『殴り殴られ失神酒場』ep.27「月燈のムラムラ敷布』
よもぎさんに捧ぐ
花茄子色の夕陽が、ゆっくりと紺を濃くしていくころだった。
「♪空カラカラのから財布〜それともゴメンメンメン、免罪符〜の唄」を合唱するのにも飽きて、俺はぼんやりと空を見ていた。
心の中は、きれいに空っぽだった。
悲しくもない。嬉しくもない。
ただ、からん、と乾いた音がしそうなほどの無。
そのときだ。
「♪どうにもとまらないっ!」
いきなり背後から、やけに張りのある声が飛んできた。
振り向くと、大ちゃんが腰に手を当て、全力で腰を振っている。
「♪うわさを信じちゃいけないよっ!」
どう見ても、昭和全開の物真似だった。
しかも本人は本気だ。
「……」
俺は無視した。
だが大ちゃんは止まらない。
「♪私の心はウブなのさっ!」
くるりと回り、学生帽を斜めにかぶり直す。
なぜかキメ顔。
「朔ちゃん! ほれ、サビ来るど!」
「……やめろ」
「♪どうにも、とまらない〜〜〜っ!!」
全力で回転した瞬間、足を滑らせた。
それを見た瞬間、俺の口から小さな笑いが漏れた。
「……ぶっ」
しまった、と思ったときにはもう遅い。
俺は肩を震わせ、笑いをこらえようとしたが無理だった。
「あははははっ!」
階段を駆け上がりながら笑ったせいで、足元がぐらつく。
「あっ」
右足が宙に浮いた。
世界が一瞬、ゆるむ。
「朔ちゃん!」
大ちゃんの手が伸びる。
がしっ。
腕を掴まれ、ぐいっと引き戻された。
胸が、どくん、と鳴る。
「笑いすぎだべ。落ちたらどうすんだい」
「おまえが……変な踊りするからだろ……」
言いながらも、まだ笑いが残っている。
さっきまで空っぽだった胸の奥が、じんわり温かい。
夕陽はすでに濃藍へと変わりつつある。
「なあ朔ちゃん」
「ん?」
「ムラサキ敷布と、たいそうなゴン、どっちが好きだい?」
「は?」
意味不明だ。
「文学の話だど。おめえ、そういうの好きだべ」
俺は帽子を目深にかぶる。
「……どっちでもいい」
「逃げるな。どっちだ」
しつこい。
しばらく黙ってから、俺はぼそりと言った。
「……ムラムラ敷布だね」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「出たー! 朔ちゃん最低発言!」
大ちゃんが腹を抱えて笑う。
俺もつられて笑う。
階段の途中で、二人してしゃがみこんだ。
息が苦しいほど笑った。
夜。
下宿の小部屋。
大ちゃんはすでに布団に転がっている。
「食うんでねえぞ……宇治金……」
寝言だ。
俺は机に向かう。
万年筆を握る。
青黒インクが、原稿用紙にじわりと滲む。
──ムラムラ敷布は夜にこそ真価を発揮する。
書いて、吹き出す。
なんだこれは。
だが止まらない。
──蝙蝠帝都大生は、コウモリ傘を差しながら子守をする。
想像する。
黒い詰襟の学生たちが、巨大なコウモリ傘の下で、赤ん坊のコウモリをあやしている。
「ねんねんころりよ、帝都の子……」
くだらない。
だが、妙に楽しい。
昼間の空虚が、紙の上でくすぐったい形に変わっていく。
「そんなくだらないこと書いてると地獄行きだよ!」
奥からイヨさんの声。
「はいはい」
俺は笑う。
地獄でもなんでもいい。
書いていられるなら。
ふと窓の外を見る。
月が、いたずらっぽく浮かんでいる。
昼間、百は飛んでいた蝙蝠は、今は二匹だけ、庇で逆さに眠っている。
静かだ。
さっきまでの不安が嘘みたいだ。
後ろで大ちゃんが寝返りを打つ。
「……朔ちゃん」
寝言か、半分起きているのか。
「ん?」
「落ちんなよ」
それだけ言って、また寝息。
俺は小さく笑う。
落ちないさ。
落ちそうになっても、
誰かが掴んでくれる。
それに。
俺はちゃんと、書いている。
青黒いインクは、夜の色だ。
でもその下には、さっきの夕焼けの笑いがちゃんと残っている。
階段で転びそうになったことも、
変な物真似も、
ムラムラ敷布も。
全部、今日の命の証拠だ。
原稿用紙のマス目が、少しずつ埋まっていく。
外で風が吹き、蝙蝠の影が揺れる。
月は悪戯顔のままだ。
朝はまだ遠い。
でも、遠いだけだ。
来ないわけじゃない。
「どうにも、とまらない〜」
小さく鼻歌を歌ってみる。
くすっと笑いながら、俺はまたペンを走らせた。
空っぽだった心は、今、ちゃんと動いている。
友達がいて、
くだらない冗談があって、
夜にこっそり夢を書く。
それだけで、人は十分、生き返る。
蝙蝠帝都大生も、きっとどこかで笑っているだろう。
俺は最後の一行を書き終え、ペン先で小さな月をなぞった。
明日もきっと、
転びそうになりながら、
笑って駆け上がるのだ。
(続く)
