、重心を持っていかれた。

中に引き込まれた、と言った方が正確かもしれない。

背後で扉が閉まる音がした。

ゆっくりと、確実に。

それで終わりだ。

光は一切ない。

目を凝らすという行為が無意味になるまで、数秒とかからなかった。

手を伸ばす。

空気しかない。

さらに伸ばす。

ようやく壁に触れた。

ざらつきも、滑らかさもない、どっちつかずの表面。

触れているはずなのに、触れていないような感覚が混じる。

指先の輪郭が曖昧になる。

おれは壁伝いに進んだ。

足先が何かに当たる。

蹴る。

転がる。

音が遅れて返ってくる。

しゃがんで確かめると、段差だった。

階段だ。

上へ続いている。

おれは少し笑った。

上に行くしかない構造というのは、いつだって信用できない。

だが、他に選択肢もない。

手をついて登る。

靴底が邪魔で、途中で脱いだ。

床の冷たさが直接足裏に触れる。

それでようやく、ここに来たという実感が出る。

段数は数えなかった。

数えたところで意味がないと、どこかで分かっていたからだ。

最後の段を越えた瞬間、空間が開けた。

見えるはずのないものが見える。

天井がある。

八角形だ。

光源はない。

それでも輪郭だけが白く浮いている。

まるで、光がそこだけを避けているみたいだ。

おれはその中心を見上げた。

吸い込まれる、というより、押し上げられる感覚。

上にあるのに、底のような気配。

落ちていく方向が、上に設定されている。

意味が分からないまま、理解だけが先に成立する。

なるほど、と思った。

ここでは、上が下だ。

そういう話だ。

笑える。

こんな単純なことに、いままで気づかなかった。

胸の奥が軽くなる。

軽くなりすぎて、どこかへ抜けていく。

そのままにしておく。

止める理由がない。

おれは膝をついた。

腕を広げる。

この身体が、いまどちらに属しているのか分からなくなる。

外套の裾が揺れる。

風はないはずだが、揺れている。

遅れて、音がする。

コツン、と。

また、コツン。

靴だ。

さっき脱ぎ捨てたはずのそれが、どこかで転がっている。

あるいは、誰かが蹴っている。

おれは振り返らなかった。

振り返る必要がないと思った。

ここで必要なのは、前でも後ろでもなく、ただ上だけだ。

そのときだ。

声がした。

「何をしている」

低い。

温度がない。

意味だけが、まっすぐ届く声。

「上原朔也」

名前が呼ばれる。

その音の並びが、自分のものだと理解するまで、少し時間がかかった。

理解した瞬間、何かが固定される。

さっきまで曖昧だった輪郭が、急に線を持つ。

逃げ場がなくなる。

「来い」

短い。

命令でも、誘いでもない。

ただ、方向だけを指定する言葉。

おれは立ち上がれなかった。

膝をついたまま、八角形の中心を見ている。

見ているというより、見られている気がした。

ああ、と思う。

たぶん、ここだ。

おれの文章が壊れた場所。

言葉が意味より先に腐り始めた、あの起点。

あいつがいる。

確信に近い予感が、遅れて形を持つ。

逃げるか。

進むか。

どちらでもない第三の選択肢が、どこかにある気がした。

だが、それを探す余裕はない。

「……来たぞ」

声にならない声で、ようやくそう返した。

喉がうまく動かない。

それでも、届いた気がした。

空気がわずかに変わる。

温度ではなく、密度が。

おれはそこで初めて、視線を下ろした。

暗闇の中に、誰かが立っている。

顔は見えない。

だが、そこにいることだけは、はっきりと分かる。

おれの呪いを知っているやつだ。

あるいは、作ったやつだ。

ようやくのご対面だ。

遅すぎたかもしれないし、まだ間に合うのかもしれない。

どちらでもいい。

ここまで来た以上、もう戻れない。

おれはゆっくりと、片足に力を込めた。

立ち上がる準備だけが、やけに正確にできていた。


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