おやつ日和 16 クイニーアマン
おやつとは、江戸時代の「八つ時(やつどき)」に由来する。それは単に空腹を満たすだけではない。江戸庶民にとって、ささやかながらも大切なひとときであったという。
本日のおやつはクイニーアマン
國學院大學の人間開発学部 健康体育学科 準教授の町田樹氏は、元フィギュアスケート選手であり、2014年のソチ五輪にも出場したオリンピアンだ。
現役時代は「氷上の哲学者」などと言われ、その言動にも注目が集まったが、フィギュアスケートをスポーツの側面だけではなく、芸術の側面からもアプローチし続けたアスリートでもある。
2014年の全日本選手権後に現役を電撃引退してからは(当時、私は三日三晩泣き続けた)、プロスケーターとして活動。自らを氷上の実演家と称した。
また、フィギュアスケートや新体操などのスポーツを、アーティスティックスポーツと定義し、学際的な観点から研究を行っていることでも知られている。
そんな町田氏のスケートは、現役の頃から独自の解釈や視点を取り入れたプログラムが話題となったが、プロ転向後はさらに芸術性に磨きがかかり、数々の伝説的な名プログラムを実演してきた。
どのプログラムも、細部まで推考し尽くされた雅趣に富んだものであったが、私には特別に忘れられないプログラムがひとつある。
「ジュ・トゥ・ヴー Je te veux 」だ。
フランスの写真家ロベール・ドアノーの代表作でもある「パリ市庁舎前のキス」をモチーフに、同じくフランスの作曲家エリック・サティの「ジュ・トゥ・ヴー」の音楽に乗せた、お洒落なショートフィルムのような抒情溢れるプログラムだった。
それは1950年代のパリに住む、ある男女の物語だ。
中折れ帽を目深に被り、キャメル色のトレンチコートを羽織った町田氏が、咥え煙草で登場する。柔らかなサティのメロディに合わせたステップから始まり、女性と出会って恋に落ち、やがて儚く恋は終わる。
過ぎ去った恋の追憶に浸りながら、静かに幕は降りていく。
女性の象徴として赤いスカーフが効果的に使用されており、まるでそこに恋の相手が存在しているかのような錯覚を覚えたものだ。
町田氏は当時、この作品について、お洒落なカフェでお茶を飲みながら気軽に観られるようなプログラムがひとつ欲しかったと話されていた。
そんなこともあって、元々は歌曲集「ワルツと喫茶店の音楽」のうちのひとつだった「ジュ・トゥ・ヴー」を聴くと、私はお茶をしたくなる。日差しが眩しい昼下がりでも、今日のような雨模様の夕方でも、ゆっくりとコーヒーを口に運びながら、ただ何でもない、何者でもない時間を過ごす。
コーヒーのお供は、クイニーアマンだ。
クイニーアマンは、フランスのブルターニュ地方を発祥とする伝統的な焼き菓子だ。パン生地にたっぷりのバターと砂糖を練り込み、キャラメリゼされた表面の生地がパリッとして香ばしく、シンプルでどこか懐かしい気持ちにもなる、不思議なお菓子だ。

日本では、小皿に乗るような小さなものを多く見かけるが、フランスではホールサイズのものもあるらしい。
クイニーアマン(バターのお菓子の意)というだけあって、バターの風味が、濃いコーヒーとよく合う。バターを多過ぎるほどに配合したパン生地を作ってしまった、という失敗から生まれたと言われるクイニーアマンだが、19世紀のブルターニュでは、男性が女性にプロポーズする際にこのお菓子を贈る習慣があったそうだ。
バターの甘く芳醇な香りを纏ったクイニーアマンをいただきながら、記憶の中では町田氏が「ジュ・トゥ・ヴー」を踊っている。音楽に合わせて軽やかに跳ねるように、時に重く、時に愛おしく。
氷を削るエッジの音が、切なく響く。
それは遠い日の記憶をも思い起こさせる、郷愁にも似た、何でもない日の特別な時間だった。
本日もまた、良いおやつ日和でした。
ごちそうさまでした。
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